第四章 呪術師ザルーム(34)
(お母様……!!)
悲鳴すら上げる事もなくサーマが床へと倒れ伏した。視線の先で、たちまち床がサーマの血潮で染まって行く。その次第を瞬きする事すら出来ずに見つめミルファの前で、皇帝はさらに信じがたい言葉を口にした。
「──私が知りたい真実は一つだけだ。サーマ……、本当にミルファは私の子か?」
(……え?)
真っ直ぐ耳に飛び込んできたそれは、かろうじて現実に踏み止まっているミルファの精神を足元から揺るがせるだけの威力を秘めていた。
──今、皇帝は何と口にしただろう。
(まさか……、そんな……)
呆然と立ち尽くすミルファの耳に、追い打ちをかけるように弱々しく答えるサーマの言葉が届く。
「それ……を、貴方が『真実』と思う……でした……ら……わたくし、に、否定の言葉は……ありませんわ……」
それは予想していた否定の言葉ではなく、ミルファを救う言葉にはなり得なかった。
聞かなければ良かった。せめて──耳を塞いでいたら。そうすれば聞き間違いだと、何かの間違いなのだとそう、思えたのに。
『ミルファ、これは秘密よ?』
耳に甦るのは、つい半日ほど前にサーマの口から聞いた言葉。
『わたくしはね、ミルファ……、あなたのお父様の事がとても好きなの。だから、あなたを産む事を選んだのよ』
──確かに、そう言っていたのに。
それは本来なら秘密にすらならない『秘密』。何故をそれをサーマが心に封じているのか、その理由をミルファは対象であろう『父』が他でもない皇帝であるからだと推察した。
皇帝が複数の妻を持つのは義務であり、そしていずれの皇妃も平等であり、基本的に『特別扱い』をされる事はない。
サーマが皇妃でありながら皇帝の片腕として政に加わる事が、歴代の皇妃でも異例の扱いである事はミルファも理解していた。
客観的には穏やかで、お互いを尊重し合った、ある意味理想的な関係。夫婦として考えると何処か違和感を感じはしても、そのようなものなのだと思い込んできた。
……けれど。
『いいわね? 誰にも話しては駄目よ』
その言葉で、ただの尊敬なのではなく愛情が存在するからこそ、サーマは想いを隠さねばならなかったのではと、ミルファは思ったのだ。
その前提で振り返れば、いろいろと納得出来る事がある。
どれ程恋い焦がれ慕おうとも、その人は決して自分だけを見る事もないし、仮に皇帝がその想いに応える事があるとすれば、おそらくサーマはその時点でこの皇宮にいる事も許されなくなるに違いなかった。
必要以上にサーマが皇帝と距離を取り、事務的に振る舞うからこそ、片腕として側に控える事が許されているとするなら──側にいたいと願うならば、その想いを殺すしかない。
『もし──わたくしが、陛下よりも先に死ぬような事があったら』
──それともあの時の言葉は、別の意味を示していたとでも言うのだろうか。
『そんな事があったら、ミルファから陛下にだけは伝えて頂戴』
問題はサーマが明確な否定しなかった事ではない。父である皇帝がそのような疑いを抱いているという、事実。
すなわち──少なくとも、皇帝がそう思うような出来事があったということ。
そろそろ心の許容量を超えてきたからか、それとも他に理由があるのか、思考が覚束ないものになって行く。
(お母様は……お父様を裏切った、の……?)
まさか、とすぐに否定する。ならばどうしてあんな約束をする必要があると言うのだろう?
けれど万が一の可能性として、サーマの言っていた『お父様』という単語が皇帝以外を示していたのだとしたら──?
(わたくしは……、お父様の、子ではないの……?)
苦しげな吐息に混じって何事かを紡ぐサーマの声が聴こえたものの、距離があるせいか詳細は聞き取れず、その妄想を打ち砕いてくれる確かなものにはならなかった。
「……ハハ……、アハハハ……!」
鼓膜を振るわせるのは、狂気じみた哄笑。
──月が、そんな彼を見下ろしている。今夜流れた多くの血を吸い取ったような、赤い光を放ちながら。
そう言えば、いつか聞いた。月が満ち欠けを繰り返すのは、それが陰陽の天秤を司るからだと。
光は闇なしには存在出来ず、闇もまた光なしには存在出来ない。時には光が、時には闇が重みを増す事があろうとも、それはやがて元の重みに戻ってゆく。
それこそが、自然の摂理。
互いに影響し合い、それぞれにないものを補い合うのは、光と闇のみにあらず──そんな事を話してくれたのは、目の前にいる皇帝、その人ではなかっただろうか。
「滅びるがいい……」
軋むような声が、呪詛を紡ぐ。
──何が、この人をこんな風に変えてしまったのだろう。
「絶えてしまえ……こんな、世界なぞ……!」
──何が、この人にそんな事を望むまでに追い詰めたのだろうか。
記憶の中にある顔は、どれもこれも、心が温かくなるような楽しげな笑顔ばかりだと言うのに。もしかしたら原因の一端が自分の存在にあるかもしれない、その事実がただ恐ろしかった。
窓から入る風に乗って、何処か鉄錆びたような生臭い匂いが微かに届く。はっと我に返り、目を横たわるサーマの方へ戻す。
(お母様……)
身動き一つしないそこにはもう、生命の灯火が灯っている様子はない。なのに悲しいとも寂しいとも思わない自分は、父と同様に何かが狂ってしまったのだと漠然と思う。
視界の先で皇帝がゆらりとこちらを振り返った。
(コワイ)
ここでようやく恐怖感を覚えたミルファは、こくりと喉を鳴らした。皇帝はゆっくりとした足取りで自分の方へ向かって来る──目的はおそらく、この自分の。
(……逃げなきゃ)
母すらも手にかけたこの人が、この自分をわざわざ見逃すはずはない──本当に自分が、母の裏切りの結果であるのならば。
なのに足は完全に竦み、その場から動こうとしない。心の何処かが、現実を拒否していた。
(きっと、これは夢なんだ。きっと、そう。目が覚めたら皆生きていて、お父様もこんな恐ろしい事はしていなくて、お母様はいつもみたいに笑ってくれて──)
そんな事を考えている間にも、皇帝はすぐ間近にまで迫っている。あと僅かで扉が開かれる──そう思った時、不意に誰かに強く手を引かれた。
強引に扉から引き離されたかと思うと、そのまま横の小部屋に連れ込まれる。そこは衣裳部屋で、奥に潜り込めばおいそれとは見つからない。
思考の追いつかない自分の身体を、あまり大きさの変わらない誰かが抱きかかえるようにして強引に奥へと連れてゆく。
何者か確かめなくても、その人物に恐れは感じなかった。
この衣裳部屋が隠れるのに絶好の場所だと知るのは、母亡き今、自分以外ではあと一人しかいないのだから。
(ケアン)
言葉はなく、ただ自分を庇うように回された腕の温もりがやけに現実的だったけれど、重なり合う衣装の奥に蹲って身を隠しながら、ミルファは声もなく笑った。
(──ほら、やっぱりこれは夢なんだわ)
ケアンがこんな所にまで自分を助けに来るはずがない。大神殿と南の離宮はそれなりに離れているし、第一、まだ彼の立場を考えずに一方的に非難した事を謝れてもいないのだ。こんな都合の良い事が起こるなんて、夢以外の何だと言うのだろう?
(目を覚まさなきゃ)
こんな悪夢から、一刻も早く。
幼い子供の頃と変わらない懐かしい温もりの中で、ただそれだけを願う。そうして──ふっと、糸が切れるように何もかもが闇に飲まれていった。