8
アイリスが目を覚ましたのは、ロイスに回復魔法を発動させて意識を失ってから丸3日が経った後だった。
心配そうな顔で涙を流してくる母親も、よくやったと頭を撫でてくれる父親も、何があっても助けたかった幼馴染の少年も、目を覚ましたアイリスの傍にはいない。
気付いた時には、見たこともないような絢爛な寝室のベッドでアイリスは横たわっていたのだ。
「・・・・・どこ、ここ」
ベッドから抜け出して部屋を一周してみたが、こんな部屋のある家はファルナ村にはないはずだ。
窓からの景色を確認すると、アイリスの口から感嘆の息が漏れた。
「綺麗・・・!」
完璧に整備された道路。
美しく聳え立つ石造りの建物の数々。
行き交う人々の清廉な装い。
そのどれもが生まれてからの10年間でアイリスが一度も見たことのない光景だった。
「・・・目覚めましたか」
「・・・!!」
ノックもせずに部屋の中に入ってきたのは、アイリスよりもずっと年上の女だった。
眼鏡をかけた長身の美女は、全身真っ白な祭服を着ている。
警戒するようにアイリスは女の動きを観察した。
訪問者の方はアイリスに興味がないのか、一度も視線を合わすことなく、ベッドの上に綺麗に畳まれた服を置いた。
アイリスがベッドに近づいて確認すると、彼女が着ているのと同じ服だと分かった。
「さて、早速ですが、この聖服に着替えなさい」
「・・・あの、ここは?」
指示を無視してアイリスが問いかける。
ウザったそうに見下ろしてくる美女の美しい灼眼がアイリスの瞳を射抜いた。
「・・・聖都サントレルムです」
聖都サントレルム。
この世で最も美しい都市が故郷ファルナ村のはるか北方にあると聞いたことがある。
いつか一度来てみたいと夢見たことはあったが、いきなり連れて来られたとなると、感動はそこまで強くない。むしろ、恐怖と戸惑いの方が強かった。
「あの・・・どうして私・・・」
「大司教様が説明してくださいます。着替え終わったら外に出てきなさい。・・・・・着替えに手伝いが必要ですか?」
「い、いえ・・・!大丈夫・・・です」
どこか喧嘩腰の聖職者は、バタンと音を立てて扉を閉めた。
何が何だか分からないが、取りあえず言われた通りにした方がよさそうだ。そう判断したアイリスは聖服と呼ばれた白装束に袖を通した。
素材はいいので肌触りは悪くないが、とにかく歩きにくくて着心地が悪い。
長めの裾を持ち上げるようにして廊下に出ると、聖服を持ってきた女ともう一人、アイリスと同じ格好の少女が待っていた。
よく見てみると、長身の女が着ている聖服はアイリスたちの服とは柄が違っている。
アイリスたちの聖服には白地に銀の装飾が施されているが、女の聖服は金の装飾だった。
年上で服の柄も違うということは、無愛想な女は偉い人なのだろう。
「・・・では、ついてきてください」
「はいっ!」
「・・・はい」
元気よく返事をして横を歩く少女は5歳ほどは年長だろうか、アイリスよりも背が10センチくらい高かった。
アイリスが、左側の窓に反射する自分の姿を確認しながら歩いていると、前を歩く聖職者に聞かれないようにか、ひそひそと話しかけてきた。
「ねぇ、あなた、名前は?」
「・・・アイリス・ミドルシアです」
「私はライカ。よろしくね」
「よろしく・・・です」
にこにこ笑っている少女は美しい金髪を肩辺りまで伸ばしていて、同性のアイリスから見てもかなり可愛らしかった。
とはいえ、何が何だか分かっていないアイリスにとっては、すぐに打ち解けるというのはそう簡単なことではない。
おろおろしながら周囲をきょろきょろしていると、ライカがキラキラした瞳でアイリスを見つめていた。
「・・・にしてもすごいね、アイリスちゃん。そんなに小さいのにもう回復魔法を使えちゃったなんて。どうやったの??」
「え、と・・・・・」
そう言われて、アイリスはどうにか助けることができたロイスのことを思い出す。
