第四章 呪術師ザルーム(37)
思い出す。呼び出され、『己』を得た時の事を。
彼は、思い出す。
最後に食らった『魂』にあったのは、死への恐怖でも諦念でもなく、たった一つの願いだった。
──それこそが、行使された術の正しい姿。禁呪とされたのは、術者の命を代償とする為だけではない。結果的に術者の死を求められるが故に、『成功』する確率が極度に低い為だ。
《闇の王》召喚と呼ばれる呪術に必要なのは、術者の血液と生命、そして──死を賭しても叶えたいと強く願う心。
多くの者は己の死を受け止めきれず、恐怖に押し潰され、願い自体を忘れてしまう。だが、それは生き物の本能であり、そうなる事が自然だ。
天寿を全うし、あるいは心残りを全てなくして、ようやく死は安らかな物へと変化する。本来の寿命を断ち切る行為に恐怖が伴うのは、それが自然に反する行為だからだ。
だが、極稀にその恐怖に打ち克つ者がいる。
年齢や経験は関係ない。それこそ、一種の資質的なものなのかもしれない──願いを叶える為に己を犠牲とする事を、全く厭わない者。
彼を呼び出したのは、そんな人間の一人だった。
ミルファを死なせたくない。
打算からでなく、ただ無事を願う祈りにも等しい切望。それはあるべき場所から引き寄せられ、己の存在すら知覚していなかった彼を縛る。
《闇の王》召喚の呪術は、命と引き換えに願いを叶えるもの。己を犠牲にするその術を、何故その少年が知っていたのか──それはわからない。
その術が『渡し守』と称されるモノに己を食わせ、魂に刻んだ意志を遂行させるものだと、果たして知っていたのだろうか。
己がない彼は、自我がない故に簡単にその魂にあった願いを受け入れ、支配された。
──もし、普通に術が完成していたのだったら、おそらくもっと違う展開になっていたはずだ。
『ミルファの命を守る為』に、彼は善悪の区別もない殺戮者と化し、刺客は元よりその命を狙う皇帝の命を屠っただろう。本来どちらの界にも属さない彼になら、それは不可能ではなかった。
しかし、その願いがあまりにも強く純粋だったからか。それとも──願いの持ち主が、『特別』だったのだろうか。あるいは、第三者が介入したからかもしれない。術は完成されながらも、別の変化を齎した。
少年──ケアンの願いは彼を縛り、浸透し、本来存在しないはずの意志を生み出す。
「わた……し……が……」
──私が、全てを。
それが彼が発した最初の言葉。そして、同時に彼が『彼』たる意志を持った瞬間。
ミルファを襲う全ての困難を、ミルファが負う全ての傷を。代りに受け止め、代りに背負う。
ケアンの魂から受け取ったのは、意志だけではなかった。彼が知る限りの膨大な『知識』と『記憶』もまた共に彼に溶け込んだ。
そしてそこに居合わせた第三者によって、肉体という『器』を手に入れ──『器』からは、ありとあらゆる呪術の知識を手に入れた。
それは様々な思惑と要因が重なり合い、噛み合った果てに生まれた、奇跡と言い換えても良いほどの偶然の産物。
そうして、彼は『影』となった。皇女ミルファを皇帝と為す為だけに存在する者に──。
+ + +
「……お目覚めになられましたか」
目を開くと、まるで目覚める事がわかっていたかのように、彼はそこにいた。
周囲の薄闇に溶け込むようにひっそりと、しかし寝台に横たわるミルファからもわかる位置でいつものように主に対する礼を取る。
耳に馴染んだ陰鬱な声が、何故か不思議と懐かしかった。つい先程までも、『夢』の中で耳にしていたはずなのに。
「全てを……思い出されましたか」
静かな問いかけ。
意図的なのかそうでないのか、彼は主語を交えずに尋ねる。ミルファはしばし考えた後、ゆっくりと頷いた。
「──一番忘れたいと、望んだ事も」
苦笑の混じるその声は、微かに震えている。ザルームが封じたものは、五年の歳月を経てなお、心に衝撃を残すのに十分だった。
