第四章 呪術師ザルーム(33)
非常にゆるいですが少々残酷なシーンがございます。苦手な方はご注意下さい。
物言わぬ人々の間を、縫うように奥へと進む。
これだけの死を前に母の生を信じるなど愚の骨頂に違いない。何処か冷静な部分はそう結論付けるのに、それでも父が母までも手をかけるなどどうしても考えたくなくてその結論を拒絶する。
長い間共にこの世界の為に働いてきた二人だ。そんな簡単に綻びる関係ではないはずと、自分に言い聞かせる。足元に広がる現実ほど確かなものなど、何一つなかったけれど。
やがて辿り着いたサーマの部屋の扉は僅かに開いていた。
どきり、と心臓が跳ねる。
逃げ出してしまいたい気持ちを何とか抑え、開いた隙間からそっと中を窺おうとした時、ミルファの耳に声が飛び込んできた。
「陛下……。何故、こんな事を……?」
「愚問だな、サーマ。邪魔だったからだ」
それは明らかにサーマと、父である皇帝の声だった。けれど二人の口調は静かなものながら、迂闊に触れれば切れそうな程張り詰めた空気がそこにある。
こくりと一度咽喉を鳴らし、勇気を総動員させて隙間から中を覗き込む。細い扉の隙間から、窓辺に向き合って立つ二人の人間──両親の姿が見えた。
思えば、こうしてサーマと皇帝が二人きりでいる姿を見たのは初めてかもしれない。
今まで皇帝がこの離宮を訪れてもサーマが同席する事は滅多になく、ミルファと皇帝の二人で時間を過ごす事が常だった。
皇帝が訪れる時でもなければ直接顔を合わせる事のない父と娘が水入らずの時間を過ごせるように、という配慮のようにも取れるが、サーマとて皇帝の妻でありミルファの母である。その場に居合わせても良いはずなのに。
──子供心にその事へ疑問を感じなかった訳ではない。
けれど、普段はいつも一緒に仕事をして毎日ように顔を合わせている二人だから──と無理矢理自分を納得させてきていた。今、それが自分の一方的な思い込みだった事を思い知る。
「そのような理由で? ……見損ないました」
「見損なう?」
「人の命を、何だと思っていらっしゃいます。今のあなたに……『皇帝』を名乗る資格などございません……!」
窓から月が見えていた。
赤い。
赤い──まるで今宵流れた血を吸ったかのよう。決して明るいとは言えない光の下なのに、何故かはっきりと皇帝の表情を見て取る事が出来た。
そこにあったのは──何処までも冷たい、憎悪。対するサーマの口調も、普段の落ち着きはなく手厳しさすら感じるもので、よく知るはずの二人を殊更別人のように感じた。
「資格、か。面白い事を言う。神官でもないのに、人を殺した位で『皇帝』の資格が消えるとでも?」
「そんな意味ではありません。……ご自分が一番よくご存知のはず」
「なるほど。確かにこれは皇帝にあるまじき私利私欲の結果だ。ではもう私は『皇帝』ではない訳か。ようやくこの重責から自由になれたという事だな」
「自由? 陛下──あなたは、間違っています。こんな事をしても……、何人の血が流れようと、あなたは決して『自由』にはなれない……!!」
「黙れ! お前に何がわかる……この私の、何がわかると言うのだ!」
会話は次第に口論とも言える激しさを増して行き──ミルファはただそれを、息を潜めて見ている事しか出来なかった。
こんな二人の姿を見たくはなかった。見たくはなかったけれど──目を逸らす事も出来そうにない。
ふと目を離した瞬間に、何か取り返しのつかない事が起こってしまいそうだった。だからじっと、声を殺して彼等のやり取りを見守る。まるで、悪い夢のようだと思いながら。
──否、いっそこれが自分の見ている夢だったら。
メリンダの死も、言葉なく転がっていた使用人達の惨い姿も、言い争う両親の姿も。
そうならばどんなに良いだろう。しかしミルファの願いが叶えられる事はなく、事態はさらに悪い方へと進んでゆく。
