第四章 呪術師ザルーム(31)
「何故、と聞いてもよろしいですか?」
他愛のない事ではとは思ったが──よもやこんな頼み事とは。疑問を隠さないサーマに、皇帝は渋々と口を開く。
「……実はな。今までもずっとその機会を窺っていたんだ。だが、エメラもトゥリエもアーチェも、私が話を切り出す前にとっくに名前を決めていて……」
「機会を逃し続けた、という訳ですか」
「そういう事だ。まあ、一人だけ名付けて変に取り沙汰されても困るからな。今までは自分でも最終的には自粛してきたんだが」
「まあ……」
それは仕方のない話だろう、とサーマは同情を込めて思った。
子は余程の事情がない限りは母の姓を継ぐ。故に市井では名は父親がつける事が一般的なのだが、皇家においては(おそらく複数の妻がいるなどの理由からなのだろうが)母である皇妃が名付ける事が慣例なのだとサーマも聞いていた。
当然自分以外の皇妃達も子を身籠る以前からそのような話を聞いていただろうし、聞き及んだ彼女達の気性を考えるに、父である皇帝の意向などないものと思って名を決めてしまったに違いない。
当たり前だと思ってのその行動は誰にも責められはしない。皇帝もそう思ったから、今まで沈黙してきたのだろう。
当のサーマも皇帝が言い出さなければ、特に相談もせず自分で生まれてくる子の名を付けるつもりだったのだから──。
「その理屈で行くと……、この子にだけ名を付けて頂くのも問題になるのではありませんか?」
彼の心情は理解できたものの、その部分が気になって確かめると──皇帝は視線を僅かに逸らしつつ、ぼそりと呟く。
「だから……、折り入って、と言ったんだ」
居心地の悪そうな、それでいて何処か開き直ったその言葉にサーマは呆れた。
「こっそり、という事ですか?」
「やはり、駄目か」
「駄目とか、そういう問題ではない気がするのですけど」
「だよなあ……」
小さくため息をつきながらの残念そうな様子に、サーマは何となく良心の痛みのようなものを感じてしまう。
たかが、自分の子供の名を付けるか付けないかの問題。
それはとても些細な問題に違いなかった。普通の夫婦ならお互いに譲り合って、話し合って──それで十分片付く問題だ。
前々から感じていた事だが、こんな時に自分の『夫』が特殊な存在である事を思い知らされる。
(本当に、『皇帝』とは不自由な立場ね……)
口にすれば不敬にも取られかねない事を考えつつも、ふとサーマは疑問に思った。そんな些細な事に、彼は何故、こんなにも執着を見せているのだろう──。
「……陛下」
「何だ?」
「そんなにも、付けたい名前がおありなのですか?」
サーマの問いかけは皇帝の虚を突いたらしく、彼は驚きを隠さない顔を見せた。やがてその顔は悪戯の共犯者を見つけた子供のような笑顔になる。
「頼みを聞いてくれるのか、サーマ?」
「それとこれとは別です──と言いたい所ですけれど。……先程申し上げたでしょう。ここには今、わたくしと陛下しかおりません。他に漏れようがないのなら、それは秘密にもなりはしません」
この場にいる二人が完全に口を閉ざしてしまえば、このやり取りはなかった事になる。それが苦し紛れの言い訳と変わらない事は承知の上だったけれど──。
「詭弁だな、サーマ。……だが、感謝する」
「感謝されるような事はした覚えはありません。わたくしも簡単に名付ける権利をお譲りするつもりはありませんからね」
「何?」
完全に譲って貰えるものと思ったらしい皇帝がサーマの言葉に眉根を寄せる。譲ってあげたい気持ちはあるが、サーマにも生まれて来る子に対し思う所はあるのだ。
「まだ、男児が生まれるのか女児が生まれるのかわかりません。陛下がそれほどまでに付けたい名はどちらのものでしょう?」
「……男、だな」
「では、生まれてくる子が男なら陛下が、女ならわたくしが……名付けるというのはいかがです?」
サーマの奇妙な譲歩に、皇帝は呆気に取られた顔を見せ──やがて仕方ないな、という表情で頷いた。
「そんな条件をつけるという事は、お前も付けたい名があるのか?」
「ええ」
その問いかけにサーマは自然な笑みで答え、珍しく見せたその慈しむような柔らかな表情に、皇帝は軽く目を見張る。彼が何に驚いたのか理解せず、サーマはそっと下腹部を撫でながら続けた。
「子の名は皇妃が名付けるのだと聞いた時から決めていたのです。もし、生まれる事があるのなら……と。ちなみに陛下は何と名付けるおつもりなのですか?」
さりげなく探りを入れると、皇帝は笑ってはぐらかした。
「はは、それは実際に生まれた時のお楽しみだ。第一、サーマ。お前も私が聞いたとして、教えてくれる気があるのか?」
「……まさか変な名前ではないでしょうね?」
一抹の不安を感じて問えば、皇帝は小さく吹き出し──やがて笑いながら安心しろ、と口を開いた。
「いくらなんでも、子供の名前で遊ぶ趣味はないぞ?」
「ならば安心しました」
「変な事を心配するのだな。……普通の名前だ」
「でも、思い入れのある……?」
サーマのあまり深く考えずに打った相槌に、皇帝は何故か苦く微笑んだ。
「陛下?」
何か変な事を尋ねたのだろうかと声をかければ、皇帝は何かを振り払うかのように小さく首を振るとぽつりと言葉を紡いだ。
