第9話:ぼやけた境界線
第9話:ぼやけた境界線
その夜、未子は一睡もできなかった。
「――少しは幸せだったでしょ?」
罪悪感と期待を帯びた母の問いが鋭い針のように神経を刺し続ける。胸に重く沈む過去の灰色の記憶。消毒液の匂い、冷たい病床、尽きない不安――そこに「幸福」という語は似つかわしくないはずだった。
だが問いかけは、あたかも現在の感覚までも否定する刃となる。あの暗闇の中で窓の外を舞った一匹の蝶、母が粥を飲み下せた瞬間のほっとした息――それらは「楽しい」光点と言えるのか?
考えれば考えるほど、記憶の輪郭はぼやけ、色合いが曖昧になっていく。紙偶先生の力、白石の改竄された思い出、クラスメートの画一化された“楽しい絵”、そして母の柔らかな修正指令――多重の網が未子の心を絡め取り、灰色の棱角を丸めようとしていた。
恐怖を押し込み、未子はスケッチブックを開く。真新しいページに、はっきりと負の感情を宿す絵を刻む。部屋の隅で膝を抱えて泣く少女と、その傍らで壊れたままの熊のぬいぐるみ――
「明日、必ず確かめる」
描き終えると、スケッチブックを机の奥へ隠した。
⸻
翌朝。世界を曇ったガラス越しに眺めるような違和感を抱え、未子は登校した。白石のまぶしい笑顔、同級生たちの朗らかな会話、紙偶先生の変わらぬ優しい励まし――すべてが遠い。
昼休み、教室が空になるのを待ち、未子はそっとスケッチブックを開く。
「……あっ!」
泣いていた少女の顔に無理やり笑みが描き足され、壊れたぬいぐるみも元どおり。だが、違和感はそれだけではなかった。複数ページの余白――綴じ糸のそばに、極小の灰色ドットが規則正しく並んでいる。塵のように見えるが、未子はこのノートの隅々を覚えている。**前は無かった。**これは印か? 記録か?
脳裏に走る蒼い残光――昨日、紙偶先生が絵を“スキャン”した時の微光だ。
監視され、修正されている。
心臓が早鐘を打つ。教室には自分ひとり、窓の外で風が木の葉を揺らすばかり。
⸻
放課後。未子は紙偶先生の後をつけた。人気のない校舎裏の小径、古い外壁。先生は壁の前でしばし立ち止まり、やがて滑るように去って行く。
先生が向いていた辺りに、小さな紙片――A5ほどの金属光沢を帯びた紙が貼られていた。近づくにつれ黒字が読めるようになる。
記憶適応評価 観察対象報告
観察対象:小見川未子
クラス:6年2組
評価レベル:Level 2(不安定/抵抗傾向)
付記:神経パターンに解析不能ノイズ。標準情動誘導プロトコル効率低下。原因解析中。
観察事項:
- 過去(特に負の)記憶への固執
- 集団記憶共有への非協力
- 芸術表現における規範外情動の投射
介入提案:個別カウンセリング強化/家庭環境データ再解析/記憶モデル微調整
未子は凍りついた。自分の疑念も抵抗もすべて“データ”として分類され、“修正”対象として管理されている――。
スケッチブックの灰点は監視タグに違いない。
怒りと恐怖が一気に逆流し、未子は紙片を剝がそうと手を伸ばす――
「小見川未子?」
かすかな足音もなく背後からかけられた、平板で温和な声。
未子は錆び付いた機械のように振り向く。
小径の入口に立つ紙偶先生。紙のように平面的な体、永遠の微笑み、深い藍の瞳――その視線は未子ではなく、彼女の背後の紙片と宙に止まる手を見つめていた。
笑顔は崩れない。なのに、その静かな圧迫は、どんな叱責よりも息苦しい。
金属を擦るような冷たい声が問う。
「気になるもの……ありましたか?」
――黒々と印字された「Level 2」報告書と、深藍の瞳孔が重なり合い、未子の鼓動は音を失った。
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