第8話:母の証言
第8話:母の証言
下校の道は、今までになく長かった。夕陽が未子の影を細長く伸ばし、足取りをいっそう重くする。白石の確信に満ちた偽りの思い出――教室に貼られた、眩しく彩られた「楽しい幼年時代」の絵――そして「力強い」と評された自分の灰色のスケッチ……それらの映像が脳裏で衝突し合い、めまいと吐き気を誘った。
未子には錨が要る。自身の記憶が確かであると証してくれる、揺るがぬ錨が。
玄関を押し開けると、馴染みの薬の匂いと静けさが彼女を包んだ。母・由紀は今日は少し調子が良いらしく、布団に半身を預けて沈みゆく夕陽を眺めている。橙色の光が蒼ざめた頬を淡く照らしていた。
「帰ったのね、未子」
病み上がり特有の弱々しさを帯びつつも、未子の知る優しい声。
「ただいま、お母さん」
鞄を下ろし、母のそばに腰掛ける。母はあの苦しかった日々の当事者――未子の記憶を裏づける何よりの証人だ。
「お母さん……」未子はわずかに逡巡し、探りを含んだ声で切り出した。
「今日、学校で……“子どもの頃の思い出”を絵に描いたの」
「そう……未子は何を描いたの?」
由紀が穏やかな眼差しで問い返す。
未子は絵の中身には触れず、息をのみ、胸の奥で渦巻く疑問をぶつけた。
「お母さん……私が小学一年のとき、よく校庭で遊んでた? タイヤブランコとか……」
母の表情に、はっきりした驚きと困惑が走る。眉をひそめ、記憶を探るようにしながら、首を横に振った。
「一年生の頃は……ほとんど病院だったわ。私が入院していて、未子は学校が終わるといつも直接病院に来てくれた。校庭で遊ぶ時間は、ほとんど無かったはずよ」
由紀の声は静かで確信に満ち、その眼差しには迷いがない。
胸の奥に安心とさらに深い寒気とが同時に湧き起こる。安心は、自分の記憶が正しいと証明されたから。あの「タイヤブランコの楽しい思い出」は真っ赤な嘘だ――白石の記憶は何者かに書き換えられている。寒気は、その改竄の力が恐ろしく強大で、人にありもしない過去を信じ込ませる点にあった。
「やっぱり……私もそう覚えてる……」
由紀は娘の顔色を心配そうに見つめ、冷えた手をそっと包み込む。
「どうしたの、未子? タイヤブランコって……誰が? あの頃は私のせいで、未子には苦労ばかり掛けたね……外で一緒に遊べる友達もいなくて……本当に、ごめんね」
母の声には深い罪悪感と痛ましい愛情が宿る。
しかし、続く言葉は雷鳴のように未子を打ちのめした。
「でも……病院にいても、少しは――ほんの少しは楽しい思い出もあったでしょう? 私と過ごした時間……あの雪の深い冬、部屋で絵本を読んだ温かさ……覚えている?」
未子は言葉を失う。母の描く「温かい」情景はぼんやりとしていて、溶けかけの雪の膜を隔てているかのようだ。未子の記憶にあるのは、消毒液の匂いと抑えた咳ばかり。
由紀の目は懇願するように潤み、「少しは幸せだったよね?」と問いかける。
その声音は棉で包んだ鈍い刃となり、未子の胸に突き立った。
――“楽しい思い出”? “幸せ”?
母の期待と罪悪感が交差する視線から逃げるように、未子は俯いた。あの冬の現実に「幸福」という言葉を与えることは、彼女の真実を裏切る行為に思えた。
けれど、母のやつれた顔と滲む涙を前に、彼女は声を搾り出す。
「……うん……少しは……あったかも……」
それは母への妥協であり、「幸福だけが許される世界」への、最初の小さな降伏だった。吐き出した瞬間、自己嫌悪が怒涛のように押し寄せる。
由紀は安堵の笑みを浮かべた。「そう……よかった……」
未子は立ち上がり、「宿題があるから」と部屋を飛び出す。
閉ざした扉にもたれて荒い息を吐く。――“少しは幸せだったよね?”――その言葉は温かな慰めではなく「楽しい記憶を選べ、悲しみは忘れろ」という無言の指令のように響いた。
外側から(白石、クラスの絵、紙偶先生)、そして内側から(母の願い)――世界は柔らかな力で未子を包囲し、過去を塗り替えようとしている。
膝を抱え、未子は震えながら思った。
「私は、あとどれだけ“本当”を守れるの?」
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