第6話『偏屈じじいは、数字しか見ない』
朝焼けがまだ空に残る頃、黒田商会の小さな事務所には、紙とインクの擦れる音が静かに響いていた。
黒田商会が立ち上がってから、およそ十日が経った。
そして壁には――手描きの営業目標グラフが、派手に貼られている。
「う〜ん、黒田さんすごいなぁ…でも、あたしも負けてられないもん!今日もいーっぱい頑張る!!!」
勢いよく飛び出していくルミナを、クレアが冷静に見送る。
「報告はこまめにね。あと、値下げは最終手段よ。いい?“笑顔”だけじゃ限界があるんだから」
「うぅ……りょ、了解です!」
どたばたと賑やかに一日が始まり、黒田はその様子を微笑ましく見守っていた。
一方、その隅で帳簿とにらめっこしていたのは――経理担当、サムである。
「むむむむむ……どうなっとるんじゃ……あの若造は……」
ごつごつとした指でそろばんを弾きながら、サムは低く唸った。
「普通、仕入れにこれだけかければ、売価はこの程度。利益率はせいぜい……だが、こやつは……ありえん数字を出しおる……」
黒田の営業報告に記された売上は、相場をはるかに超えていた。しかも、それが一過性ではなく、継続して続いている。
「非常識じゃ…いや、非常識“すら”通り越しておるわ」
サムの眉間に深い皺が刻まれる。
その日の昼下がり。
黒田が手にしたのは、新しく仕入れた“地竜の皮”という珍しい魔獣素材だった。
「これ、めっちゃ希少なんですよ。ちょっと無茶しましたけど、売れば倍にはなりますよ。しかも、この皮で作った手袋、王都じゃ貴族に人気なんです」
サムは目を細めた。
「無茶、というのはどの程度の話じゃ?」
「まぁ……来月の仕入れ予算、ちょっと前借りしました」
「ばっかもんがあああああああああ!!!」
どん!と帳簿が机に叩きつけられた。
「数字を預かるわしの立場を考えんか!もし売れんかったらどうするつもりじゃ!?」
「大丈夫ですよ。売れますから」
ドヤ顔の黒田に、サムは頭を抱えた。
————数日後。
“地竜の皮”は、確かに売れた。しかも倍額以上で。売上としては完璧だった。
……だが。
「内容が問題じゃ……」
サムは深いため息をついた。
売れた相手は地方の成金商人。商品の価値もわからぬまま、“黒田のセールストーク”に惚れ込んで買ったようだった。
「これは……堅実な商売ではない」
帰社した黒田を、サムが厳しい表情で迎える。
「黒田。お前は“売る”ということだけで物事を動かしている。だがな、それは一時の幻だ。そんな事に、わしは付き合ってられん!!」
「サムさん……」
「わしは数字で生きてきた。売上、原価、利益率。どれも嘘をつかん。だが、お前は……まるで魔法使いじゃ。数字に“幻”を見せておる」
黒田は、静かに笑った。
「じゃあ、サムさん。聞かせてくださいよ」
彼は一歩近づき、まっすぐに老人の目を見た。
「数字だけじゃなくて、“人の心”で商売をしてきた経験……ありますか?」
————沈黙が流れた。
サムは言葉に詰まり、そして視線を逸らした。
翌日。
黒田商会一行は、小さな村を訪れていた。
古びた井戸。崩れた石垣。今は誰も使っていない水場。
「ちょっと時間あるんで、直していきます」
黒田はそう言うと、シャツをまくって井戸の修理を始めた。
ルミナとクレアが協力し、サムは……ただ遠くからその様子を見ていた。
「…こんなことをして…一体何になるというんじゃ…」
村の人々は、最初こそ怪訝な顔だったが、次第に笑顔に変わっていった。
「ありがとう!また来てくれ!」
「次の収穫、うちが最初に出荷するよ!」
“報酬ゼロ”。それでも黒田は、満足げな顔で帰路についた。
数日後。その村から、“定期出荷の契約依頼”大型案件が舞い込んだ。
その夜。事務所にて。
サムは帳簿を閉じ、静かに席を立った。
そして、黒田の前に歩み寄る。
「……黒田殿。わしは、これまで数字でしか物を見てこなかった。というより。数字にならんことなど、“商売”とは呼ばんとさえ思っていた。」
黒田が顔を上げる。
「だが、今日のあんたの姿を見て……少し、わかった気がする」
サムは、ぺこりと頭を下げた。
「“営業”とは、人の“心を動かす”ことだとな」
「……サムさん」
「勘違いするでないぞ? わしは変わったわけじゃない。数字は、いまだに最も信頼できるものじゃ。だが……数字だけじゃ、人の心は動かん。それもまた事実じゃ」
黒田は、静かに笑って言った。
「ありがとうございます。じゃあこれからは、“営業”と“経理”で、手を組みましょうか。“会社”ってのは、そういうもんでしょう?」
サムも、微かに笑った。目尻の皺が、どこか柔らかく揺れていた。
こうして、黒田商会は、数字と情熱を備えた“本当の会社”として、一歩踏み出したのだった。