第四章 呪術師ザルーム(35)
直射日光をカーテンで遮った室内は昼間でも薄暗い。
外からは作業の音や人の声がするものの、その全ては遠く室内は静まり返っていた。そこに置かれた寝台に寝かされているのは──ミルファ。
その額は汗に濡れ、その唇からは時折苦しげな吐息が漏れた。
「もう、丸一日は過ぎますね」
感情を感じさせない落ち着いた声が響く。
寝台の横には二人の人間。一人はティレーマ、そしてもう一人は医師のリヴァーナである。
「今の所は『今までの疲れが出た』という事にしてますが……、あまり長引くようでは確実に士気に障るでしょう」
脈を取りつつ呟く口調にはさほど深刻さは感じられない。だが、内容は深刻そのものだった。
しかも、下手すると反乱軍の侵攻がここで止まってしまう可能性すら孕んでいる。今はリヴァーナの機転により、何とか誤魔化せているが──。
「一体何があったのか存知ませんが、肉体的な疲労だけではこんな事にはなりません。どちらかと言うと、ひどく精神的な負担がかかっているように思われます。……ティレーマ様、何か心当たりは?」
リヴァーナの問いに、ティレーマは硬い表情で頭を振った。
「あります。でも、話せません」
「話せない?」
「わたくしも全てはわかっていないのです。ですから……、話せません」
答える表情は暗い。それは室内が薄暗いせいだけではなく、実際顔色が優れないからだ。
──もしかしたらその余波が及ぶかもしれません
呪術師ザルームがミルファへかけた術を解く際に口にした言葉に間違いはなく、ティレーマも今朝方まで臥せっていたのだった。
ティレーマだけではない。やはりその場にいたルウェンも、ティレーマほどではないが余波を受けてしばらくはまともに動けなかった程だ。
強制的に解除された呪術は形を変え、純粋な『力』となってその場にいた人間に襲い掛かった。逆を言えばそれだけの力を使わねば、ミルファの記憶を封じる事は出来なかったとも言えるだろう。
──ザルームはあれからまた姿を見せない。解呪された直後まではミルファの側にいたのだが、そこへ第三者が訪れ、ルウェンとティレーマが動揺している間に気付くとその姿は見えなくなっていた。
側にいただけで動けなくなる程の力だ。術者である彼だけが無事だとはとても思えないのだが……。
(呪術師の事はよく知らない。けれど、あの方はやはり何かが違う気がする)
彼が力ある呪術師であるのは確かだろう。だが、もはや才能などという言葉で括れるものではない。
異常だ、とティレーマの直感は告げていた。
これだけの力を使いこなせる呪術師が、今まで無名であるはずがない。名を秘す必要もないはずだ。ザルームに接した人間が必ず抱く感想を、ティレーマもまた抱いた。
(あの方は何者なの……?)
そして彼は何故、記憶を封じてまでミルファを生かそうとしたのか──。
成り行きとはとても思えない。きっと何かしらの思惑があったはずだ。しかし、仮にミルファが皇帝の御座に就いたとして、その事で彼に何の利益があるのかまったく見当もつかない。
「話せないとい言うのを、無理に聞くつもりもそれだけの権限も与えられていませんが……。いつまでも誤魔化しはききません。その事はわかっていらっしゃいますね?」
「ええ。わかっています……」
旗頭であるミルファの存在なしには帝都への進軍は難しい。それは戦の事などろくに知らないティレーマにとて想像は出来る。
──誰もミルファの代りにはなれないのだ。
「リヴァーナさん、あなたには感謝しています。あなたがあの時来てくれなければ、ミルファの異常が周囲に知られていたかもしれません」
「それは不幸中の幸いと言うべきでしょう。私がミルファ様の部屋を訪れたのは、全くの偶然ですから」
満足に動けない状態で扉が叩かれた時は、どうなる事かと思ったものだ。やがて扉の外から呼びかける声がリヴァーナの物である事に、ティレーマはどれだけ安堵したかわからない。
南領から自ら志願して従軍したというこの医師ならば、ミルファを委ねる事が出来ると思ったのだ。
数少ない女性の医師の中で、主治医とまでは行かないまでも、ほぼミルファ専属のように位置づけられている事をティレーマも知っていたからだ。
リヴァーナは一目で事態を察し、ミルファを寝台へと運び、うまく身動きの取れないティレーマとルウェンが回復するまで、誰も中に入れないようにしてくれた。
そのお陰でこの出来事が外部に漏れる心配はそれでかなり解消された。
リヴァーナは元々口数も少なく、しかもほとんど感情を表に出さない。ミルファの変事に全く驚かなかったという事はないはずだが、傍で見ていてその動揺はまったく感じられなかった。
重臣を筆頭に数人の人間がミルファに会いに訪れたが、医師であるリヴァーナの『しばらく安静が必要』という言葉と彼女の常と変わらない様子に、それならとその言葉を信じて黙って帰っていったのだった。
果たしてそれが他の人間だったなら、何処まで信じてもらえたかわかったものではない。