「目を覚まして下さい、陛下……。あなたが求めるものは、本当にこんな事なのですか!?」
言い募るサーマに対し、皇帝は歪んだ笑みを浮かべた。果たしてそれは嘲笑だったのか、自嘲だったのか。やがて口を開いた皇帝は、暗い声で答えた。
「私が求めるもの──か。それは真実だけだ、サーマ」
「……真実?」
思いがけない言葉だったのか、サーマの言葉に戸惑いが漂う。
「何を……知りたいと仰るのですか?」
「わからないのか? ……そうだろうな」
サーマの問いにすうっと皇帝の腕が持ち上がり、その手に握られていた剣がサーマの喉元に突きつけられる。
皇帝の行動を予測していたのか、サーマに動揺はないようだったが、その目がじっと自分の喉に向けられた剣に向けられているのがミルファの目にもわかった。
ここに至るまでに幾人もの血を吸ったそれは、夜の闇の中、不吉な鈍い光を放つ。
「お前はいつも、そうだ。気付いているくせに、気付いていない振りをする」
「どういう意味ですか、陛下」
「いつか、私が言った言葉を覚えているか?」
「言葉……?」
「『いつかこの欠落が、私を蝕んだとしても……それは私が『皇帝』である前に一人の『人間』だったという証だ』」
「……はい、覚えております」
「ならば、お前はわかっていたはずだ。私がどんなに……『人間』でありたいと望んでいたかをな!」
「っ!!」
ザンッ!
皇帝の言葉と共に振り下ろされた凶刃はサーマの肩口から腹の辺りまでを無情に切り裂いていた。
+ + +
人は死を迎える際、それまでの過去を見ると言う。
けれど予想よりも早く訪れたその瞬間にサーマの脳裏を過ったのは、たった一人の面影とサーマに遺した言葉だった。
──遠い昔、まだ子供だった頃。
初めて好きになった人と、その人が離別を前にして言った言葉。
『君はいつか、本当に欲しいものを手に入れるだろう。でも……、それは君を苦しめるかもしれないね』
その時は何の事かわからなかった。
まるで予言めいたその言葉は、突然告げられた別れの言葉を前に霞んで胸に届かなかったし、その時の自分は何を欲しがっているのか自覚もしていなかったから。
その言葉が、今になって何を伝えようとしていたのか理解する。
「陛、下……」
赤い月を背に、自分を冷たく見下ろす人。この人は、こんな目をする人ではなかったのに。
──思い出すのは初めて顔を合わせた日の事。
『慣れない長旅で疲れたのでは?』
小さな野望を胸に、世界の頂点に立つ人と会話を交わす緊張の中にいた自分に向けられた、気遣うような労いの言葉。
いくら父と面識が深かろうと、市井の民に比べれば身分が高かろうと、地方を預かる領主の娘からしても皇帝は雲の上の存在である。
今にして思えば、その時の彼はあくまでも素だったに違いないのだが、その後の会話での皇帝が見せた思いがけない気さくな対応に、当時十七の小娘に過ぎなかったサーマは感動したものだった。
……この時、皇帝の態度や言葉が何か一つでも違っていたなら、もしかしたら未来は変わっていたかもしれない。
床に黒い染みが広がってゆく。この自分の身体から溢れたものなのに何故か他人事のように感じた。不思議と傷の痛みを感じないせいかもしれない。
痛みの代わりに侵食して行くのは悲しみ──ただただ、悲しかった。
結局自分はこんなにも側にいながら、彼が本当に望んでいた事に気付いていなかったのだ。そして気付いても、どうする事も出来ずにこうして先に──。
サーマは手を伸ばそうとした。
せめて、彼に知って欲しかった。口にせず、隠している事もある。実を言えば、恨んだ事もある。けれど──自分の選択とその結果に、嘘はなかったのだと……。
「……っ」
もはや力の入らない身体は言う事を聞かず、腕を持ち上げる事すら出来ない。指先だけが力なく床を掻く。
その瞳から、一滴、涙が零れ落ちた。