第14話「想いは少女に葛藤と決意を」
昨晩の光景が、ルミナの頭から離れなかった。
くたびれたようにカウンターに突っ伏して眠る黒田。その頬に、そっと唇を寄せるクレア。
……ただの、感謝の気持ちかもしれない。
……あれは、きっと、そういうんじゃない。
そう思おうとしても、胸の奥がずきずきと痛んだ。まるで、見てはいけないものを見てしまったような罪悪感と、心に刺さったままの小さな棘。
布団に入ってからも、ぐるぐるぐるぐる、考えが巡って眠れなかった。
気がつけば夜が明け、ぼんやりとした頭で今日の仕事を始めることになった。
「……ルミナ、手が止まっておるぞ」
サムの声に、はっとして手元を見ると、帳簿の記入が途中のままだった。書いていた文字は滲み、数字は歪んでいた。
「あっ、ご、ごめんなさい! い、今やります!」
慌てて書き直そうとするも、手が震えてうまく筆が進まない。
(ダメだ……全然、集中できない)
そんな様子を見ていたのは、ロンドだった。
まだ若い少年ながら、どこか大人びた空気をまとう彼は、静かにルミナに近づいた。
「……ルミナさん。ちょっと、休憩しませんか?」
「え?」
「お茶、淹れました。たぶん、今は仕事より……そっちのほうが大事な時間かも、って思ったんです」
ルミナは少し戸惑ったものの、彼の真剣な眼差しにうなずいた。
市場の裏手にある小さな休憩所。木陰に置かれたベンチに座り、ロンドが用意してくれた香り高いハーブティーを口に含む。
ほんのりとした苦味が、ぼんやりしていた頭を少しずつ醒ましていく。
「ありがとう、ロンドくん。……なんだか、落ち着いたよ」
「それは良かったです。……で、何か、ありました?」
ルミナは一瞬黙ったが、やがて覚悟を決めたように口を開いた。
「ねぇ、ロンドくん。たとえばさ、好きな男の人がいる女の子がいて……でもその人は、自分の上司で、しかもすごく尊敬してて……。そんなときって、やっぱり、気持ちを割り切るべき、なのかな?」
ロンドは驚いたように目を丸くした。けれど、すぐに静かにうなずく。
(やっぱり、黒田さんのこと……)
「難しいですね。僕、恋のことはあまり詳しくないけど……」
彼は、ゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
「でも、尊敬してるって気持ちと、好きって気持ち、両方あるって……すごく素敵なことだと思います。ただ、相手が大人で、しかも自分の上司なら……その気持ちが本物なのかどうか、ちゃんと見極める必要があるかも」
ルミナは、そっと目を伏せた。
「……でも、昨日、クレアさんが黒田さんに……キス、してたの」
「……そう、ですか」
ロンドの瞳が揺れたが、彼は崩さずに言った。
「恋って、たぶん、競争とか勝ち負けじゃなくて……自分がどうありたいか、どう向き合いたいか、なんじゃないかなって思います。ルミナさんが、その人に本気で想ってるなら……逃げずに、向き合うべきじゃないですか?」
ルミナは、しばらく言葉が出なかった。
けれど、その目には少しだけ、光が戻っていた。
「……ありがとう、ロンドくん。ちょっと、勇気が出た」
—————夕刻。仕事が落ち着いてきた頃。
クレアは帳簿を見直していたとき、控えめにドアを叩く音を聞いた。
「失礼します、クレアさん……少しだけ、お話、いいですか?」
クレアは顔を上げると、入ってきたルミナを見て目を細めた。
「ええ、いいわよ。どうかした?」
ルミナは唇をぎゅっと結び、思い切って言った。
「昨日、酒場で……黒田さんに、キスしてたの、見ちゃって……っ」
「ああ、あれ?」
クレアは意外そうに目を瞬かせると、すぐに微笑んだ。
「安心しなさい。そういうんじゃないわ」
「えっ……?」
「黒田さんもね、たまには弱るのよ。あの人、いつもみんなの前では明るくて、頼もしくて……でも、疲れてるの。あの日も、何か抱えてたみたいだった」
クレアは優しく言った。
「私はただ、ちょっとだけ早くそれに気づいただけ。それだけのことよ。……でも」
彼女の瞳が、ルミナを見据える。
「取られたくないって思うなら、私よりももっと仕事、頑張らなくちゃね?」
その言葉に、ルミナの胸が熱くなった。
(そうだ。私はまだ、何もできてない。ポンコツで、いつも空回りしてばかりで……でも、それでも)
「……うん! 頑張る! もっと、黒田さんに認めてもらえるように!」
クレアは微笑みながら、ルミナの頭をぽんと撫でた。
「その気持ち、大事にしなさい。ね?」
「うんっ!」
ルミナは、ぐっと拳を握った。
この気持ちは、今はまだ、心の奥にしまっておこう。
いつか、胸を張って言えるその日まで—————




