第四章 呪術師ザルーム(39)
夜明けと共に起き出したティレーマは、いつものようにラーマナへの祈りを捧げた。
仮とは言えども神官という立場から解放された身だが、もはや神と共にある生活はティレーマの一部となっていて、完全な習慣となっていた。
まだ起き出している人間の方が少ないであろう、時分。耳を澄まさずとも、物音はほとんどしない。
そんな朝の静寂の中、ティレーマはミルファの部屋へと向かう。訪れるには早すぎる時間だが、ミルファの様子が気にかかったのだ。
一日二日ならば若い事もあって持つだろう。だが、それ以上となればいくら体力があろうと多少なりと衰弱するに違いない。
今日は目覚めてくれるだろうか──。
そんな物思いに沈みながら、自室から僅かな距離を進む。ほとんど無意識に扉を叩き──思いがけず内から応えがあった時、ティレーマは思わず自分の耳を疑った。
まさか──。
「……ミルファ!?」
現実だと信じたい気持ちと、都合の良い幻聴かもしれないという不安の中、開け放った扉の向こうに佇むミルファの姿を見た瞬間、ティレーマはその場に立ち尽くしていた。
「おはようございます、姉上」
白っぽい朝日の中、何処となく居心地の悪そうな微苦笑を浮かべているのは確かにミルファだ。そこには昨日までの苦しみはなく、むしろそれまではなかった自然体の表情があって──。
「ミ、ミル……ファ……? 本当に……目覚めたの…?」
都合のよい夢なのではと、信じきれずに問いかければミルファは頷く。
「もう、大丈夫なの……?」
感情的になってはならないと思うのに、声が、体が震えた。
ミルファが自ら心を閉ざしてまで忘れていたいと願った過去。それを思い出させる切っ掛けを与えてしまった事実が、ティレーマの足を竦ませる。
望んだ結果ではないが──支えたいと願った妹を結果的に苦しませてしまった事実が、ティレーマには許せなかった。
「心配をおかけしました。もう、平気です」
「平気って、でも……、ミルファ」
そんなに簡単に割り切れるものなのかと視線で問う姉に、ミルファは小さく頷いた。
「そうですね……。平気と言い切るのは、確かにちょっとおかしいかもしれません。……思い出してしまいましたから」
何を、と具体的には言わずにミルファはきゅっと胸元を握る。服の下にはケアンの聖晶。なかった事にしてしまいたいと願った、その代償の大きさを語るもの。
「──忘れて良い事ではなかったのです。本当なら、誰よりも覚えていなければならなかった」
大事な人達の死と、彼等の死の果てに今ここに生きている事を。
過去を振り切ったようにミルファは穏やかに微笑む。だが、ティレーマにはその言葉を素直に受け入れられなかった。
「それでも……辛い、記憶だったのでしょう……?」
ティレーマには忘れてしまいたい程の辛い記憶はない。
神官として一人皇宮を離れ、家族との触れ合いが皆無であった事は一般的な視線から見れば不幸な事なのかもしれない。
しかし家族との関係が希薄であったからこそ、皇帝の乱心の際に母や兄妹を失っても、冷静さを失わずにいられたのだ。
だが──ミルファという『家族』を得た今、もしその身に不幸が降りかかったらと考えた時。ティレーマは母や血を分けた妹や弟の死を知った時ほど、それを冷静に受け止められる自信がなかった。
もうすでにミルファは、ティレーマにとってかけがえのない存在となっている。
大切な人を失った記憶やそれによって受けた心の傷は、確かに時と共に癒されるものなのかもしれない。それでも相手が大切であればあるほど、癒されるのに時間がかかるはず。
「過去であっても……、痛みの消えない記憶ではなかったの」
ザルームに対する小さな不信が、こんな事を引き起こすなど思ってもいなかった。
ミルファをこれほど苦しめてしまうなどと思ってもいなくて。だからと言って、簡単に済んだ事に出来る事ではない。だからティレーマは動けない。
「ごめんなさい……。わたくしはなんて愚かな事を……」
合わせる顔がなくて、思わず俯いたその視線の先に、ミルファのつま先が見えた。
反射的に顔を上げればすぐ目の前にミルファが立っていた。その手が伸び、悔いるように硬く握り締めていたティレーマの手を取る。
