第五章 皇帝カルガンド(3)
境界の町・パリルを出立しておよそ五日──。
まもなく夕暮れが訪れようとする時分、皇女ミルファ率いる反乱軍は帝都の最西端に位置する商業都市・キーユへと辿り着いていた。
途中に小さな村はいくつかあったとは言え、その村々との直接の交流はなく、そういう意味では久しぶりの人里である。
流石にそのまま入るには反乱軍は大きくなり過ぎており、キーユの代表者との話し合いの結果、街の外れに野営する事となった。
「こんな所で何をしてるんですか?」
倒木に腰掛け、夕暮れに染まる街を守るように聳える石塀を眺めていると、背後からそんな声がかかった。
「……ルウェン」
目を向ければ、そこには彼女が剣を預かる騎士──ルウェンが立っていた。
いつも背にある大剣は見当たらず、代わりに腕に何やら包みを抱えている所をみると、野営の準備を手伝っている途中らしい。
ミルファのいる場所はあまり人目につくような場所ではない。そんな所に一人でいるのを見かけて気になったのだろう。
「五年振り、でしたっけ。……懐かしいですか?」
どうやら久し振りの帝都を懐かしんでいると思われたらしい。問われたミルファは緩く首を振った。
「いいえ。懐かしく感じるかと思ったのですが……それほどでもないみたいです」
五年も離れていたのだから少しは懐かしく感じてもいいはずだ。十二歳までとは言え、生まれて育った場所なのだから。しかし自分でも正直驚いたのだが、キーユを前にしてもさほど郷愁は感じなかった。
何故だろう──そう考えてすぐに答えは見つかった。
確かにミルファは帝都で生まれ育った。だが、知っているのは帝都の中心である帝宮だけなのだ。
皇女という身分を考えればそれは普通の事なのかもしれない。だが、そうした事を差し引いても一般の人々が抱くような故郷への思慕はミルファの中にはなかった。
五年前、初めてそこから外の世界に飛び出し──それから先はひたすら生き延びる事に必死だった。
前に進む事しか考えられず、後ろを振り返る事もなければ、離れる事に対する感傷を抱く暇もなかった事も影響しているのかもしれない。何より、帝宮にはミルファが自分の心を閉ざしてまでなかった事にしたかった記憶がある。
一年近く続いた逃避行も、良い思い出はほとんどない。寝台で眠れる日など数えるほどしかなかったし、いつ襲われるのかと不安に怯える日々だった。
地面に直接寝そべって眠ったり、木の上で身体を休めるなど、最初はとても信じがたい行為だった。幼かったが故に、そんな日々に慣れてしまうのも早かった事が救いだろうか。
今思い返しても子供の上に世間知らずなミルファにとって、帝都から出るまでは苦労と苦痛の日々だった。だから懐かしさを感じないのかもしれない。
それとも帝宮を目の前にすれば──最終目的地へと辿り着けば、少しは郷愁の情を覚えるのだろうか。もうそこに、待つ人が誰一人いないとしても……。
「変な話かもしれませんが……、私にとって帝都そのものは懐かしむ場所ではなく、初めて接する場所と変わらないようです」
苦笑しつつ正直な感想を述べれば、ルウェンは心情を察したのかなるほどと頷く。
「ルウェンはどうなのですか?」
「へ? 俺ですか?」
逆に問い返すと、ルウェンは予想外の事を問われたようにその目を丸くした。
「昔、帝都にいたのでしょう?」
ルウェンが東領で兄のソーロンに剣を預ける前、帝軍に属していた事はすでに知っている。ならば懐かしいのではないかと思って問いかけたのだが、対するルウェンの反応は何とも微妙なものだった。
「あー……、まあ、確かにいましたけどね……」
その表情と言えば、何処となく思い出したくなかった事を思い出したような苦笑い。
ひょっとして触れてはならない話題だったのだろうか。ミルファが内心焦っていると、ルウェンはあっさりと言い切った。
