第3話『営業に数字はつきものですからな…最強の経理が加入!かも?』
「……もう、限界です…。黒田さん、今日は帰っていいですか……?」」
「帰っていいなら俺が先に帰るわ。俺、もう“請求書”って単語聞いただけで口の中に血の味すんのよ……」
クレアは額に手を当て、机に突っ伏した。
「在庫管理はなんとかなってます。納期の管理も、出荷のスケジュールもギリギリですが対応できます。でも……数字だけは、どうにも……」
ルミナはルミナで、くたびれた笑顔で首を傾げる。
「いや~、仕入れとか経費とか、なんかもう細かくてわかんないんですよね~。大事なのは、勢いですよ!」
「勢いで帳簿は締まらないのよ……」
ルミナは朝から晩まで市場で声を張り上げ、クレアは商品の出荷やスケジュールを次々と片づけ、黒田は新しい仕入れ先と毎日交渉。
だが、唯一手が回らなかったのが、経理だった。
帳簿の整理、経費の把握、資金の繰り回し。仕事が増えるほど、数字の整理は必要になる。
だが――
「わたし、収支って聞いただけで眠くなっちゃうんですよね~」
「昨日と同じ仕入れのはずなのに、在庫が半分になってるんだけど?」
「請求書って何回言いました?俺、3回目から記憶がない」
——誰ひとり、経理業務に向いてなかった。
「営業して、仕入れて、売って、在庫見て……それをやってるだけでもいっぱいいっぱいだもんな。誰か……数字分かるやつ、いないか……」
クレアが、ふと顔を上げた。
「……一人、心当たりがあります」
「マジで!? どこの誰?」
クレアは少し逡巡したあと、言葉を選びながら語り始めた。
「王立図書館の現館長です。名前は——“サム・リード”かつて王宮で数学顧問を務め、あらゆる理論を体系化し、財政に関する提言を行っていた人物です」
「おお……めっちゃすごそうじゃん。でもなんでそんな人が今、図書館に?」
クレアは少し視線を落とす。
「……かつて、国が出した財政指標に対して彼が異を唱えたことがありました。“その理論では国家は破綻する”と。……でも、国はそれを否定しました。彼の論文は回収され、彼は“異端”として王宮を追われました」
——ルミナがぽかんと口を開ける。
「えっ、それって……なんか魔法使いが王様に逆らって追放される話みたいですね……」
「だいたいそんな感じ。でも、私は信じてます。あの人の数学は本物だった」
黒田は腕を組み、しばらく考えて――言った。
「……会いに行こう。その人、俺らに必要な“数字”を持ってる気がする」
***
数日後、黒田とクレアは王都の外れ、王立図書館を訪れていた。
石造りの外観にツタが絡む、年季の入った建物。
「ここが、サムが今いる場所です」
静かに扉を開けると、重たく軋む音が廊下に響いた。
中はひんやりとした空気と、インクと羊皮紙の混じった懐かしい匂い。
本棚の迷路のような通路を進んでいくと――
「……誰だ」
ずしりと重たい声が響いた。
声の先にいたのは、山のように積み重なった書物の中に座る、白髪の老人。
鋭い緑の目と、頬に刻まれた深い皺。手には羽根ペンと分厚い帳簿。
「……クレアか。久しいな。何の用だ?」
「お久しぶりです、サム先生。お元気そうで……」
クレアが一歩踏み出し、黒田を紹介する。
「こちら、黒田と申します。今、わたしたちと共に商会を立ち上げていて……」
「…見慣れない顔だな。“異邦人”か?」
「ええ、まあ……はい。そこは否定できません」
黒田が苦笑いしながら頭を下げる。
「数字の管理に困っていまして。先生のお力を貸していただけないでしょうか」
——サムは即座に、首を振った。
「断る。私は数学を教えることはあっても、“仕事”はしない」
クレアが食い下がる。
「今でも、先生の理論を必要としている人がいます。先生の目が、数字が、社会を救えると私は――」
