第6話:偽りの誘い
第6話:偽りの誘い
数日が過ぎた。日の出学園は紙人形先生が演出する、表面的には穏やかで平和な空気の中で動いていた。称賛は空気のように至る所に漂い、どんな小さな輝きも拡大され、あらゆる負の感情や出来事は、存在しない埃を払うかのように優しく取り除かれていた。
佐藤由美は、完全にこの「幸福」の流れに溶け込んでしまったようだった。もう迷いや戸惑いは見られず、その笑顔は他のクラスメイトたちと同じように、磨き上げられたような無垢な輝きを放っていた。
未子はさらに無口になり、警戒心の強い小動物のように、自分の疑念や観察をさらに深く胸にしまい込んでいた。スケッチブックは彼女の唯一の「現実の砦」となり、ページをめくるたびに密かな緊張が走った。線や影が、今も自分の記憶に忠実であるかを確かめるように――幸い、今のところ新たな「修正」は現れていない。
窓から差し込む日差しが、教室の床に明るい光の斑を落としていた。
昼休みのチャイムがいつも通り鳴り響き、短い休息の時間が告げられる。大半の生徒たちはグラウンドや廊下に向かい、壁越しに賑やかな声が響いていた。
未子はいつものようにスケッチブックを手に取り、静かな場所を見つけて観察と記録を続けようとしていた。
動き出す前に、ふと後ろの席に目をやった。
窓際のその席は空いており、机と椅子には、周囲よりわずかに厚い埃の層が積もっているように見えた。
なぜだろう。その空席を見た瞬間、未子の心に、得体の知れない不安が一瞬走った。まるで……まるで少し前まで、そこには誰かが座っていたはずだと感じたのだ。痩せた体つきで、いつも窓の外をぼんやり見つめていた男の子の後ろ姿が、朝靄の幻のように脳裏をよぎったが、それを捉えようとした瞬間、その影は跡形もなく消えてしまった。
……誰だった? 思い出せない。
未子はそっと頭を振り、その根拠のない喪失感を、自分の錯覚だと片づけた。もしかしたら、最初からそんな人など存在しなかったのかもしれない。
「おーい!小見川!」
元気な声が背後から響いた。白石翔太がにこにこと彼女の机の横に立っており、手には開封したばかりのパンを持ち、口元にはジャムが少しついていた。その瞳は明るく、未子の沈黙する雰囲気をまったく意に介していないようだった。
「何か用?」未子は顔を上げて訊ねた。声は依然として小さく、どこか警戒を含んでいた。
「また一人で絵ばっか描いてる~!」白石は気にせず、彼女の前の空席にどっかと腰を下ろした。椅子の脚が床をかすめる音がした。「話そうよ!ほら、紙人形先生が言ってたじゃん?楽しい思い出を共有すれば気分が明るくなるって!」
未子の手の中の炭筆が、少しだけ強く握られた。「楽しい思い出」――その言葉は、彼女の敏感な神経に刺さる細い針のようだった。
「ねえ思い出したんだけどさ、一年生のとき、あのグラウンドの古いタイヤブランコで、よく一緒に遊んでたよね? 誰が一番高く漕げるかって競争してさ、未子が吹っ飛びそうになったこともあってさ!あれ超ウケたよな!」
白石の目は遠くのグラウンドを見ながら、懐かしそうに輝いていた。まるで、その記憶がまさに昨日のことのように鮮やかで、生き生きとしているかのようだった。
だが、未子の動きは止まった。
タイヤブランコ? 競争? 一年生の頃?
頭の中が一瞬、真っ白になった。その後に浮かんだのは、冷たく鮮明な記憶だった――確かに、一年生のときの校庭の隅には古びたタイヤブランコがあった。でも……未子は一度もそれに近づいたことがなかった。
その頃、母の由紀は病状が悪化し、学期の大半を入院していた。未子の放課後の行き先は、ただ一つ。町の小さな病院だった。小さなランドセルを背負い、消毒薬の匂いが漂う長い廊下を一人で歩き、病床の横の小さな椅子に座っては、静かに本を読んだり、持ち歩いていた小さな画帳に落書きをしていた。窓の外から聞こえてくる子どもたちのはしゃぎ声は、厚く冷たいガラス越しの、遠くぼやけた別世界の音だった。
校庭? ブランコ? 友達と遊んだ記憶? それらは、未子の記憶の中には存在していない。彼女の「一年生の思い出」は、病院の白い壁、母の弱々しい呼吸、そして時折窓の外を横切る一羽の鳥の影だった。
白石は……何を言ってるの?
未子は白石を見つめた。彼の笑顔は変わらず明るく、その目は正直で、嘘やふざけた様子は一切ない。彼は本気で――心からあの「楽しい思い出」を語っていた。
「白石くん……それ、勘違いじゃない?」未子の声は少し乾いていた。落ち着いた声を保とうと努力しながら、「一年生のとき、母がずっと入院してたから、私は毎日病院に行ってて……放課後に校庭で遊んだことなんて、ないよ」
白石の顔から、笑顔が一瞬だけ消えた。それはまるで、接触不良で止まったモニターのようだった。彼は瞬きをし、一瞬だけ、何か大事なファイルが失われたかのような困惑を浮かべた。しかしその混乱はすぐにかき消され、代わりにもっと強く、断固とした「正しさ」の表情が浮かんだ。
「えっ? そうだっけ?」彼は頭をかいた後、再び笑顔を取り戻した。「ああ、そうだ!思い出した!それ、二年生の春だ!桜が咲いたばかりの日でさ!あの日は晴れてて、君、青いワンピース着てたよね……いや緑だったかな?とにかく、めっちゃ笑ってたよ!」
語るごとに、彼の記憶はどんどん「明瞭」になっていき、存在しなかったはずの未子の服装や表情までもが詳細に描写されていった。
未子は白石を見つめながら、全身が凍りつくような感覚に襲われた。これは、由美のように「他人の記憶」が改ざんされるのを目にするのではない――今度は、自分自身に向けられている。白石の記憶は、時間の勘違いどころではない。完全に“作り物”だったのだ。にもかかわらず、彼の表情は純粋で、楽しげで、その記憶に心から没入しているように見えた。
スケッチブックの端を握る手に力が入り、指の関節が白くなった。母の病床に横たわる青白い顔、消毒液の匂い……それらの記憶まで、いずれ偽りの「幸せな幼少期」に書き換えられてしまうのではないか? そんな恐怖が心の底から沸き上がった。
「白石くん……ごめん、ちょっと……用事あるの」未子はその場を立ち上がり、スケッチブックを抱えて席を離れた。逃げるように。
「えっ? 小見川? どうしたの? 楽しい思い出を話すのって、いいことじゃん?」後ろから白石の戸惑った声が聞こえてきた。拒絶されたことへの、わずかな寂しさを帯びて。
未子は振り返らなかった。廊下を早足で歩き、無人の隅を探す。午後の陽光が眩しく差し込むが、彼女の心に広がっていく冷たい影を、照らすことはできなかった。
白石の「詳細に彩られた偽りの記憶」は、まるで冷たい警鐘のように、彼女の頭の中で鳴り響いていた。
紙人形先生……あれは、ただ今の感情や記録を操作しているだけじゃない。
あれは――過去そのものを、改ざんできる?
存在しなかった記憶を編み、他人の心に植えつけることすらできるのか?
この新たな認識は、スケッチブックの改ざん以上に、未子を強く、深く孤立させ、息を詰まらせた。
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