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天秤の月  作者: 宗像竜子
第四章 呪術師ザルーム
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第四章 呪術師ザルーム(36)

「……、ぅ……っ」

 夜半、人目を忍ぶように訪れた彼の目前で、ミルファが苦痛に耐えるような吐息を零していた。無礼を承知でそっと額に指で触れれば、そこは汗でしっとりと濡れ、驚くほどの熱を帯びている。

「ミルファ様……」

 原因はわかっている。本来ならある一定の条件を満たした時に自然に解除されるはずの術を強制的に解除したせいだ。

 条件──その過去を思い出しても受け入れられるほどに、ミルファが環境的にも精神的にも安定している事──はまだ十分満たされておらず、少しずつ断片的に思い出されるはずのそれが奔流となって襲っている。

「申し訳、ありません……」

 罪悪感を内包した謝罪は、ひどく掠れていた。

 もっと早く訪れるはずだったがそれは叶わなかった。実際、彼──ザルームは今、立っているのもやっとの状態だ。

 幸い、空間を渡り歩く事自体は彼自身が持つ特性──言い換えれば異能であり、実際は呪術ではないので苦ではない。

 だが、術を強制解除した余波はティレーマが危惧した通り、動く事に支障が出る程に深刻な影響を及ぼしていたのだった。

 もはやこうなったら全て思い出させるしかない。

 ミルファ自身が乗り越えるのを待つのも手だが、相応に時間がかかるだろうし、何よりミルファの心と身体がもつとは限らない。

 時が来たのだ、とザルームは重い吐息をついた。

 この状態で呪術を使えば、自身の身にさらなる負担がかかる事は明白だ。けれど今ここでミルファの心身に禍根を残す訳には行かない。


 ──我が主に、玉座を。


 全ての始まりの言葉。彼の存在はその為だけにある。

 その理由を今まで何故かミルファは問い詰める事はなかった。彼がかけた暗示的なものの作用もあるだろうが、本能的に避けていた可能性もある。

 その裏にある、一つの真実を感じ取って──。

 全てを思い出した時、ミルファがどう動くのかまったく予想はつかない。どのような非難も軽蔑も受け入れる覚悟だが、今の時点で言える事は、それが己にとってどんなに厳しいものであろうと彼女の選んだ道に従う、それだけだ。

 もっとも、側にいる事すら許されないかもしれないけれども──。

 迷いを振り切るように一度頭を振ると、ザルームは苦しむミルファを助力すべく、静かにその口を開いた。


+ + +


 ザアアァ……ァア……──


 激しく降りしきる雨の音。

 闇の中に響くその音は、そろそろ耳慣れたものになりつつあった。幾度も幾度も──繰り返し見た夢。時に詳細に、時に曖昧に、見る内容こそ違えどもその雨音と廃屋の光景は変わらない。

 目の前にはケアンが倒れている。そしてミルファは何も出来ずにその光景を眺めている。それもいつか見た夢と同じだ。

 ただ一つだけ、今までの夢と異なる事があった。

 闇に溶け込むような暗い人影が、目の前にある。かつては白かった服を真紅に染めて横たわるケアンの側に彼は静かに佇んでいた。じっとその視線を動かないケアンに向けている。

「ザルーム……?」

 思わず呼びかけると彼はゆっくりとこちらへ目を向けた。

「──……我が君」

 それは何処か、初めて顔を合わせた時の状況に似ていた。

 あの時は見知らぬ彼に驚き、それでも侮られてはならないと精一杯虚勢を張ったものだ。そして彼の口から知った。

 ──父が乱心し、兄や姉を手にかけた事を。

 まるでその時と再現のようだが、ザルームは全く違う言葉を口にした。

「『過去』を受け入れる覚悟はお出来になりましたか」

「過去……」

 問われる事でミルファは思い出した。つい先程までの惨劇は、決して『夢』などではなく……。

「──みんな、死んでしまったのね……」

 脳裏に焼きついた数々の光景が、洪水のように一気に押し寄せてくる。

 南の離宮を襲った悪夢のような出来事。

 言葉もなく床に転がっていた数々のむくろせ返りそうな血の匂い。その血を吸ったような、赤い、赤い月──。

「……嘘を吐いてしまったわ。必ず戻ると、約束したのに」

 あれから五年。彼等の亡骸は今もまだ、あの場所で自分の帰りを待っているのだろうか。誰からもかえりみられる事も、花を手向けられる事もなく、ずっと──。

 愛すべき人々の死は幼かった自分にはあまりにも重かった。しかし、それが単に賊の仕業だったのなら、忘れる事を望んだりはしなかっただろう。

 忘れたいと思ったのは、それを行ったのが他でもない、皇帝だったからだ。

 大好きだった父が、女官達を、そして母を手にかけた事を信じたくなかった。──そして耳にした、あの言葉も。


『本当にミルファは私の子か?』


 サーマは何か理由があってか、明確な否定をしなかった。つまり、単なる父の妄想ではないかもしれないのだ。その事が恐ろしかった。

 ──そして。目の前に横たわる、抜け殻のような少年を見つめる。

「『これ』も、実際に起こった事なの……?」

 ひどく咽喉が渇いている気がした。軽く息苦しさも感じる。

 微かに感じる悪寒は、おそらく『現実』のミルファが発熱している事も原因だろうが、それだけではない。『これ』が『夢』の形を取った過去の再現である事を、ミルファは理解しつつあった。