「救える? もう救ったさ。だが誰も見向きしなかった。
だから私はここにいる。静かに、本と生きていく。それでいい」
——静寂。
クレアは歯を食いしばるが、それ以上は何も言えなかった。
だが、黒田が少し歩み寄り
「じゃあサムさん、せめて市場に来てください。見てほしいんです。数字が、“机上”から“現場”でどう動いてるか。先生が見てきた“理論”が、今どうなってるかを」
「断る。市場など、うるさくてかなわん」
黒田はあっさりと引き下がった。
「あー、そっすか。じゃ、また。いや~残念残念。先生の伝説、ちょっと見てみたかったな~」
黒田は踵を返し、クレアも頭を下げて後に続く。
――黒田は、出る直前、チラリと椅子を見た。
そこに、一冊の帳簿をそっと置いていった。
***
館内の静けさが戻る。
サムはいつものように椅子へ――
「……む?」
椅子の上に、一冊の古びた帳簿が置いてある。
ぱらりと開くと、数字が並ぶ。商品ごとの原価率、仕入れタイミング、売上と粗利の一覧。
「ほう……」
ページをめくるごとに、サムの表情が変わっていく。
整然とした数字。その間に見え隠れする“ズレ”。
まだ誰も気づいていない、無駄な支出。失敗と改善の跡。
「……素人だな。だが……これは、妙に……面白い」
サムは小さく笑った。
それは、誰にも見せたことのない、心からの楽しげな笑みだった。
サムは、ページを繰る手を止められなかった。
——やがて、最後のページに黒田の文字が踊っていた。
【目標利益】
来月こそ黒字にして、ルミナとクレアの賄いを豪華にする。
「…………何をふざけておる」
だが――その端に、小さく鉛筆で書かれていた追記に、サムは目を細める。
(もしこの帳簿を見ている方がいたら、今からでも間に合います。手伝ってください。お願いします)
——サムはゆっくりと立ち上がった。
***
——翌朝。市場はいつものように活気に満ちていた。
「新鮮だよ~! 今朝とれたばかりの元気トマトだよ~ッ!」
ルミナの元気な声が響く。
そんな中――
「おい、黒田という性格の悪い奴はおるか?」
背後から重低音。
「ひぃっ……!! な、なななななんのご用ですかぁ!?
し、知らない人です、そんなやつ知りませんぅぅぅ!」
「……そう怯えるな。居場所を聞いただけだ」
「こっ、こっちは忙しいんですから!うちには営業担当の黒田さんなんていませんし、あなたみたいな偏屈そうな爺さんに用は……あっ」
ルミナの目が、目の前の老人の腰にぶら下がる巨大なそろばんを捉えた。
「ま、まさか……!」
その瞬間、近くの倉庫の扉が、ギィ、と音を立てて開いた。
「おっ、来たな偏屈爺さん。ようこそ、黒田商会・決算地獄へ!」
黒田がニヤニヤと現れる。
サムの額に青筋が浮かぶ。
「やはり、お前が仕掛けたか。椅子の帳簿」
「そりゃまあ。営業は仕込みが命ですからね。
俺の“セールス”スキルは、見る相手を選びませんよ。元数学者だろうが、偏屈だろうがね」
「ふん、実に性格が悪い。だが……あの帳簿は、悪くなかった」
黒田の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「なら、決まりだな。――うちの経理、頼みますよ。サムさん」
一拍の沈黙。
「……仕方ない。片付けるのは嫌いではない。だが、私のやり方でやる」
「もちろん! よろしくなサム爺さん!」
***
こうして、黒田商会に経理部門・サム・リードが加入した。
彼の加入により、資金繰りは安定し、経費削減と売上管理も本格化。
これで、黒田商会の組織はついに――
営業(黒田)
販売
管理
経理
と、チームとしての“形”を整え始めたのだった。
だが、黒田は知っていた。
これでも、まだ“入口”に過ぎないと。