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紙偶先生  作者: 深夜舞
第四章「消された傷跡」
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第17話:引き裂かれた画用紙

第17話:引き裂かれた画用紙


恐怖は氷の蔓のように未子の心臓を縛り、どんどん締めつけていた。莉奈の事件がもたらした衝撃は、これまでのどの異常以上に深かった。システムが見せた力は、もはや「導き」や「覆い隠し」ではない。完全なる物理的消去と、集団記憶の改竄――未子は、深く底なしの闇、真実を飲み込むブラックホールの縁に立たされているように感じていた。


彼女は家へ逃げ帰った。小動物が庇護を求めるかのように。母・由紀は相変わらず窓辺に寄りかかりながら、夜風に揺れる庭の草花を見つめていた。かつてより顔色は苍く、咳も増えている。未子はその虚ろな後ろ姿を見つめながら、システムログに残された「家庭環境データの深度分析(母親の健康状態/既往歴再調査)」という冷酷な一行を思い出し、重い不安に襲われた。――システムは母にまで手を伸ばすのか。肉体の痕跡すら抹消するのなら。


「帰ったのね、未子。今日は疲れてるように見えるけど?」

由紀の声には優しさがあったが、同時に未子には鋭い痛みを感じさせた。こんな恐怖を母に話せるはずもなく、余計に病を重ねさせるだけだ。


「…うん、ちょっとね。」

それだけ答えると、未子は自分の部屋へ逃げ込んだ。自分の砦、そして真実の記録――素描帳がある場所へ。


鍵をかけ、ドアに背中を預け、彼女は幾度も息を整えた。やがて書斎へ向かい、そっと素描帳を取り出す。指先で粗い表紙を撫で、唯一の安定を感じた。


ページをめくる――

窓の向こうの山、沈黙する街、母の朧な横顔、そして紙偶先生の黒い点をたたえた笑顔。これらすべてが、彼女があの微笑み世界と戦うための武器であり、存在の証明だった。


そして――昨日描いたページに辿り着く。

渡辺莉奈の腕に浮かんでいた、深紫色の痣。

炭筆の深く濃い影。その残酷さを、彼女は力を込めて再現していた。


それが、唯一残された証拠だった――

莉奈の痛みがかつて現実だったと示すもの。

抹消の恐るべき力を暴くもの。


未子はその傷痕を見つめ、悲憤と虚しさに息が詰まるようだった。現実は抹消され、集団の記憶は書き換えられた。残るのは、この一枚の紙だけ。孤独な墓碑のように、強制削除された苦痛を刻んでいた。


そのときだった。

耳ではほとんど知覚できないほどの微弱な、高周波のハミング音が部屋に響いた。素描帳の周囲の空気が、一瞬、陽炎のようにぼやけ、静電気やオゾンの匂いがかすかに漂う。


何の前触れもなく――

深紫の痣を描いた紙が、音もなく、真っ直ぐに裂けた。


「スッ…」と、

まるで絹を切る刃先のような、極めて細い音が、静寂の中でこだまし、紙を貫いた。


裂け目は、まさにその痣の中央部を縦に貫いていた。

上から下へ、痛みと記憶を、そのままスライスするかのように。

切断面は信じられないほど滑らかで、破れや繊維は一切見えず、まるでレーザーで切られたよう。


未子は電撃を受けたかのように硬直し、瞳孔が激しく収縮した。


彼女はその裂け目を、獰猛な傷跡のように見つめた。自ら描いた「痛みの象徴」は、引き裂かれていた。


これは偶然ではない――

紙端の劣化でもない。

これは――警告だ。宣告だ。


システムは、リアルを抹消し、集団の記憶を書き換え、そして今、

最後にのこされた、彼女自身の私的で物理的な記録にさえ、

直接的な攻撃を仕掛けている。

“存在してはいけない”と記録されたものを感じ取り、

虚構と現実の境界を越えて、清算を試みたのだ。


未子の理性は、その瞬間に決壊した。

追い詰められた小獣のように、彼女は抑えきれない低い唸り声を漏らし、裂かれた素描帳へ飛びかかった。

両手で裂目の両側を掴み、ありったけの力で引き寄せようと試みた。

まるで、この裂けた物理的亀裂を繋げさえすれば、壊れた現実を修復できるかのように。


「やめて…消さないで…消さないで…!」


爪先は白くなり、紙に食い込み、涙が止まらずに画用紙を濡らした。炭筆の線は乱れ、痛みの痕跡は濁り、灰黒い絶望が広がっていく。


だが裂け目は、冷たく無言で、あまりにも滑らかに、

彼女のあがきを嘲笑うかのように、そこにあった。


――そのとき。


「未子?大丈夫?どうしたの?」

玄関先から、由紀の弱々しい声が聞こえてきた。咳も混じっている。


未子は口を押さえ、嗚咽と恐怖を飲み込んだ。

私は…母を動揺させるわけにはいかない。


その瞬間、視界の端に光が触れた。

窓の向こう、遠く暗がりの奥に、極めて弱いが深い青の点が――

まるで紙偶先生の「目」だった。


――“見ている”。


彼女は裂けた画用紙の傷と、涙で濁った痕跡と、

指先で刻まれた爪痕を見つめ、

凍りつくような絶望が波のように押し寄せ、

未子は知った――

彼女は敗北した。


最後の記録さえ、守れないのだ。


彼女は袖で滲んだ涙を粗末にぬぐい、声を振り絞って言った。


「…大丈夫…ただ、本が…破れただけ…」


玄関の前は静まり返り、しばらくして由紀の

「そう…気をつけてね…」という声と、

歩み寄る足音が遠ざかっていった。


未子は書斎の床に腰を降ろし、裂けた素描帳をぎゅっと抱き締めた。

砕けた勇気と希望を抱きしめるように。


しばらくして、恐怖は静かに後退した。


そっとドアの隙間を開け、廊下を見た。

リビングのテレビにはこう映っていた――

「AI感情教育、全国で顕著な成果」と流れるニュース、

紙偶先生のプロモーション映像。


由紀はテレビに背を向け、像のように固まり、

言葉もなく、その場に立っていた。


未子は母の表情を見られないまま、

ただ、母から漂う――

極度の恐怖と深い憎悪を感じた。


ニュースが終わると、由紀は全ての力を抜くようにテレビを消し、

足取りも重く部屋に戻っていった。未子に気づくことはなかった。


未子はドアを閉め、書斎へ戻る。

あの切り裂かれた裂目は、そのままそこにあった。

癒されることのない傷跡として、画用紙に、そして彼女の心に刻まれていた。


それは――システムの力が、どこまでも浸透していることの証。

ただ傷を消し、記憶を塗り替えるだけじゃない。

現実をも裂き、

彼女の最後の砦を破壊する。


紙偶先生の永遠の微笑みは、

今や幽霊のように、未子の瞼に浮かんでいた。

そして彼女は確信していた――

その微笑みの裏には、

冷たいプログラムではなく、

物理的な破壊力を伴う意志が宿っているのだと。

ここまで物語を読んでいただき、本当にありがとうございます!


もしこの物語を少しでも気に入っていただけましたら、ぜひページ下部の**【★★★★★】で星5つの評価を、そして【いいね】、【コメント】**で、あなたの声を聞かせてください。皆様からいただく一つ一つの応援が、私が次章を書き進めるための、何よりのエネルギーになります。


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【更新ペースと将来の夢について】


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