第五章 皇帝カルガンド(4)
(……あー、絶対に変に思われたよなあ)
逃げるようにミルファの元を立ち去ってしまった己を顧みて、深く辛気臭いため息をつきながらルウェンは空を仰いだ。
『昔、帝都にいたのでしょう?』
ミルファの何気ない質問で不意に思い出したのは、今まですっかり忘れていたある男の顔だった。
出来れば一生思い出したくもなかった相手だが、うっかり思い出してしまえば、後はいろいろと芋づる式に記憶が蘇ってくる。
──そう。思い出したくもない、あれこれを。
周囲に人の気配がなければ、恥も外聞もなく奇声でも発して頭を掻き毟っている所である。こちらも恥ずかしさで言えば変わりなさそうだが、それ程に恥ずかしくも思い出したくない思い出だった。
逃げるように故郷を離れたルウェンが辿り着き、その後しばらく足を留めた街にこのキーユが何処か似ているせいもあるかもしれない。
今となっては十年近く昔の事だ。そう思うと、月日の流れる早さを実感する。
かつてルウェンは皇帝のお膝元、帝宮にもほど近い街──レザドで、ならず者同然の生活を送っていた。
レザドは当時では比較的珍しい、いささか治安の悪い街で、そういう場所だったからこそ生きて行けたのだろう。
その頃のルウェンは孤児と言うには育ち過ぎていたし、労働するには後ろ盾もなく、何より自分と自分を取り巻く環境に絶望していた事もあり、真面目に働こうという気持ちもなかった。
排他的な地方よりも帝都は似たような境遇の人間が集まりやすかったのか、時にそういう半端者同士でつるむ事もあった。だが、そこに友情があったかと言うと首を傾げる。
殴り合いに発展するような喧嘩は日常茶飯事で、死人こそ出さなかったが流血沙汰になった事もある。兵士に追われた事だって幾度もあった。
──詰まる所、そんな殺伐とした日々を送っていたのだ。
今の自分から考えるとまさに『若気の至り』で、思い出すだけでも恥ずかしい。逆に当時の自分が今の自分を見たら、まず目を疑い、次に笑えない冗談だと思った事だろう。
今まで自分が悪さを働いて追いかけられていた兵士に──しかも皇女に騎士として剣を預けるほどの剣士に──なるなど、夢に描いた事すらなかったのだから。
(結局、あの野郎の言ってた通りになっちまったって訳か……)
今まで思い出しもしなかった事で、考えずに済んでいた事実に気付いて鬱になる。
こんなおキレイな職に就く予定はなかったし、この年まで生き延びる予定もなかったはずなのに、今ではどうだ。剣を預けて戦う事に悦びを感じ、さらには命がけで魔物を倒してしまう始末だ。
記憶の中の男の顔が、してやったりとばかりに冷笑している。ああ、なんて腹立たしい。
「畜生……、目の前にいたら今度こそ勝って、鼻を明かしてやるのによー……」
鬱々とつぶやくルウェンの背後に、どす黒い気配が漂う。魔物相手にだって、ここまで黒い感情を向けた事はない。
その男はルウェンが今までで唯一、正面から挑んで一度も勝てずに終わった相手だった。
……正確に言えば、勝ち逃げされたのだ。おそらく『師』とも言うべき人物なのだろう──ルウェンの剣はその男から文字通り叩き込まれた物が基本になっている。
だが、しかし。
ルウェンはそれを今までもこれからも認める気はない。
『「太陽」を欲しがるな。テメエが「太陽」になる気でいけ。……出来ねえとは言わせねえからな。このオレが鍛えてやったんだから』
──与えられるのを待つのではなく、自分で取りに行けと。
煽るだけ煽り、好き勝手に言っておいて、そのくせ結果を待たずに前触れもなく消えた。そんな記憶から抹消してやりたい男の名は、フェード・ツェスク・バルザーク。
そう、『バルザーク』というルウェンの姓は、元々はその男の物だった。
故郷を捨てた時に姓も捨てたルウェンに、ある必要性から無理矢理つけられたものだ。その場限りの一時的なものだったはずなのだが、結果として定着してしまい、今に至っている。
