第四章 呪術師ザルーム(38)
いつの間にか夜が明けたらしい。ゆっくりと室内が明るくなって行くのを、ミルファはぼんやりと見つめた。あれから──ザルームが去り、一人になってからひたすら考え続けている。自分はザルームをどう思い、どう接したいのだろう。
──私を憎みますか?
ザルームの言葉が、幾度も頭の中を巡る。
ケアンが死んだ事は悲しい。だが、その命を結果的に奪ったザルームに対して憎しみを抱くかと問われれば、明確な答えはすぐには出て来なかった。
そう、簡単に憎む事など出来るはずもない。五年余りの月日で不完全ながらも二人の間で築かれた何かは、それほどあっさりと切り離せるほどのものではないのだ。
ミルファは今までの彼との関わりを思い返す。
南への道中、歩き慣れない自分を庇いながらも、道や食料を確保してくれた。
皇女として育ち、偏った知識しかなかった自分に、ばかにしたりせず市井の事や民の生活について教えてくれた。
そして何よりも彼自身の能力によって、何の力もなかった自分が父に立ち向かえるまでの力を持てた。
ミルファ自身も相応の努力はしたが、一つ一つ振りかえってみれば今の自分が在るのは全て、ザルームのお陰なのだと思えた。
いつの間にかいるのが当たり前のようになっていて、同時にいつも不安だった。彼ほどの力を持つ者が、何故自分へ助力してくれるのか理由がわからなかったからだ。
いつか、裏切られてしまうのではないか──。
全てを知った今ならそれが杞憂だとわかる。けれど何も知らず、幼かった自分はただ、彼が掌を返す事が怖かったのだ。
そうでなければ恩人とも言える彼に、あのような高圧的な態度を取り続けられたはずもない。
もしかするとザルームの方も全てが明らかになる事を予見して、あえてミルファに疑惑を持たせるような態度を取ったのかもしれなかった。
──ケアンの死を知った時、ミルファが彼を憎めるように。
でも。
五年の月日を思い返せば、どんな時もザルームは側にいてくれた。
それが彼の存在理由に過ぎなかったのだとしても──ミルファは彼のお陰で、真の孤独を味わわずに済んだのだ。
──夜が明ける。
窓から明るい光が差し込む頃には、ミルファの心は結論を出していた。そっと首から聖晶を持ち上げる。そこにある春の空の色に、胸は切なく痛んだけれど。
それは今まで縋ってきた、『過去』の象徴。幸せだった頃の自分に繋がるもの。どんなに願っても取り返せないものだ。
ザルームは言った。もう、自分は一人ではないのだと。
その言葉は真実を告げていたのに、頑ななまでに受け入れられなかったのは──封じられてはいても、一時に全てを失った記憶がどこかに残っていたからだろう。
五年前、皇帝が乱心したあの日まで、ミルファには大切なものがたくさんあった。それは南の離宮という、小さな世界が全てだったミルファには何にも替えられないものだった。
父も母も、南の離宮の人々も──ケアンも。そして彼等と過ごした、優しくも温かな日々。それを失った時の事を何処かで覚えていたから、幼かった心は勘違いした。
最初から『大切なもの』がなければ、失う事などないのだと。あの絶望を味わう事もないのだと。
けれど今、ミルファの世界は広がっている。ザルームの言葉通り、見回せばミルファの周囲には以前よりもずっと多くの愛すべき人々がいた。
支えようとする腕。守ろうとする手。見守る眼差し。向けられる笑顔──また失う事が怖くて、その全てから背を向けていた。なんて愚かだったのだろう。
そっと、聖晶を抱きしめる。
「ケアン。私は……行くわね」
彼が一体どんな思いで命を引き換えにしてまでミルファが生き延びる未来を望んだのかはわからない。けれどもし、逆の立場だったら──そう考えてみると、理解出来る気もした。
おそらく自分も、彼が苦しむ事を理解しながらもケアンが生きる事を望んだだろう。ならば前へと進む事が、ケアンに対して唯一出来ることに違いない。
「……今までありがとう、ケアン」
目を閉じれば、彼の笑顔が浮かぶ。たとえ側にいなくても、どんなに彼に支えられただろうか。
「今度は、私の番ね」
再び目を開いたミルファの瞳に宿ったのは、真摯な光。
もしかしたら、己に皇帝となる資格はないのかもしれない。それでも今まで歩いてきた道も、ここまで付いてきてくれた兵士達も放棄する事は出来ない。
何より、これ以上罪を重ねて欲しくはないと願う心は今も変わらないから。
今までにたくさんの命が奪われた。多くの哀しみが生まれ、多くの涙が流れた。ミルファのように家族を奪われ、故郷を、愛すべき場所を追われた者もいるだろう。
──あんな思いを、これ以上誰にも味わわせたくはない。
「私は──お父様を討つ」
それはかつて、口にした言葉。兄を喪った哀しみと、その命を奪った父への絶望から生まれた誓い。けれど、今は──。
「それで全てを終わらせる。それまでは過去は振り返らない。……あなたの為に泣くのはそれから後になるけれど、許してくれる……?」
答えはない。けれどミルファは決めたのだ。今の自分を必要としてくれる人々の為に生きる事を。生きて──少しでもより良い道を勝ち取る事を。
「……ザルーム」
名を呼ぶと、彼はすぐに姿を見せた。彼もまた眠れなかったのだろうかと考えると、自然にミルファの顔に微笑が浮かんだ。
「私はずっと、あなたやルウェン、姉上……着いて来てくれる皆に助けられていると思っていました。その助けがあるからこそ、立っていられるのだと」
「ミルファ様……」
「でも、違った。私が無力なのは事実だけれど、それでも必要とされている。私にしか出来ない事がある。……あなたはそう、言いたかったのでしょう?」
心を閉ざしていたのは、記憶を封じていた術のせいだけではない。目を覆っていたのは自分自身であった事にミルファは気付いた。
気付いた今こそ、彼に告げるべき言葉がある。本当ならもっと早く告げておくべきだった言葉が。
「私はもう一人ではない──いつか言ったのは、そういう事だったのでしょう?」
「……はい」
それは確かな事実。けれど、ザルームは恐らく気付いていない。
「それは正しいけれど、間違ってもいるわ」
「間違い?」
「私は──今まで一人ではなかった。真実一人きりだった事など、一度もなかった。……そうでしょう? ザルーム、あなたがずっと側にいてくれたのだから」
ミルファの言葉にザルームは何も答えなかった。表情を隠すフードのせいで、彼がその言葉をどのように受け止めたのかさえわからない。
考えて考えて──そうして出た結論。
たとえケアンの命を奪った相手だとしても、彼が望んで手を下した訳ではない。そうでなくても最初から憎しみなど抱けるはずもなかった。
混乱はしたもの、自分の感情を確かめれば確かめるほど出てくる答えは一つだけ。
「側にいてくれて、ありがとう」
その名の通り、影からずっと支えてくれた人。彼に守られ、彼に導かれてここまで来た。そんな存在にどうして憎しみなど向けられるだろう?
ミルファの出した答えに、ザルームは沈黙したまま佇んでいた。思いがけない言葉に呆然としているようにも見える。やがてザルームはゆっくりと主に対する礼を取った。
「……ありがたきお言葉です、ミルファ様」
その言葉を、ミルファは穏やかな気持ちで受け止めた。
昇りきった朝日が室内を明るく照らす。それはまるで、最初に主従の誓いを交わした廃屋とは対照的な光景だった。
これでいいのだと思った。またここから、先に進められる──この、誰よりも忠実な『影』と共に。