第五章 皇帝カルガンド(1)
この世界が好きかと問われた。
この世界を愛するかと問われた。
今ならきっと答えられる。
今ならきっと、否定する事が出来る。
──彼女がずっとそうし続けてくれたように。
けれど、自分は間違ってしまった。
その問いかけの真意に気付かずに、頷いてしまった。だからもう、取り返しはつかない。
そして凍りついた瞳が今も『呪い』を刻みつける。
『皇帝』の名を継ぐ者よ。
この世界の存続を望むのならば、この世界に全てを捧げ──この世界の為に死ね。
+ + +
彼の名をつけたのは母だった。
それは確かに特別珍しい事ではなかったが、特に事情がない限り、普通の家庭で生まれたのなら子の名は父親がつけるのが一般的である。
──つまり、『特別な事情』がそこにあったということだ。
大半の理由は婚姻で結ばれた結果生まれた子でなかった──つまり、私生児であるとか──場合や、子が生まれる前に父親が亡くなった場合で、そんな時は母親が子の名前をつけるが、彼にはそれは当てはまらない。
彼の記憶に残る母は線の細い、少女のようなあどけなさをいくつになってもなくさない人だった。子が生まれるまでの間、ずっとつける名前を考えていたのだと当時の様子を知る者は語った。
……北の地で生まれ、古いしきたりによって今では誰も使わない言葉で『雪』の名を付けられたその人は、その名を表すかのようにあまりにも儚く。
元から病がちだったが、ある冬に身体を壊してそのまま帰らぬ人となった。彼が十の誕生日を迎える前の事だった。
母が亡くなった数年後に父も思いがけず早くに亡くなった為、彼がその名を呼ばれた期間は本当にとてもとても短い。
カルガンド・イーヴェ・オシリア。
それが彼の名前だった。その名を知る者は元々少ないし、彼が唯一の男児だった事もあって、知っていたとしてもそれを口にする者は皆無だった。
──今となっては誰からも呼ばれる事のない名前。
使われないそれに一体何の価値があるというのか。彼自身、普段はその存在を忘れているほどなのに。
『そんなにも、付けたい名前がおありなのですか?』
──なのに、何故だろう。いつからそんな風に思うようになったのだろうか。
誰からも見向きもされないその『存在』を、何処かに──何らかの形で残したいと思うようになったのは……。
+ + +
実の所を言えば、到着の報告を受けるまでその事をすっかり忘れていた。
日々何かしらと仕事は増え、目が回りそうな忙しさの中でその約束は特に重要でもなかったし、非常に個人的なものだったのだから仕方ないだろう。
それが言い訳なのは重々承知だが、彼はこの世界を統べる『皇帝』であり、公私の割合は九割九分で公が占める。
そんな日常で、ごくごく僅かな『私』事は完全に記憶の片隅に追い払われていた。
『娘をしばらく預かって欲しい』
そもそもの発端は一通の書簡。
南の地を預かる年の離れた知人からそんな便りを貰ったのは、半年も前の事だった。
南領主になってからというもの、顔を見せた事のないばかりか、報告書以外の書簡を送ってくる事もなかっただけにその便りはかえって印象には残ったけれど。
コリム・セザール・ジェファウト──それがその知人の名だ。
知人と言っても顔見知りという程度なのだが、南領主になるまでは帝軍に属し、前皇帝の身辺警護を行っていた。その関係で彼とも接点があった訳だが、おそらく皇帝となる前の自分を知るごく僅かな人間の一人だろう。
当時を思い返しても、武官よりは文官の方が向いていそうな男だったが、伝え聞く話では良く南領を治めているらしい。
皇帝たるもの、個人の感情で動く訳には行かないが、コリムの話は彼の興味を惹いた。
今まで一度として女性が立った事がない領主の座に、彼の娘が立つというのだ。
まだ公式には発表されてはいないが、南領においてはほぼ確定的な話になりつつあるらしい。だが、当然ながら前例がない事には賛否両論が付き纏う。
コリムの心はすでに決まっているものの、その論争がある程度落ち着くまでの間、しばらく娘に南領から距離を置かせたいという旨が便りにはあった。
半分は今まで南領から出た事のない娘に、他の地を見せてやりたいという親心もあるらしい。
確かに領主になれば余程の事がなければその地を離れる事はない。皇帝である己が、帝都から出る事のないように。
果たして帝都に見るだけのものがあるのかわからないものの、頼られて嫌な気はしない。彼自身、あえて茨の道とも言える世界初の女性領主を志す娘に興味を抱いた。
彼が知る女達と言えば芸事やその容姿を磨く事に腐心する者ばかりで、何を言っても『思し召す通りになさいませ』の一辺倒だからだ。
とは言え、三人の妻に不満はない。その自主性のなさには若干の物足りなさを感じてはいたが、それが普通の反応なのだと思っていた。
──だからこそ、一度会ってみたいと思ったのかもしれない。
己がある意味、『不変』を体現する立場だからだろうか。彼は新たな試みや新技術、先進的な思考の持ち主に興味を惹かれる傾向がある事を自覚していた。