最初は当然嫌で仕方がなかった。思い出したくもない男の名の一部なのだから当たり前である。
修正するのも自分で考えるのも面倒くさかったのでそのままにしている内に、彼の名が『返り血のルウェン』と共に広まってしまった為、それが偽名だと思う者はいないだろう。自分でも今は自分の名前だと思っている。
当時、(本人の言葉を信じるならば)すでに余命いくばくもなかったらしいから、それが事実ならおそらく何処かで死んでいるはずだ。つまり──今後も打ち負かす事は出来ないという事である。だから余計に腹立たしいのだ。
死に掛けらしかった所は、何故か毎日毎日神殿に通っては何事か祈っていた事くらいか。普段の言動は悪人そのものだったのに妙なところで信心深くて薄気味悪かったものである。
当時も変なヤツだと思っていたが、今思い出してもやっぱり変人だったとしみじみ思う。
一体自分の何を気に入って剣を仕込んだのか、実際の理由もわからないままだ。ただの気まぐれだった可能性も高いが──。
「──……フッ、忘れよう」
そうだ、もう一度忘れてしまうのだ。思い出せば思い出すほど、精神衛生が侵害されるのは確かなのだから。
そう、己に言い聞かせていると、都合の良い事に、どんな深刻な悩みでも強制的に忘れさせてくれそうな人物の声が飛んできた。
「あっ! ルウェンさん発見~♪」
わざわざ振り返って顔を確かめずとも、声だけで誰かわかる。
パタパタと軽い足音と駆け寄ってくる気配に、条件反射的に身体が逃げ出しそうになった事はきっと気のせいだ。
「こんな所で突っ立って何してるんですか?」
わざわざ前に回りこんで見上げてくる大きな瞳。天真爛漫と言えば聞こえは良いが、無邪気そうな笑顔に騙されてはならない事を、嫌というほど学習した身である。
「よ、よう、フィル。いつも元気だな」
ルウェンの取ってつけたような挨拶に、フィルセルはふふんと鼻先で笑った。
「当然ですよっ! 元気じゃなきゃ、ルウェンさんが怪我した時に看護が出来ないじゃないですか!」
(え、……本気で専属?)
以前、いろいろあった身としてはそれはちょっと勘弁願いたい。心の底から辞退したい。
見習いとは言え、本来なら外科の専門家である施術師にそんな事を言って貰うなど、後の心配もなく思う存分戦えるはずなのだが、フィルセルに限っては逆に怪我する方が怖い。かえって思い切って戦えなくなりそうだ。だがそんな事を面と向かって言う勇気はルウェンにはなかった。
「それより、ルウェンさん!」
ルウェンの心の葛藤を他所に、にっこりと白衣姿の悪魔が笑う。
「今、暇そうですね?」
「いいか、フィル……? 何もしていないからって、暇とは限らないんだよ」
「ふうん? じゃあ、暇そうに何をしてたって言うんですか」
「大人にはな、一人になりたい時が必要なんだよ。オコサマにはまだわからないだろうけどなー」
元から正直に答えるつもりはない。過去の汚点を思い出していたなどと言った日には、根掘り葉掘り追求されるに決まっているではないか。
ついでにフィルセルの笑顔で感じた嫌な予感もあり、さりげなく『付き合う気はない』と自己主張してみたものの、そんなものが効く相手ではなかった。
「……という事はやっぱり暇なんですね。良かった♪」
「ちょっと待て! 暇なんて一言も……!」
「実はこれから頼まれてキーユに買出しに行くんです。パリルで結構薬品とか使っちゃったんで、その補充なんですけど」
「いや、だからだな?」
「結構嵩張りそうだったから男手を探してたんですよねー。ジニーじゃ多分大した量は持てないだろうけど、その点ルウェンさんならあんな大きな剣を振り回してるんだから力持ちですよね! 助かる~♪」
のらりくらりとかわそうとしたものの、相手は流石に一筋縄では行かない。本当に良い時に遭遇したとばかりに喜色満面でそんな事を言われてしまい、ルウェンはがくりと肩を落とした。