第五章 皇帝カルガンド(6)
「……ん?」
たまたま目を向けた先に、気になる人物がいた。
はっきり顔が見えないのでわからないが、背格好では若い女のようだ。壁を支えにするように立っていて、どうも気分でも悪いらしい。
膨らんだ下腹部を庇うようにしている──見るからに妊婦だった。それも、おそらくは臨月間近の。
何かの買出しなのかもしれないが、夕暮れの薄闇の中、飲み屋も軒を連ねるような場所にその姿は雰囲気的に不似合いだ。
胃は空腹を訴えている。だが、気分の悪そうな妊婦を前にして食欲を優先出来るほどルウェンの神経は図太くなかった。周囲を見回せば、人通りは少なくその様子に気付いているのはルウェンだけの可能性も高い。
(……先にリヴァーナを呼びに行くべきか?)
出産などは医師の管轄だ。専門家であるリヴァーナなら適した対応をしてくれるに違いない。万が一、産気づいてでもいたら大事である。
問題は呼びに行っているその間に妊婦が倒れてしまわないかという事だ。距離的にはそこまで遠くはないが、その間は目を離す事になる。しばし悩み、ルウェンはまず女性の安全の確保を優先する事にした。
丁度酒場の近くで、店の従業員らしい人間が忙しそうに店の外に椅子やらテーブルなどを出している。外でも飲食出来るようにしているらしい。
(あの椅子を一つ借してもらうか)
まだ酒場が込み合う時刻でもないし、状況が状況だ。それくらいは融通してもらえるだろう。
あんな風に壁に寄りかかっているよりは、椅子に腰掛けた方が少しは負担が減るに違いない。取りあえずの落ち着き先を決めた所で、問題の妊婦の方へと足を向ける。
流石に見も知らぬ男に突然声をかけられたら驚かせてしまうだろう。さて、どう声をかけていいものか──そんな事を悩んでいると、不意にぐらりと目の前の体が傾いだ。
「っ!!?」
考える余裕などなく、反射的にルウェンの身体は動いていた。
地面は硬い石畳だ。受け身など一般の女性が知るはずもないし、頭や腹を庇う余裕があるとは思えない。下手すれば──最悪の事態になり得る。
おそらく、ここまで必死になって走った事は数える程しかないだろう。最近で言えば、先日の西領でミルファが魔物に襲われる事を危惧した、あの時以来ではなかろうか。
それほどの全力疾走の甲斐あって、地面に倒れる前に何とかその腕を捕まえ、身体を支える事に成功した。
(ま、間に合った……!?)
安堵すると同時に一気に冷や汗が噴き出す。
「だ、大丈夫か!?」
顔を覗き込むと、完全に蒼白になった顔が僅かに持ち上がった。かろうじて意識はあるらしいが、答える余裕はないらしい。
僅かに遅れて異変に気付いたらしい周囲の人間も駆け寄って来る。
「どうしたんですか!?」
「何があった!」
「どうやら具合が悪いらしいんだ。休めるような場所は?」
「あ、はい! こちらに!!」
酒場の従業員達がすぐさま椅子を持って来る。そこに何とか座らせた所で、ようやく女性が口を開いた。
「ご、ごめんな……さい……。ご迷惑、を……」
今にも消え入りそうな、細い細い声。苦しげなのに、それでも申し訳なさそうに言葉を紡ぐ様子に、その人となりがわかるようだった。
ルウェンは少しでも安心させるように、ゆっくりとした口調を心がけて話しかけた。
「大丈夫だ、そんな事は気にしなくていい。丁度、知り合いの医師が近くにいる。今から呼んで来るからもう少し辛抱してくれ」
その言葉に小さく頷くのを確認し、ルウェンは周囲の人々に目を向けた。
「医師を呼んでくる。それまでこの人の事を頼んでいいか?」
「あ、はい……!」
酒場の主人らしい年配の男が請合う。この場は任せても大丈夫だろうと思っていると、淡々とした声が響いた。
「その必要はありません」
振り返ると、買い物を終えたらしい大きな包みを抱えたリヴァーナとフィルセルの姿がそこにあった。まさに救いの神だ。
「リヴァーナ、丁度いい所に! 実は……」
「大体の事は診ればわかりますから結構です。取り合えずこれを」
状況を説明しようとした言葉をばっさりと斬り捨て、絶句したルウェンにリヴァーナは当たり前のように抱えていた包みを押し付けた。一体何が入っているのか、見た目は小さいのに異様に重い。