コリムの娘に対してもおそらくそうした興味をそそられたのだ。あまり褒められた事ではないと自分でも思う。やって来る娘も確かまだ十代のはずだ。領主を志してはいても、おそらくはごく普通の娘と変わらないだろう。
そんな風に、自分に言い聞かせながら向かった謁見室。そこで彼を待っていたのは、想像していたのとは少々違う人物だった。
華奢で肉付きが薄い身体を包んでいたのは、まるで使用人のような飾り気のない代りに動きやすそうな実用的な服。
緩く波打つ髪は南領の人間に多い黒髪だが、彼の妻達のように何がどうなっているのかわからないほど細かく編み込んだり結い上げたものではなく、見苦しくない程度に簡単にまとめられているだけだった。
外見だけなら帝宮に仕える女官と大差ない。仮にも南の地を預かる領主の娘という立場を考えれば、あまりにも質素すぎる姿だ。
しかし、世界を預かる皇帝を前にしても臆する事無く、優雅な所作で頭を下げて最高の敬意を示す姿は確かに領主の娘に相応しいものだった。
「お初にお目にかかります、皇帝陛下。わたくしは南領主が娘、サーマ=フォリン=カドゥリールと申します。ご多忙な中、貴重なお時間を割いて頂きまして身に余る光栄でございます」
静かな中、確かな意志を秘めた凛とした声が耳に届く。
思えばコリムからの便りには、失念したのか故意なのか、娘の名前までは記されていなかった。本人の口上でようやくその事実に気付く。
おそらく彼自身にとって、『名』が意味のないものである事も理由の一つだろう。その事を疑問に思い至らなかった自分に苦笑しながら、面を上げるように命じ──瞬間見入った。
外見の地味さを払拭して余りあるほど、娘──サーマの容貌は際立っていた。
帝宮ともなれば、彼の妻である皇妃達を筆頭に容色の優れた者は数多くいるが、そのどれとも違う、飾らないが故の美しさだった。
その瞳は青みを帯びた深い灰色。深い知性を宿し、真っ直ぐに心の奥底まで見通すよう。重臣達も側仕えも、皇妃達ですら向ける事のない、彼自身を確かに認識する真摯な眼差しだった。けれどもそれは、決して不躾でも不快でもなく。
僅かな、沈黙。
「……慣れない長旅で疲れたのでは?」
何処となくぎこちないそれを彼が破れば、サーマは少し驚いたように目を丸くし、やがていいえと首を振った。
「お気遣いありがとうございます」
緊張の為か若干硬かった表情がふと緩む。その事に気を良くし、彼はさらに口を開いた。
「サーマ殿、南領主を志しているというのは本当か?」
「はい」
彼の何処か試すような言葉に、サーマは微笑んで即答する。
「何故、と聞いても?」
「父の手助けがしたいと、幼い頃からずっと思っていたのです」
問いかければ、即座に返事が返って来る。それは当然の事なのかもしれないが、彼にはとても新鮮に感じられた。
何しろ、彼の周囲にいる人々は、彼と直接口をきく事すら恐れ多いと言わんばかりの態度を示す者が大部分なのだから。
「当然……、それは夢で終わるはずでした。けれど、父はそれを聞き届けてくれました」
喜びを隠さない表情と言葉に、知らず見入り聞き入る。
「叶うはずのなかった夢が、叶うのです。だからわたくしは父の期待に応えたい。その為になら、どんな努力も惜しまないつもりでいます」
胸を張り誇らしげなその言葉は、彼の耳よりも心を打った。打ったというよりは──何故か、打ちのめされた気がした。
(……?)
自分でもその事が不可解で、心の内で首を傾げる。一体自分は、今のごく素朴で飾りのない言葉の、何に衝撃を受けたというのだろう?
「今まで女性が領主に立った前例はない。おそらく南に限らず方々で否定的な意見も少なくなく出るだろう。それでもなりたいと?」
その事を否定しているような物言いになり、彼は自分でも困惑した。
彼自身は特に肯定も否定もする気はないし、南の領民が認めるならそれが全てだと考えている。それなのに──素直にそう口に出来なかった。
サーマは皇帝の言葉に頷く。そう言われる事を予想していたのかもしれない。しかし再び開かれた口から出た言葉は、彼の予想とはまったくかけ離れたものだった。
「愛する人々と、愛する地を守りたいと思う気持ちに、男女の区別はないと思うのです。ですからわたくしはここへ来ました」
「……? どういう意味だ?」
言葉の前半はまだわかる。それは確かにそうかもしれないと、彼自身も認められる内容だ。だが後半はわからない。
どうして、ここに来る事が愛するものを守りたいと思う気持ちに通じると言うのだろう。彼の疑問を察してか、サーマはさらに言葉を重ねた。
「前例がないと言うのなら、わたくしが最初の例となればいい。ただなりたいと口にするだけでは駄目だと言うのなら、行動で示せばいい。現在の領主である父が認めるだけで足りないのなら──」
サーマは瞳を輝かせ、微笑む。
それは弱冠十七歳の少女が抱いた、小さくも大きな野望。
「世界を統べる皇帝陛下。貴方に認めて頂く為にわたくしは来ました」
正式な記録も残らない、ごく僅かな時間の謁見。
……それがおそらく、破綻の始まりだった。