魔物に襲われて死にかけていたこと。
どれだけ魔力を注いでも、少年に回復魔法は発動しなかったこと。
アイリスの思い付きで唇同士を重ね合わせたこと。
回復に成功して、そのままアイリスは意識を失ったこと。
全てを説明するには時間がかかりすぎるので、アイリスは一言でまとめた。
「・・・たまたま上手くいっただけです」
「あははっ、たまたま発動できるほど、簡単なもんじゃないよ、回復魔法って」
目を覚ました部屋を出て廊下を歩いていた三人は、フロアの中心地にある円型の空間で停止した。
「これから、大司教様がいらっしゃる部屋まで移動します。不要な私語は慎むように」
「はい、ネリー様」
長身の美女の名前はネリーというらしい。
大司教という言葉を聞いて、アイリスは自分が聖都の中のどこに閉じ込められているのか確信した。
世界で唯一、魔法を発動するための紋章「聖紋」を管理し、聖女と呼ばれる特殊な存在を育成する機関。
聖教会である。
なぜ故郷から遠く離れた聖都の聖教会にいるのか。
その理由はライカが言っていた通り、聖女にしか扱えるはずのない回復魔法をなぜか使えてしまったからだろう。
きっと事情聴取か何かで、終わればすぐに解放してもらえる。
聖都のどこかで両親が待っているに違いない。
この時点のアイリスはまだ10歳。楽観的な観測が少女の限界だった。
「・・・どうやって移動するんですか?階段も梯子もないですけど」
5人も入れば密度が最大になりそうな小さな空間には、上にも下にも繋がる道は存在しなかった。
(そういえば私、どうやってここまで運ばれたんだろ・・・?)
床や壁、天井を確認し始めるアイリスを見てネリーがライカに指示を出した。
「・・・・・はぁ、ライカ、手を」
「はいっ!アイリスちゃん、ほらっ!」
そう言われて伸ばされた右手を反射的に握ると、アイリスの視界が急激にぐにゃんと歪んだ。
「・・・・え、ああああああぁっぁぁっぁぁっぁぁあっぁぁっぁっぁぁっぁぁぁぁ・・・」
頭を割られて脳をかき回されたかのような感覚は、ほんの数秒間の出来事だった。
ライカの手を握って立っていたはずのアイリスは、なぜか地面に仰向けになって寝ころんで上を見上げている。
その景色は、数秒前に確認した円形の空間の無機質な天井とは違い、色とりどりに輝く結晶が散りばめられていて、星空のように美しかった。
「え・・・なんで・・・・」
何が起きたのかさっぱり分からないまま立ち上がろうとしたが、アイリスはふらふらしながら地面に尻もちをつく。
「転移魔法だよ。地面に設置してた魔法陣が発動して、上の階まで瞬間移動したんだけど・・・大丈夫?」
「・・・だいじょう・・・・・おえっ、げぇぇぇえ!!」
余りの気持ち悪さに胃の中身を吐き出そうとしてみたが、3日3晩眠っていたアイリスの腹の中には何もない。
魔力酔いしたアイリスは、胃液と唾液だけを吐き散らかして、えずきながら立ち上がった。
「聖女たるものが、情けない・・・」
アイリスが立ち上がると、どこまで続いているのか全く見えないほど長くて巨大な階段が目の前に広がっていた。
前後左右を見てみても、その階段以外に進める道はない。
「・・・これ、上るんですか?」
「その通りです。ついてきなさい」
ネリーはそれしか言わずに、先に階段を上り始めた。
一体全体、何段あるのだろうか。
10段、30段と数えながら上っていくアイリスだったが、真横で歩いていたはずのライカがいつの間にか後ろの方で止まっていた。
それを見て、アイリスは彼女の元まで駆け下りた。
「大丈夫・・・?」
「うん、ありがとう」
ライカが進んでいたのはアイリスの半分ほど。
確かに膝を持ち上げないと上れない段差だが、10段ちょっとでへろへろになるほどではない。
だが、彼女の額には大粒の汗が浮かんでいて肩で息をしていた。
(体弱い人なのかな・・・?)