「この方の知人はいませんか? 家人がいるのなら知らせなければ」
女性の脈を取りながら、リヴァーナが問いかける。その淡々とした物言いが、何故かものすごく心強く感じるのは気のせいだろうか。
医師がいる事で落ち着いたのか、従業員達はお互いに顔を見合わせながら考え込むような顔になる。すぐにわからない所を見ると、おそらくこの付近の住人ではないのだろう。
こんな身重の身体で何故こんな所まで来たのか──。
その時、女性がか細い声で何事か呟いた。
「……はい? これですか?」
その言葉を聞き取ったリヴァーナが地面に落ちていた小さな包みを拾い上げる。リヴァーナの問いかけに、女性は弱々しくも頷いた。
「どうしたんだ? 彼女は何と?」
「どうやらここには届け物に来たようです。セイに、と言っていますが……」
「セイ?」
女性の身元を明らかにする手がかりだろうが、それだけではわかる事はあまりにも少ない。人名らしいその言葉に一同が首を傾げていると、考え込んでいた従業員の一人があっと声をあげた。
「もしかして、リンデルさんの奥さん!?」
声を上げた酒場の従業員に、周囲の人間の目が一斉に集まる。
「知り合いなのか?」
「え、ええ。うちの店とも取引のある酒屋のご主人なんです。奥さんには一度も会った事がないからわかりませんでした。リンデルさんならさっきまで店にいたんですけど……、そういや大事な忘れ物をしたから一度戻るって」
「行き違いか!」
妻は妻でおそらく夫が困るだろうと、ここまで届けに来たのだろう。実に麗しい夫婦愛だが、状況はあまりよろしくない。
「誰か行って呼んで来てやれ!!」
「は、はい!!」
ルウェンの声に従業員が慌てて駆け出し、女性の身元がわかった事でその場はいくらか安堵した空気に包まれた。騒ぎを聞きつけ一時的に集まった人々が散って行くのを横に見ながら、容体を見るリヴァーナに声をかける。
「リヴァーナ、その人の具合は?」
「軽い貧血のようです。安静にしていれば大事には至らないでしょう」
リヴァーナの下した所見に、ほっと胸を撫で下ろす。
ルウェン自身も腕が良いと思っている(出産や婦人病関係まで得意分野なのかは不明だが)専門家の言葉だ、これほどの保障はない。
安心した所でルウェンはいつもなら騒がしいフィルセルがおとなしい事に気付いた。
女性を診るリヴァーナの助手よろしく横に控えて、ずっとその様子を見守っていたようだが、その間一言も口を開いていない。
幼くても施療師の卵だ。流石にこのような状況で騒ぎはしないだろうが、かと言って黙り込んでいるのも違和感がある。今までの事を思い出しても、女性に励ましの言葉なりかけていても不思議ではないに──。
「どうした、フィル?」
怪訝に思って声をかけると、フィルセルははっと我に返ったように瞬きした。
「え? えと……、何でもないです」
「……そうか?」
何だか様子がおかしい。
変だと思いつつも、ルウェンは追求する事は出来なかった。従業員に連れられて件の女性の夫が到着したからだ。
「イルニ!!」
おそらく女性のものと思われる名前を呼んで駆け寄って来るのは、予想していたよりも幾分若い男だった。ルウェンと同じか、せいぜい一つか二つ年上といった所だろうか。
子供が一人くらいいても確かに不思議ではないが、酒屋の主人と聞いていたのでもっと年齢を重ねた人物と思っていたのだ。
「大丈夫か!? こ、子供は……ッ!?」
オロオロとうろたえている様子が初々しい。和む場面ではないはずなのだが、何となく微笑ましく感じて、ルウェンは気安く話しかけた。
「安心しろ、軽い貧血という話だ」
「そうですか!」
男はほっとしたように肩から力を抜いた。その事で少し落ち着きを取り戻したらしい。軽く居住まいを正すとルウェンに頭を下げた。
「もしかして、あなたが妻を助けてくれたんですか? ありがとうございます! いくら感謝しても足りません! ああ、本当に良かっ……」
ルウェンに向ける心の底から安堵した様子の笑顔が、何故かそのまま不自然に固まった。