「そうだな。思い入れは、あるのかもしれん。今ではもう……、誰も覚えていない名だが」
+ + +
やがて月日は満ち、子は生まれる。生まれてきた子は皇子ではなく、皇女。
母となったサーマは、生まれてきた娘に『ミルファ=ライザ=カドゥリール』という名を与えた。
「残念ですか?」
「いや……、約束だからな。お前も子も、無事で何よりだ」
苦笑混じりのその言葉には、何処か安堵感も漂っていて──その事に疑問を感じながらも気付かない振りをする。
「ミルファ、か。少し珍しい響きだが何か謂れがあるのか?」
話を変えるように問いかけた皇帝に、サーマはただ微笑んだ。生まれてきた子の名に隠した想いは、決して口にしてはいけないものだから。
「……なかった事、でしょう?」
皇帝は結局名付けなかったのだから、名実ともにあのやり取り自体が本当に『なかった事』だ。
サーマの言葉にその会話を思い出したのだろう。皇帝は仕方がないなという風に肩を竦め、それ以上は追及はしてこなかった。
それは、サーマが皇帝と交わした最初で最後の『密約』。
思い出の一つに数えられるかもしれないが、誰とも共有出来ず、またその必要がない出来事。胸の内に秘め、いずれ河岸の向こうへ持って行くべき記憶だ。
けれどもし、誰かに語れるとしたら。それは他でもない──その名を受けた者にだけだ。
+ + +
(そう言えば結局……、あの方が名付けたかった名前もわからないままね)
恐らく聞いても良かっただろうし──もしかしたら、口を閉ざした自分とは逆に皇帝は答えてくれたかもしれない。
けれど何となく聞きそびれてしまったのは、あの時に彼が見せた苦い微笑のせいだと思う。
(誰も覚えていない名前……。もし、ミルファが皇子として生まれたなら、あの方は何と名付けるつもりだったのかしら)
目の前に座る娘を見つめながら、サーマはぼんやりと考える。今頃そんな事が気になるのは、恐らく何となく『予感』がするからだ。
ミルファが感じたようにサーマもまた、目を覚ました時から何処かふわふわと足元が落ち着かない気分を味わっていた。
そこへ、皇帝が体調を崩した事が追い打ちをかけた。
何かが起こる──しかも、あまり良くない事が──そんな予感がサーマの口を開かせた。
「……ミルファ、これは秘密よ?」
「え?」
突然の言葉に、ミルファが驚いた声を上げる。
「秘密……?」
「今から話す事は、誰にも話さないと約束して頂戴。とても……、大切な事なの」
そう、とても大事な話だ。今までずっと、自分の内だけで抱えてきた──秘め事。死ぬまで抱えて、持って行こうと思っていたけれど。
「何ですか?」
神妙な顔でミルファが言葉を待つ。
サーマが立ち上がりその耳元で『秘密』を打ち明けると、ミルファは一瞬不思議そうな顔になり──すぐにその理由を理解したのか、複雑そうな表情を浮かべた。
「お母様……」
物言いたげに見上げる瞳に、サーマは微笑んで頷く。
告げた言葉は非常に端的なもので、おそらくとても言葉足らずだろう。けれど全てを語る必要をサーマは感じなかった。
これはあの時交わした約束と同じ──『なかった事』にすべきものだから。
「いいわね? 誰にも話しては駄目よ。でも……、そうね」
ミルファに打ち明けた事でもう一人伝えるべき、否、伝えたい存在を思い出した。
「もし──わたくしが、陛下よりも先に死ぬような事があったら」
「!?」
予想外の言葉が出てきたからか、ミルファがぎょっとした顔になる。
「そんな事があったら、ミルファの口から陛下にだけは伝えて頂戴」
「お母様……! たとえ冗談でも、そんな事……言わないで下さい」
誰もがそっくりだと言う娘の姿に、過去の自分が重なった。泣きそうな顔で訴えるミルファに、流れた時を思い知る。
(ああ……。きっと、あの時……あの人もこんな気持ちだったのね)
まだ、皇妃になるなど思いもしなかった頃の、南の地での記憶。
そう言えばいつから、ただの思い出として思い出せるようになったのか。随分と長い間、それは胸の奥で痛みを訴え続けていたというのに。
──思えば自分は随分と遠い場所へと来てしまったものだ。けれど、この選択を後悔はしていない。それは胸を張って言える事だ。
「そうね……。ごめんなさい、ミルファ。でもお願い。わたくしは……誓ってしまったから。最後の時まで、あの方の片腕であり続けると」
ただの伴侶としての『妻』ではなく、支え助ける者である事を。そしてそれを、彼も望んだ。だから──何があっても自分の口からは伝えられない。
自分の愚かで拙い、けれど最も人間らしい感情から生まれたそれは、『皇帝の片腕』という部品が抱いて良いものではないから。
「でも……! それで、いいのですか……?」
「ええ、いいのよ。伝える事は出来なくても──誰かが……あなたが、知っていてくれるなら」
自分がただの臆病者である事はわかっている。子供の頃からずっとそうだった。本当は欲しいと思っているのに、自分からは手を伸ばさない。伸ばせば、もしかしたら手に入るかもしれないのに。
そうして、いつも失ってしまってから後悔するのだ。
心の中で自嘲しながら、サーマは確かに迫り来る『何か』の到来を感じていた。