「思い出したくない記憶の方が多いんで、懐かしいというのもちょっと違うんですよね」
「それは……、その、ごめんなさい……」
自身の心境に重なる言葉を前に罪悪感を感じて思わず謝ると、ルウェンはぎょっと目を見開いて慌てた。
「えっ、いや、謝らなくていいですよ!? 思い出したくないと言っても、何と言うか……、若気の至りというか、思い出すと恥ずかしいというか……!!」
まさかミルファがそこまで気に病むと思わずに焦ったせいか、余計な事までぽろりと漏らす。
「”恥ずかしい”……?」
「ああああああ!! そこに引っかからないで下さい!」
かなり必死だ。一体何をやったのか逆に気になる。どうやら詳細を語りたくないようなのは確かだが、悲しい記憶ではなさそうでほっとする。
「そ、それじゃ私はまだ仕事がありますので!」
余程追求されたくなかったのか、足早に立ち去るルウェンを見送りながら、ミルファは悪いとは思いつつも笑いを堪えられなかった。
石垣の向こうからは、夕食を煮炊きする煙が幾筋も立ち昇る。平和な、ありふれた一日の終わり。けれど──これは、嵐の前の静けさなのだ。
(お父様……。もうすぐです)
ミルファは表情を改め、行く先に待つ人へ心の中で語りかける。
(私は、ここまで来ました)
無事に会える保障もなければ、たとえ会えたとしても、まともに会話出来るかどうかわからない。
何より、父の背後にいる何者かがこのまま黙っているとはとても思えなかった。必ず何か仕掛けてくる。
『──本当にミルファは私の子か?』
父が口にしたあの言葉が、今も心の奥底を占めている。
忘れたくて、なかった事にしたいと願った言葉。もし、本当に母が父を裏切ったのだとしたら──その事を考えれば今でも迷う。
けれど……。
『わたくしはね、ミルファ……あなたのお父様がとても好きなの』
あの母の言葉には、何か深い意味があるのだと思う。だからこそ、伝えて欲しいと頼んだのだと信じたかった。
伝える為には辿り着かなければならない。どんな罠が待ち構えていようとも、進むしかないのだ。
「……ミルファ様」
物思いに沈みかける所を、暗い声が救い上げた。
「ザルーム……。戻ったのですね」
視線を向けた先に浮かび上がる影のような姿。一人こんな場所にいたのも、周囲の様子を調べに行った彼の帰還を待つ為だ。
「どうでしたか?」
「今の所は特に異変はないようです」
「そう……」
その答えは半ば予想していたものではあった。
パリルでの大掛かりな魔物の襲来以降、皇帝側は再び沈黙している。それはかえって、『これから』があるのだと思わせた。
目の前にある日常がどんなに簡単に壊れるのか──ここに集う者は誰もが知っている。
「魔物って……一体、何なのかしら」
ふと思い浮かんだ疑問を口にする。
それは皇帝の乱心と同時に各地で出没するようになった存在。
人と異なる異形と人を凌駕した能力を持ち、首を落とすか心臓を抉り取らない限りは倒す事が出来ない。一体を相手にするのに、複数の手練れの者がかかりきりになる。
それを一対一で倒してしまったルウェンが英雄視されるのも無理はない。人離れした戦闘能力と強運──おそらくそうしたものが備わり、うまく働いて初めて出来る事だ。
「……ザルーム、あなたは何か知っていますか?」
パリルでの告白を思い出しつつ、ミルファは問いかけた。
強大な呪術の使い手である彼は、『人』ではない。その本性は世界の狭間にて魂を食らうモノ──こちらの世界では『渡し守』と呼ばれるものだ。
彼にこのような事を聞くのは酷かもしれない。だが、もし魔物もこの世界と関わりのない存在なのだとすると、いろいろと認識を改める必要がある。
「……」
「ザルーム?」
ミルファの問いかけに、ザルームは珍しく迷うような沈黙を返した。それは何よりも雄弁に、彼が何かを知っている事を示している。
「答えないという事は、何かあるのですね?」
