第15話『戻れない日々、進みたい明日』
朝の陽射しが、石畳の広場をやわらかく照らしていた。人通りはまだまばらで、露店の支度をする商人たちの声だけが、かすかに響いている。
黒田は、椅子に腰を下ろし、手にした湯気の立つカップをぼんやりと眺めていた。
酒場でクレアと交わした、たわいもない会話と笑い声。
そして「……嫌よ、そんなの———」
という言葉が、今も耳の奥に残っている。
「さて、これからどう動くかだな」
早朝、黒田は貴族ファーガスと、市場物流の整理と、魔道具の輸出ルート確立について打ち合わせをしていた。
輸送コスト、人員の配置、リスクの分散……ただの“営業”だけでは済まされない、経営の視点が求められる課題ばかりだ。
議論を終え、ようやく一息つけた今。
ふと、目を閉じる。
その瞬間──遠い記憶の扉が開いた。
転生前—————
スーツ姿の黒田が、社内の廊下を小走りに駆けていた。
両手には重たい資料。上司からの指示は次から次へと飛び込んできたが、それでも彼は笑っていた。
「お客様に感謝されるのが、俺は一番嬉しいんすよ」
営業成績は常にトップ。月末の社内ランキングには、彼の名前が必ず一位で載っていた。
土日も返上。深夜まで残業し、外回りの隙間時間に喫茶店で企画書を練り続けた。
そして、ついに社長から直々のオファーが舞い込んだ。
「黒田君。この新規プロジェクト、君に任せたい。B社へのプレゼンも君がやってくれ」
──これは、間違いなくチャンスだった。
黒田は全てをかけた。
他部署と連携し、営業資料を100枚以上作成。競合との比較、コスト試算、導入後の効果予測まで徹底的に詰めた。
毎晩、帰宅は終電。心も体もすり減らしながらも、彼の目は希望で光っていた。
──そして、当日。
大手企業の役員が並ぶ会議室。緊張の中、ノートパソコンを開いた黒田の手が止まった。
資料が、ない。
プレゼン資料は、どこにもなかった。
保存していたはずのフォルダが、空になっていた。
何が起きたのか理解できないまま、血の気が引いていく。
何度も何度も、再起動し、別のフォルダを探した。
だが──何も、残っていなかった。
「……あの時の俺は、バカだったな」
黒田は独り言のように呟く。
珈琲の湯気が、冷たい朝の空気に溶けていった。
資料が消えた原因はすぐに噂になった。
彼の出世を妬んでいた先輩社員が、こっそりデータを削除していたのだと。
だが証拠もなければ、上司は聞く耳を持たなかった。
「プロジェクトは失敗。責任は君にある。……申し訳ないが、しばらく第一線からは外れてもらう」
会社は黒田を切り捨てた。
彼を讃えていた同僚たちは、目を逸らした。
営業の数字があってこそ、彼の価値だった。
そこからは、空っぽの毎日だった。
誰からも期待されず、役職も剥奪され、次の人事異動で名前が消えるのを待つだけ。
「……あのまま、俺は腐ってたんだな」
口の中に、珈琲の苦味が広がる。
それが、自分のかつての人生の後味のようにも思えた。
──けれど、今は違う。
心の中にあった重たい何かが、すっとほどけていくようだった。
あの時、誰にも頼れなかった。
それが敗因だった。
完璧じゃなくていい。時には、仲間に背中を預けてもいい。
異世界で、黒田はようやくその意味を知った。
「あー……やばいな。ちょっと泣きそう」
黒田はそう呟いて、笑った。
そして、立ち上がる。
「よし、次の営業ルート、考えるか」
空は青く澄んでいた。
昨日と違う風が、背中を押している。
――過去は変えられない。でも、未来はきっと変えられる。