「そう言えば、リヴァーナさんは何の用で……?」
思えばそもそもリヴァーナがミルファの部屋を訪れた理由が不明のままだ。事実をそのまま伝えられない罪悪感も手伝って、ティレーマはリヴァーナへ尋ねた。
「急ぎの用ではなかったのですか?」
「ええ、急ぐ用事ではありませんが……」
答えつつ、リヴァーナは軽く肩を竦めた。
「私経由で手紙が届いたので渡そうと思ったのです」
「……手紙、ですか?」
「ええ、あれです」
言われて指し示された方を見ると、部屋の隅に置かれた書き物机の上に何か包みが置いてあった。思い返してみれば、確かに問題の場面でもそんな包みを抱えていたようにも思うが──。
「……あの、あれはどう見ても『手紙』には……」
それが真実、手紙なのだとしても、大きさ的にも厚さ的にもあり得なかった。だがリヴァーナは真顔で肯定する。
「仰りたい事はわかります。……あれで、最初はちゃんと『手紙』だったんですよ。距離が離れていない内は比較的すぐに届きましたしね。それが南領から離れて時間がかかるようになるにつれて、数日分まとめて送ってくるようになりまして」
「……。それはまた、何と言いますか……、変わった方ですね」
他にもっとしっくりくる感想はないかと思ったが、ティレーマはそれ以外に答える言葉を見つけられなかった。
「何というか、労力の使いどころを勘違いしていると思うんですがね。ミルファ様もミルファ様で律儀にお返事なさるので……」
軽くため息。常に鉄面皮なリヴァーナにしては珍しいが、それだけ参っているのだろう。間に入るリヴァーナに同情しつつ、ティレーマは思い浮かんだ疑問を尋ねた。
「一体、どなたがこれを?」
リヴァーナの言葉からわかるのは、差出人が南領の人間という事くらいだ。
ミルファが南領でどのような生活を送っていたのか詳しくは知らないが、姉として(やり方は難があるものの)ミルファへ心を砕いてくれる存在に興味を抱いた。
「そうですね……。保護者の一人、って所でしょうか」
「保護者? と言うと……、南領主様、ですか?」
南領妃サーマが南領主の娘であった事を思い返しつつティレーマが問い返すと、意外にもリヴァーナは首を横に振った。
「ジュール様ならこんな非効率な事などなさらないでしょう。あれは、将来南領主夫人になるであろう人の仕業です」
「……仕業」
ティレーマは思わずその言葉を反芻した。あまり良い意味合いとは言えない。
「ジュール様の婚約者なのですが、実は私とは幼馴染でして。色々理由や事情があって婚姻自体はまだですが、実質的にも現在の南領の女主人ですね」
「そうだったんですか。ではミルファにとっては義理の叔母に当たる方なのですね?」
「正式に夫人となれば、そうなりますね。ミルファ様を心配する余り、私が従軍すると知ってこれ幸いと手紙攻撃を……困ったものです」
(手紙──)
ふと、思い返す。思えば帝宮を出てからミルファと再び繋がりを持ったのも、ミルファから届いた一通の書簡からだった。
今もまだ手元にある。処分すべきか悩んだが、結局出来なかったのだ。それが生まれて初めて、『肉親』から届いた手紙という事もあるだろう。
まだあれからそれほど時間が経った訳ではないのに──何故か少し懐かしい。
「ミルファ様がこの様子では私の用も終わりません。早くお目覚めになってくれるといいのですが」
リヴァーナの言葉に耳を傾けつつ、ティレーマは寝台に横たわるミルファに目を向けた。
(どうか、無事に目覚めて)
祈るように願う。
(みんな──あなたを必要としているのよ)
まったく気付いていない訳ではないだろう。それでも何処か孤独の影を引きずる妹に、きちんと知ってもらいたいと思う。言葉だけではなく、心で理解してもらいたい。
多くの味方が側にいる事を。
反乱軍に属する兵士達だけではない。リヴァーナもその一人だろうし、ルウェンやフィルセル、ジニーだってそうに違いない。
遠く離れた南の地にもミルファを案じ、見守る人達がいる。ティレーマ自身もミルファが進む道を側で支えて行けたらと願っている。
そしてきっと──姿を見せない、かの呪術師も。
「……大丈夫です」
自分に言い聞かせるように、ティレーマは口を開く。
「ミルファはきっと目を覚まします」
苦しげに身じろぎして掛け布から零れ落ちた手をそっと戻す。ミルファは戦っている──己の心の中で。
呪術で無理矢理封じたほどのそれは、きっと残酷で心が砕けそうなものなのだろう。想像する事しか出来ないが、それでも打ち勝って欲しいと願うのは、間違いだろうか?
「信じましょう」
もうミルファは、無力な子供ではない。
父である皇帝を討てるだけの力を手に入れた。身体が成長したと同時に、心もまた成長したはずだ。そこに賭けるしかない。
ティレーマは祈った。
けれどそれは常のように、唯一神ラーマナに対してのものではない。神よりも大きく、捕らえどころのないもの。この世界を支配する、運命の流れそのものに。
少しでも妹にとって良い運命が訪れる事、それを祈る事しか今のティレーマに出来る事はなかった。