「……──はい」
返る言葉は何処か苦しげだ。まるで、ずっと恐れていた問いかけを向けられたかのような。
「話せないのですか?」
「いえ……」
「ならば、話したくない、と?」
「はい。出来る事ならば……」
陰鬱な声音は淡々と言葉を紡ぐ。おそらくその言い様ならば、どうしてもと追求すれば答えてくれるのだろう。けれどミルファは追求を諦めた。
「わかりました。それなら聞きません」
「……よろしいのですか?」
あっさりとミルファが引いたせいか、珍しく驚いた様子でザルームが問う。
「話したくないという事は、おそらく知らない方が良い事なのでしょう? それに本当に必要なら……、それがどんな内容でもあなたは話してくれるはず。だから聞きません」
ほんの少し前ならば、おそらく何故話してくれないのかと、彼を信じきれずに疑心暗鬼に囚われただろう。信じたい気持ちと疑いの気持ちで板ばさみになり、苦しんだに違いない──パリルの時のように。
けれど今、ミルファの心に迷いはなかった。
たとえそれがザルーム自身の意志からではないのだとしても、彼が今まで自分を支え、守ってくれた事は事実なのだから──。
何処か吹っ切れたようなミルファの表情をじっと見つめ、ザルームはやがて苦笑混じりに口を開いた。
「……変わられましたね」
「そう? そうね、そうかもしれないわ」
心を縛っていた過去の記憶を封じるザルームの呪術が解かれた為だけではないだろう。
(──私は、一人じゃない)
その事に気付いて、ミルファの世界は広がった。
自分は一人きりで戦っている訳ではない。助けてくれる人がいる。見守ってくれる人がいる。彼等を喪いたくない。守りたい。
……──信じたい。
「昔、思った事があります。お父様──皇帝は、一人で淋しくないのかしらと」
それは子供の頃、単純に思った事だ。今では少し認識も変わっている。
誰に対しても平等に、『特別』があってはならない──神殿の説く、神官の在り様にも重なるそれは、人の身にはあまりにも難しいこと。それを実践しようとすれば、結果的にその身は孤独にならざるを得なくなる。
一人は、淋しい。
最初から周囲に誰もいなければ、そんな感情も育たないのかもしれない。けれど親なしに子が生まれないように、人とまったく関わりを断つ事は不可能だ。
(『皇帝』は何故、そこまで自分を殺さねばならないの)
多くの人に囲まれて、必要とされ──けれど、自分からはその手を取る事も、手を伸ばす事も許されない。
それはあまりにも不自然な在り方。
自分が一人ではないと感じれば感じるほど、父の狂気はそこにあるのではないかと、思わずにはいられない。
(私が戦うべきものは、お父様自身ではないのかもしれない……)
そして、もしかしたら魔物を操る人物ですらないのかもしれない。もちろん、無関係ではないのだろうけれども──。
「……私が『皇帝』になるとしても、もう自分から一人にならない。それが許されない事なのだとしても、あなた達の手を振り払う気はありません」
ミルファの宣言に、ザルームは深く頭を垂れる。
「どうぞ、信じた道をお進み下さい」
それはいつかも聞いた言葉。何となく懐かしく感じて、ミルファは微笑む。
「……『自身が信じた道ならば、それが私にとって正しいものとなる』?」
「はい」
迷いのない肯定は、同時に彼の意志も告げている。あの時同様、その為になら助力は惜しまないと。
「ありがとう、ザルーム。……でもやっぱり、あなたは私に甘いと思うわ」
いつかの再現のように言い返すと、ザルームも小さく笑い声を零した。
状況は決して楽観出来るものでもなく、何がどう転ぶのかさえわからない。こんな暢気な会話をしている場合ではないだろうとも思う。
それでもミルファは、今のこの時を得難いもののように感じていた。この平穏がいつまでも続かないとわかっているからこそ──。