「謝らないで下さい、姉上。ご自身を責めないで下さい。むしろ……、私はお礼を言わなければならない位なのですから」
「え……?」
予想外の言葉に、ティレーマの赤瑪瑙の瞳が丸くなった。まったく似ていない姉を間近で見つめ、ミルファは思う。
純粋で真っ直ぐで優しい姉──この人と自分の間には、ひょっとしたら血の繋がりはないかもしれない……。
「側で見届けてくれると言って下さったでしょう? 十年以上も会った事がなかった私を、『妹』として接してくれた。……とても嬉しかった。あの時は嬉しいと思っている事もわからなかったけれど……」
「ミルファ……」
「全てを思い出した今ならわかります。私はあの時思ったんです……心の奥底で。『私にはまだ家族がいた』と」
あの時、ティレーマは抱きしめてくれた。久しく忘れていた人の温もりは、何処か今は亡き母、サーマを思い出させ──そう、血の繋がりを、『家族』を、自分こそが心から欲していたのだ。
「一人ではないと、言ってくれたでしょう?」
自分を見つめる瞳は優しくて、心から案じる言葉が嬉しくて──。ティレーマの存在はミルファに大事なものを思い出させてくれた。
それは確かに、かつてミルファが当然のように享受し、そして乱暴な手によって奪われたものと同じもの。
同じだったから嬉しいと思う事を認められなかった。また──喪うのではないかと。為す術もなく奪われてしまうのではないかと。
「私に、守れるでしょうか? ……今度こそ大切な人達を」
問いながら声が震えた。
抗う事すら出来ずにまた無力に奪われてしまうかもしれない。父は──父の背後にいる存在は、一筋縄で行く相手ではない。剣を使えるようになったからと言って、ミルファ自身が彼らに対抗出来るだけの力を得たかと言えば、答えは否だ。
それでも、守りたいと思う。心の、底から。
「ミルファ……」
「私はみんなを……、守りたい……」
それは願いというよりは、祈り。喪われる痛みを知ったからこそ、思わずにはいられない。大事な人達がいつも幸福である事を。生きて──笑って、日々を過ごせる事を。
先へと進む事を決めたものの、その可能性がミルファの決意を鈍らせる。
「私は行きます。進むと……決めました。けれど、その為に姉上達を危険に晒してしまうかも──」
不安を吐露するミルファに軽い驚きを感じながら、ティレーマは握られた手をこちらから握り返した。ミルファは周囲の人々を大切に思う余り、大事な事を忘れている。
「……ミルファ。あなたの気持ちはよくわかったわ。けれど、一つ忘れていないかしら」
「え?」
無意識に下げていた視線を持ち上げると、真っ直ぐに見つめるティレーマの瞳があった。
「あなたがそう思うように、わたくしも……皆もそう思っているし、あなたが思うほどわたくし達は脆くはないはずよ」
ティレーマの言葉はミルファの心へ響く。信じろと、視線が語りかける。信じていいのだと、伝えてくれる。
「あなたが全てを背負う必要はないの。誰もがそれぞれの思いを抱えて、その上でミルファを必要としてここにいるのだから」
「ですが……」
「……進むのでしょう? だったら前を向いて進みなさい。後ろの事など気にせずに。わたくし達はあなたの背を支える為だけにいるのではないわ。自分の意志と考えや望みを持ってここにいる。あなたはあなたの為すべき事だけを見据えなさい」
励ますように、いつかのように──優しい熱が、ミルファを包む。
「思うように進みなさい。そして、終わらせましょう。わたくしは約束通り、全てを見届けますから。見届けるまで、どんな事になろうとも側にいますから……」
熱と共に伝わるのは明確な意志。それはミルファが一人ではないと教えてくれる。
「はい……。終わらせましょう。全てを」
改めて心に誓う。
それがどんな結果を齎すかはわからない。また全てを喪ってしまうのか、それとも守りきる事が出来るのか。自分にその権利があるのかさえわからない。真実はすべて闇の中。
それでも自分には、どんな時にも従ってくれる『影』がいる。側にいてくれる姉もいる。剣を捧げてくれたルウェンや他にも多くの人が自分の決断を待っている。彼等が進む事を許してくれるなら、自分は先を恐れない。恐れる必要もない。
たとえ進んだその先に、どんな結末が待っていようとも。