目を閉じれば脳裏に思い浮かぶ。
優しかった『家族』達の無残な最期。変わり果てた母の姿。そして──敬愛していた父の狂気。
むしろ封じられていたが故に、それらは風化する事もなく克明に示す。全て、現実に起こった事なのだと。
(わたくしは……お父様の子ではないかもしれない)
ぎゅっと胸元を握り締める。真実を知るであろう母が亡き今、それを完全否定は出来ない。
もしもそれが事実ならば──果たして自分に父を討つ権利があるのだろうか? 否、それ以前に自分には『皇帝』を継ぐ資格がないという事になる。
そして──。
「ザルーム……。あなたは、人ではないの?」
『夢』の中でザルームは、自身が『渡し守』であると語った。五年もの間側にいた彼が人外の存在であったなどにわかには信じがたい。
だが、ザルームは静かにミルファの言葉を肯定する。
「その通りです、我が君」
陰鬱な声音に、動揺は微塵もない。その様子で理解する。彼は全てを話す気でここにいるのだ。
「私は……、かつてケアンという名の少年の魂を食らい、その願いを受けました。彼の血と命を代償に私は意志を得、彼の願いを叶える為に力を求めました」
淡々と語られる言葉に、嘘や偽りは感じない。それはケアンの死も確定的な事にする。ミルファはぎゅっと、胸元を握り締める。無意識に行ったその指先が、ある感触に触れた。
──ケアンの聖晶。
そっと引き出すと、そこにはいつもと変わらない春の空の色があった。微かな光を帯びたそれは、偽りの物には見えない。
「……どうして光を失っていないの?」
ケアンが死んだのなら、その光があるはずがない。
この光には今までどれほど救われたか。だが、裏を返せばこの聖晶がなければケアンの生存を信じ続ける事もなかっただろう。
説明を求めるミルファにザルームは僅かに考え込むように沈黙した後、思いがけない事を口にした。
「おそらく……ですが。私の中に、彼の魂が何らかの形でまだ残っているからでしょう」
「え……?」
思わずまじまじとザルームに目を向ける。無意識の内にそれは縋るようなものになっていたのだろう。ザルームは緩く頭を振った。
「……ケアンは死にました。彼が望んだ事とは言え、結果的に私が命を奪ったようなものです。ミルファ様──私を憎みますか?」
静かな問いかけに、ミルファはすぐに答える事が出来なかった。
途切れた記憶が繋がり合い浮かび上がったのは、大切に思っていたものが全て失われてしまったという事実。
頭の中では理解出来ても、心は追い着かない。突然心の中にぽっかりと空いた空洞を、どうやって埋めれば良いのかわからなかった。
『もしかして……初恋の人、とかですか』
不意にルウェンから尋ねられた言葉が耳に甦った。
尋ねられるまで自覚すらしていなかった感情。辛い時、苦しい時、いつも心の奥で縋ったのは彼の存在だった。
今ならわかる。自分は確かに、ケアンが好きだった。好きだからと言って、叶う想いではないと知っていたから、気付かない振りをしていただけ。
けれど──たとえ実る可能性のない恋でも、こんな風に失うなんて思ってもいなかった。
ケアンはもう、この世にいない。
つまりそれは相手の幸せを祈り、淡い想いを思い出に変える事すら、ミルファには許されなかったという事。それどころか、最後の最後まで──傷つけた事を謝る事も出来ずに。
胸が苦しいのに、押しつぶされそうなのに……それでも涙は出なかった。こんな時ですら、誓いを忘れない自分が滑稽だった。
もしかしたら、そんな資格すらないかもしれないのに──。
「……ごめんなさい、一人に、して……」
まだザルームから聞くべき話はいくつもある。けれど今は、何を聞いても受け入れられる気がしなかった。
「──御意」
ミルファの言葉を受け、ザルームは深く一礼するとその姿を消した。