手を貸して一緒にゆっくりと階段を進んでいると
「アイリスちゃん、何で平気なの・・・?辛くない、この階段?」
「え・・・」
何で平気なのかと驚かれたが、アイリスには何のことだか分かっていない。
「この階段、歩くだけで魔力を消耗しちゃうんだよ?そもそも聖女の素質がないと・・・階段自体に・・・気づけないみたいだし・・・」
そう言われてアイリスは自分の体を触ってみたが、どこにも不調はなかった。
「ネリーさん、先に行っちゃったみたい。一緒に歩こっか」
ライカの様子を見に行っている間に、ネリーの姿はもう見えなくなっていた。ライカに手を差し出して、彼女のペースに合わせて一緒に歩き始める。
「魔力量、どうなってんの・・・・・」
聖紋を持たない人間が魔法を使うと、とんでもない副作用で最悪死んでしまう。
そう脅されて育ってきたアイリスにとっては、自分の魔力が多いとか少ないとかいう感覚はない。
最初は手を繋いで歩いていた少女たちだったが、いつの間にかライカに肩を貸す状態になっていた。
もう何段歩いたのかカウントすら忘れていたが、体感では恐らく3分ほどは歩いただろう。ようやく到着地点が見えてきた。
「着いたぁ!!」
「ハァ、ハァッ・・・・」
「ライカちゃん、大丈夫?」
ライカの背中をさすりながらアイリスは長い階段を上った先に何があるのか確認した。
そこにあったのはただ一つの巨大なクリスタル。
絶え間なく空中で回転していて、一回転するごとに色が移り変わっている。
「ふふふ、中々面白い子ではないですか」
優しそうな笑い声がして、アイリスはクリスタルのそばに立つ人影を凝視した。
「アイリスちゃん、ありがと。私たちも行かないと」
今度はライカに手を引かれて、アイリスはその誰かに近づいていく。
決して若々しくはないが、美しく清廉な雰囲気を醸し出している彼女は四十歳前後だろうか。
にこやかに笑う女の顔を見て、アイリスの背筋にゾクリと悪寒が走った。
「エルメス様。新たに誕生した聖女2名を連れてまいりました」
「ご苦労様です、司教ネリー」
アイリスとライカを連れてきたネリーは司教という立場にいる偉い人らしい。
だが、そのネリーが二人の前に出て跪いて報告しているということは、エルメスという名の女が大司教で間違いないのだろう。
アイリスは異様なほど高貴なエルメスの佇まいを見て、強烈な恐怖心を抱いていた。
隣にいたライカが動く気配を感じて見てみると、ネリーと同じような体制で膝まづいて頭を下げている。
「ライカさんは当然知っているでしょうが、アイリスさんに自己紹介をしましょう。初めまして、私の名前はエルメス。聖教会で大司教を務めております」
「アイリス・ミドルシアです」
ぺこりと頭を下げるアイリスを見て、大司教エルメスは申し訳なさそうな顔をして言った。
「今日からあなたは、アイリスです」
「へ・・・?はい、今までもアイリスでしたけど・・・」
アイリスがやや馬鹿にしたような言いぶりをすると、ネリーがジロリと睨んできた。
エルメスが片手で部下を制すと、にっこりとした優しい微笑みを浮かべたまま、アイリスに告げた。
「いいえ、あなたは今日から聖女アイリス。ミドルシアという姓を名乗ることはもうできません」
目をぱちくりとさせて、アイリスがエルメスを見つめ返す。
「・・・どういうこと」
「説明をお願いしますね」
指示を受けたネリーが、アイリスを見下ろしながら冷たく言い放つ。
「聖教会に属する人間は、自信の持つすべての力を聖なる存在のために奉仕する身です。その妨げになるものは、全て排除しなければなりません。最たるものが友人、そして家族です」
「私、聖教会には・・・・・」
「回復魔法を発動させてしまったあなたは、既に聖女として扱われています。通常15歳にならなければ聖女の位階も、聖紋も与えられませんが、今回は異例中の異例なのです」
異例と言われても何も嬉しくはない。アイリスはただ幼馴染の命を助けたかっただけで、聖職者になろうなんて思ってもいないのだ。
「回復魔法の発動を感知することはできましたが、貴女がどのようにして魔法を使ったのかは分からないままなのです。聖紋を持たない身で、何をしたのですか?」
やはりアイリスの懸念は的中していた。
幼馴染の少年を助けてしまったのが、聖教会にどういうわけか見つかってしまったようだ。
「分かりません。・・・私、家に帰ります」
踵を返して転移してきた場所までアイリスは戻ろうとしたが、「待ちなさい」と司教ネリーに声を掛けられて足を止めた。
