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天秤の月  作者: 宗像竜子
第一章 皇女ミルファ
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第一章 皇女ミルファ(9)

 進むにつれて、漂う空気は次第に潮を想わせる濃い血の匂いが増していく。

 その事に気付き、僅かに顔をしかめながら、ルウェンは通路を疾走していた。

 時折、人の叫び声や魔物のものと思しき咆哮ほうこうが聞こえる。緊迫した空気は、今まで何度となく味わった戦場のそれとは全く違っていた。

 ── 心が、浮き立たない。

  戦いの最中に身を置く事は、己にとって何よりの喜びであったはずなのに──。心の内で舌打ちし、それでも彼は走る足を止めなかった。

(嫌な兆候だな、これは──)

 相手が魔物だからか、それともまた別に要因があるのか。ルウェンはまとわりつく不吉さを追い払う事が出来ずにいた。

 場の雰囲気が、すでに負の方向へ傾いている。

 これまで幾度も不利な状況を引っ繰り返しては、東領へ勝利を導いた彼ですらも、今度ばかりはうまく事を運べるか自信がないのだから、それも仕方のない事なのかもしれない。

 何より、相手が魔物である事が大きかった。

 相手が人ならば、彼等も一角の戦士達だ。今までのように勇猛果敢に、勝利を信じて戦えただろう。

 だが、今回の相手は倒すのにも時間がかかる上に、僅かな油断がそのまま命取りになる魔物。しかも…複数での出現という、今までの常識を覆す異常事態だ。百戦錬磨の戦士達も動揺して当然だと言えた。

 その上、出現した時間帯も夜明け直前という事もあり、館にいた大半が眠りの中にあった。判断能力は通常時よりも下がっているし、身体の動きも普段通りとは行かないはずだ。

(だからって、尻尾を巻いて逃げれるかっつーの…!)

 弱気になりかける己を叱咤しったして、ルウェンは中央棟に辿り着くと、そのままの勢いで扉を蹴破った。

「── ッ!!」

 それと同時に飛び込んできたのは、予想以上にひどい状況と、胸を焼くような濃密な血の匂いだった。

 地上三階ある建物の、天井までを吹き抜けにした広い空間。

 そこはかつての面影など一切なくし、負傷者の苦悶の声と、彼等の物と思しき鮮血の赤、そして魔物によって破壊されたらしい壁の残骸などによって支配されていた。

「…っ、チクショウ…冗談じゃねえぞ……!!」

 湧き上がる怒りを、かろうじて理性で押し留めた。心の内圧を高める事で、彼の戦士としての本能が目覚めてゆく。

 ── ここは、すでに戦いの場だ……!


 …グルゥアアアゥアア……!


 獣とは違う、身の毛もよだつ咆哮が遠くから聞こえると同時に、彼はその場から横へと飛んだ。

 すぐさま剣を鞘から抜き放つと、無造作にも見える所作で斜め上へと剣を振り上げる。


 …ビシャ…ッ!


 重い手応えと同時に、熱く生臭い飛沫が顔にかかった。 


 …グギャアアアア……!!


 遥か頭上、三階部分から恐るべき速さで飛び降りてきたそれは、ルウェンの攻撃で振り下ろしかけた腕を切り裂かれ、耳障りな絶叫を上げて後ろへとよろめく。

「……」

 それは人と蜥蜴を足して割ったような外見をした魔物だった。体格はルウェンより二回りほど大きい。

 その滑りを帯びた体表を、青い体液が伝わり落ちるのを無表情に眺めながら、ルウェンは剣を構え直す。

(…浅い……!)

 腕の中頃までざっくりと切り裂かれているものの、噂に聞く再生力を考えれば、深手を与えたとは言えないだろう。

 実際、見る間に溢れていた体液が乾き、傷口は盛り上がった肉芽によって塞がって行く。ルウェンはぎり、と歯を噛み締めた。

 魔物を倒すには、首を落とすか心臓をえぐり取るか── だが、その二つの困難さはどちらも同じ。

 前者では咄嗟の防御が効かない背後に回り込む必要があるだろうし、後者は一気に懐に入って胸を切り裂かねばならない。

 援護の手があれば不可能ではないだろうが、周囲には彼の手助けが出来る状態にある人間はおらず、一対一となるとどちらの手も厳しいのは明らかだった。

(どうする……)

 幸か不幸か、ここにいるのはこの魔物一体だけのようだった。

 もしこれで他にも数体魔物がいるのであれば、いかにルウェンでも勝負にはならなかっただろう。だが、一体だけだからこそ、退く訳にも行かなかった。

 魔物は今の攻撃で、ルウェンを完全に敵だとみなしたようだ。その瞳が、薄闇の向こうで残忍な光を帯びた事に気付くと、ルウェンは剣の柄を握る手に力を込めた。

(…考える時間を与えては……)

「── くれないようだなっ!」


 ヒュン…ッ!