「……ザルーム」

 無意識に口にしたのは、己の記憶を封じた呪術師の名だった。

「私を生かす為に、お前は私に呪術をかけた」

 現実を放棄した自分は、あのままだったなら今頃この場にいなかっただろう。過去を封じた事で己を取り戻せたからこそ、今ここにいる。けれど、その代償は……。

「ケアンは……死んだのね……?」

 実際に言葉にすると同時に、胸に大きな穴が空くような感覚を覚えた。

 ケアンが危うい所を救ってくれた事を覚えている。初めて会った日、彼を試そうと隠れた衣裳部屋へ自分を隠してくれた。

 もう二度と会えないかもしれない、心の底でそう思っていたからまるで夢のように思えたが、今ならわかる。あれは実際にあった事だ。

 けれどそうなると腑に落ちない事がいくつも思い浮かぶのも確かだった。

 どうして、彼が命を落とすような事になったのだろう?

 そもそも放心した自分を連れて、彼はどうやってあの廃屋まで辿り着いたのだろうか。帝宮を出るだけでも至難だったはずだ。その上、嵐のような風雨にまで襲われて困難でなかったはずがない。

 ──そしてあの廃屋で。

 ケアンは『何か』を呼び出していた。

 彼が口にしていた言葉は、明言出来ないがザルームの使う呪術と同じようだったように思う。何故、神官である彼が呪術を知っていたのだろう──。

 封じていた記憶を取り戻しても、疑問は尽きない。むしろ増えた気さえする。だが、それよりも。

(私は……結局、ケアンに謝る事が出来なかったのだわ)

 こんな風に終わるなんて思ってもいなかった。

 子供だった自分がつけた傷が、彼にとってどれほどのものだったかはわからない。ケアンの事だから、心無い言葉も許してくれていた気はするけれども。

 だからこそ、危険を顧みらず助けに来てくれたのだろうし、命をかけて自分を生かそうとしたのだろう。けれど──。

(私は、こんな事は望んでいない)

 胸が、痛い。

(私は、ケアン、あなたの死なんて望んでなかった……!)

 謝りたいと思っていたのも、もう一度彼と笑って時を過ごしたいと願ったから。

「どうして……!?」

 けれど──もう、それは叶わない。その事実に打ちのめされる。

「私の何処に……この私に、命を捨ててまで守る価値があったというの!?」

 血を吐くようなミルファの言葉に、それまで沈黙を守っていたザルームは静かに口を挟んだ。

「『彼』の本心が何処にあったのか……、それはもはや誰にもわかりません。明言出来る事があるとしたら、それは──彼がただ、あなた様が生き延びる事を、心から願っていたという事実だけです」

「何故、そんな事が言えるの?」

 やりきれない思いが渦巻く。

 大切な人達を失って、一人生き続けてどうして幸せになれるだろう。一緒に死んでしまった方が幸せだったのではないかと、今でも思うのに。

 けれどケアンはミルファが生き延びる事を望んだと言うのか。実の父に命を狙われても、母を失っても──たった一人の『友達』の命を引き換えにしても、生き延びる事を願ったのか。

「ケアンが本当にそれを願った証でもあると言うの」

 挑発的に突きつけた言葉に、ザルームはゆっくりと頭を揺らした。

「ございます」

「え?」

 骨のような白い指が、胸を示す。

「私が存在している事──それこそが、彼の望みの証です」

「……どういう事? 何故、お前がいる事が……?」

 隠しきれない疑問を口にしつつ、ミルファは『時』が訪れた事に気付いていた。

 本当ならばとっくに明らかになっていなければならない事だった。心が枷となって、長い間口に出来なかった疑問──それを明らかにする時が。

「ザルーム、お前は何者なの?」

 その言葉はするりと零れ落ちた。今まで出てこなかった事が不思議なほど。そしてザルームまた、その時を待っていたかのように静かに答える。

「私は『影』──あなた様を皇帝にする為に生まれた者。契約という光によって形を得た……化物です」

「化……物……?」

「……ミルファ様も一度は耳にした事があるのではないでしょうか。かつては混在し、現在は二つに分かたれた世界の話を」

 ──それは古い伝承。太古の言葉を操る呪術師すら詳細を知らぬ時代の物語。

 曰く、世界はかつて光と闇が混在していたという。

 光の下で生きる者と闇の下で生きる者が共に存在し、それ故に世界は混沌と化し、争いは絶える事無かった。

 それを嘆いた神が世界を二つに分けた。光は光に、闇や闇に。人は人の、異形の者は異形の者の。

 世界を分けた神の名は『ラーマナ』。それは天秤を司る神──。

「知っているわ。でも……、それは御伽噺ではなかったの?」

「いいえ。この世界の者は誰一人として知らないでしょうが──もう一つの世界は確かにあるのです」

「お前はそのもう一つ世界から来たとでも?」

 完全に否定は出来ないがそれでも信じきれずに尋ねれば、ザルームは首を横に振った。

「私はそちらの者でもありません」

 否定し、しばらく彼は言葉に迷うように沈黙した。

 ミルファは待つ。元々常軌を逸した存在の彼が、どんな事を口にしても驚かない覚悟もあった。だが、やがて続いたザルームの言葉は、そんなミルファの想像も及ばないものだった。


「その二つの世界の狭間にて『魂』を食らって生きていた存在。こちらの世界では『渡し守』と表現されている存在……それが、私なのです」

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