「もう生家に戻ることもできなければ、友人・知人の類に会うこともできない。この聖都から自由に出ることも、原則許可されません」
そんな無茶苦茶な話が許されるわけがない。
だが、どうやって転移魔法を使うのか、使えたとして外に出ることができるのかすらアイリスには分からなかった。
「・・・いや・・・です」
恐怖と怒りの感情がないまぜになったまま、小さな声で呟くように言う。
だが拒絶反応を示すことを予め知っていたかのように、全く驚く様子もなく大司教エルメスがアイリスを追撃した。
「それを望んだのは、貴女のご両親なのです」
「・・・嘘ッ!!!」
「ちょ・・・アイリスちゃん! 大司教様なんだよっ!」
「そんなの知らないっ!!!」
ライカの制止に聞く耳を持つことなく、アイリスは三人を怒りの形相で睨みつけた。
階段を駆け下りてその場から逃げ出そうとしたが、いつの間にか祭壇の周囲が金色のヴェールで覆われていて、アイリスはそれ以上進むことができなかった。
大司教が子どもを諭す口調で語りだす。
アイリスがロイスに回復魔法を発動させて意識を失った直後、能力の覚醒を察知した聖教会がアイリスを引き取りに来たということ。
子どもを引き渡す対価として、両親は聖教会から金銭を受け取ったということ。
大司教エルメスの話は耳を塞ぎたくなるほどに、信じたくない内容だった。
「お父さんとお母さんは、断らなかったんですか・・・?」
涙目になりながら話を聞いていたアイリスは、大司教に尋ねた。
「ええ。最終的には、半分を村に、もう半分をご両親に支払うことで、貴女を聖教会が引き取ることになりました」
「・・・奴隷以外の人身売買は、王国共通の法で禁じられているはずですッ!」
王国共通の法とは、世界のどの国においても禁忌として定められている戒律。
家にある本の内容と、大人たちの会話を聞く中で同い年の子供以上に知識をつけていたアイリスは、自分が金で売られたことを咎めようとした。
だが、聖教会は彼女がその全容をまるで知らない異質な世界。世の中の常識が通用するほど甘くはなかった。
「残念ながら、聖教会に王国共通の法は適用されません」
「・・・そんな」
硬い岩壁のような魔法のヴェールを両手で叩くアイリスに向かって、大司教エルメスが提案した。
「では、こういうのはいかがですか?」
「・・・?」
「我々聖教会は、貴女を引き取るため莫大な金銭を支払いました。その総額は3億レニス」
「さん・・・おく」
アイリスが呆けたように繰り返す。
家の手伝いをしてもらえるお金が10レニスほど。3億というのは、10歳のアイリスにとっては、想像も及ばないほどの大金だ。
「村とご両親に支払った金額を貴女が稼ぎ、聖教会に納めることができれば、貴女を解放することを大司教の名において誓約します」
何をどうすれば稼げるのか、全く考えも及ばない。
だがアイリスは子どもながらに、もう残された手段は身代金の返済以外にはないと理解してしまった。
そして提案してきた大司教は、アイリスにはそれが不可能なのだと確信していることも。
「・・・分かりました」
黙って話を聞いていたライカとネリーが驚いたようにアイリスを見つめた。
「3億レニスの借金、ちゃんと返しますっ!!」
半ばやけくそのように怒鳴るアイリスを見ても、大司教は諫めることなく嬉しそうに頷いていた。
「いいでしょう。それでは、こちらに」
アイリスは手招きされて、巨大な魔法石に手を触れるように指示された。
近くで見てみるとその存在感と溢れ出てきそうな膨大な魔力量に圧倒される。魔法石は止まることなくゆっくりと回転を続けていて、じっと見ていると目が回ってしまいそうだった。
「手を触れて、魔力を流し込みなさい」
言われた通りに平手打ちをするように魔石に触れると、全身に電流が走ったかのような感覚がして「ひっ・・・」とアイリスの喉から悲鳴が漏れ出た。
数秒もしない内に、アイリスの左手に紋章が浮かび上がる。
魔力を聖紋に流し込むと、アイリスの体が白銀に輝いた。
その場にいる全員が驚愕してアイリスを凝視したが、幼馴染のロイスを助けたときと同じ現象のためアイリスにとっては驚くようなことではない。
むしろあの時よりも魔力量は増え、輝度も強くなっていた。
「これで、聖紋の付与が完了しました。正真正銘、貴女は今日から聖女です」
聖紋の付与は10歳の少女に耐えられる負荷ではないことも、初めて聖紋に魔力を通して平然としていられるのが普通でないこともアイリスには分からない。
一瞬だけ驚いた顔を見せたものの、すぐに不気味なほど柔和な笑顔に戻した大司教がアイリスに向かって両手を広げた。
「ようこそ、聖教会へ」