 空気を切り裂いて一瞬で間合いをつめてきた魔物の一撃を、咄嗟に身をかがめる事により紙一重でかわすと、そのまま剣を横薙ぎに払う。

 だが相手も同じ手には引っかからない。胴を切り裂くはずの一撃を、恐るべき反射神経で斜め上方へ飛び上がる事で回避する。

 そしてそのまま壁を蹴り、体勢を崩しかけたルウェンに向かって身体ごと突進してきた。

「ぐうっ!」

 跳ね飛ばされ、受け身を取る余裕もなく、反対側の壁に肩からぶつかる。

 したたか打ち付けた全身に衝撃が走り、口の中に血の味が広がった。どうやら口の端を切ったらしい。

「…っ」

 衝撃で一瞬暗くなった視界の中、それでもルウェンの身体は横へと動く。

 同時に頭のすぐ横を風が走りぬけ、次いでそこにあった壁が崩落する激しい音が響き渡った。

(…──)

 もし動かなかったら、恐らく今の一撃でルウェンの頭は潰されていた事だろう。

(やば……)

 今更ながらルウェンの心にも明確な焦りが生まれた。そのまま転がって距離を取り、何とか体勢を取り直す。

 魔物は今まで渡り合ったどの相手よりも強い。頭ではわかっていたつもりだったが、頭での理解は現実には遠く及ばないものだったらしい。

 生まれて初めて感じた死の予感に、ルウェンは額に冷や汗が浮く。しかしそれを拭う事も出来ずに、彼は魔物の動向を見守った。

 彼の目前で、魔物は無造作に壁に穴を穿った腕を取り戻すと、再び彼に向き直る。

 その様はまるで無力な獲物を前にした勝ち誇る獣のようで、ルウェンは強い違和感を感じずにはいられない。

(…こいつら、本当に頭が獣並みなのか……?)

 明確に感じる殺気。

 だが、そこに戦いを楽しむような気配を感じるのは何故なのか。

 相手を葬り去る事ではなく、この思うがままに腕を振るい、敵と剣を交わらす事に喜びを感じる…戦場に立った時の自分のように。

 気のせいと言われればそれまでかもしれない。おそらく、他の人間には感じ取れないだろう。

 ── だが、そんな事を考える暇は与えられなかった。

「…な……!?」

 ぎょっと目を見開いた先、魔物の持ち上げた手に不意に青白い光が生じる。

 一体何事かと見ている内に、その光は人の頭ほどの大きさへと変わったかと思うと、次の瞬間、魔物はそれをルウェンに向けて投げつけていた。

「うわあ!?」

 受ける事は流石に躊躇ためらわれて、慌てて後ろに倒れる事で回避する。

 彼の頭上を光は恐ろしい速さで飛び、体勢を整える前に、激しい閃光と共に先程の非ではない破壊音が響き渡った。次いで熱い爆風が襲いかかり、慌てて顔を庇う。

「…──」

 流石に魔物から目を外す事は出来ず、背後の状況を確かめる事は出来なかったが── 足元からその衝撃の余波が伝わって来る所を見ると、かなりの威力を先程の光は秘めていたようだ。

 ── 直撃を受けていたら、一瞬で死ぬにしても果たして五体満足でいられたかどうか。

「…冗談だろ、オイ……」

 彼の顔に引き攣った笑みが浮かんだ。

 どうしようもない状況に陥った時、人は笑ってしまうという話だが、どうやらそれは本当だったらしい。それくらい、目の前で起こった出来事は衝撃的な事だった。

「魔物が呪術師みてえな技使えるなんざ、聞いた事ねえぞ……!?」

 無意識に上ずる声で怒鳴りながら、彼は身を起こして体勢を整える。

(── 無敵じゃねえかよ)

 嫌な汗が背を流れるのを感じる。その不快さと戦いながら、ルウェンは第二撃をその手に作り上げた魔物を凝視した。

 相手が純粋な肉弾戦を挑んで来るなら、まだ対抗する手段はある。だが、それに加えてこんな破壊力満点の飛び道具まで出されて、どうすればいいと言うのか。

(マジで、やばいかも)

 今回の襲撃は、あまりにも『前代未聞』の出来事が多過ぎる。

 空気に混じるきな臭い匂いに、ソーロンの指示した火による攻撃の余波が、この館自体にも及んだ事を感じ取る。

 …時をそう置かず、この中央棟は炎に包まれる事だろう。

 嵐を呼ぶ事の出来る呪術師がいれば、他の建物に被害が及ぶ前に消す事が可能かもしれないが、この状況ではそんな事は望むだけ無駄に違いない。

(── 殿下、逃げろ)

 届かないとわかっていながら、彼は心の中で呟いた。

(こいつ等は普通の魔物じゃない…正攻法じゃ無理だ)

 力量が圧倒的に違う。人が太刀打ち出来る相手ではない── 少なくとも、今は引くべきだ。

(今の内に、逃げてくれ)

 ソーロンが自分達を見捨てて逃亡するような性格ではない事は知っている。だが、彼が死んでしまったら、自分達は本当に犬死になってしまう。

 ゆっくりと魔物が腕を持ち上げた。ルウェンは剣を構え、攻撃に備える。

 そして。

 死の使いはその腕を無慈悲に振り下ろした。一瞬後、激しい閃光と轟音が再び響き渡る。

 もうもうと土煙があがる中、確かにそれはわらった。

 残忍にして冷酷な── 獣並の知性しかないと言われるそれが浮かべたものは、明らかに何らかの意志を感じさせるものだった。

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