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頬に陽の光が当たる感覚がある。
アイリスが瞼を薄く開くと、雲一つない青空が広がっていた。
(・・・・・ここがあの世?)
洞窟の岩肌よりも柔らかい地面。
光が真上にあるので仰向けに寝転んでいることが分かった。もう死後の世界に迷い込んだのかとも思ったが、どうやらまだ死んではいないようだ。
その証拠に「ヒュゥ・・・ヒュゥ・・・」という自分の呼吸が浅く聞こえてきた。
首を動かして自分の全身を見てみると、左足は反対方向に曲がり、肌の大部分からは悍ましい量の出血があった。
クリスタルリーパーに傷つけられた箇所が痛々しいまま残っているのだ。
途切れそうな意識の中で、自分が洞窟から転移したことをアイリスは理解した。
何が起こったのかは分からないが、とにかくクリスタルリーパーの脅威からは解放されたらしい。
「・・・ヒ・・・・・ール・・・」
咳と共に血の塊が吹き出しながら回復魔法を試してみたが、肌の裂傷が治まったところで魔力が底をついてしまったようで、治癒が中断された。
(・・・ここが死に場所かぁ)
もう立ち上がる気力すら残っていない。
静かに命の終焉を待とうとしたアイリスだったが、自分に向かってくる何者かの気配を感じて瞼をわずかに開いた。
「お、やっと起きたなぁ! 早く回復魔法で治しちゃいな~」
それは、やけにテンションの高そうな男の声だった。
コロンと首の向きを変えると、近くにある大きな木の幹に背を預けて座ろうとしている影が一つ。
だがもうアイリスの視界はぼやけてきていて、体格も顔つきもよく分からない。
人間の言葉を話しているようだから、魔物ではないことは確かだろうが・・・。
涙を零しながらアイリスが首を横に振ると、男は全身血塗れで横たわるアイリスに近寄ってきた。
顔を覗き込みながら背中に手を回して、死にかけ聖女の上半身を起き上がらせる。
「君、聖女でしょ? とっとと魔法で回復しなって。今ここで死にたいなら、まあ止めはしないよ。亡骸はここら辺の土に埋めといてあげる」
「・・・・・す」
「ん?」
かすれ声を出すアイリスの口元に耳を寄せてくる。
「魔力が・・・ないんです」
アイリスだって、こんなところで死にたくはない。
自由の身になるという野望もまだ叶えていないのだ。
だがその道は余りに遠く険しい。
アイリス一人がどう足掻いても、聖教会の支配から抜け出すことは恐らくできないだろう。
仮に年老いて聖教会から追放され、生まれ故郷に戻ることができたとしても、アイリスが望んだ世界はもうそこにはない。
ならばもうここで死んでも何も変わりはしない。
瀕死の重体になり、今まで考えないようにしていた思考が脳内を駆け巡っていく。
それでも、こんなところで諦めたくないという気持ちのほうが強かった。
「・・・もぉ、しょうがねぇなぁ・・・おっ。いいの持ってんじゃん」
ぶつくさ文句を言いながら、アイリスを再び地面に寝かせる。
そして、男はアイリスの近くに転がっていた魔核石を拾った。
1体目のクリスタルリーパーを討伐した時の魔核石を、アイリスが懐に仕舞ったままになっていたものだ。
男はそれをナイフで一口大の大きさに手早く加工して、息をするのが精いっぱいのアイリスに見せて指示を出す。
「ほれ、口開けて」
ほとんど意識が朦朧としているアイリスは、言われた通りに吐血で汚れた口を開けた。
だがもう顎に力を入れることすらしんどく、小さく半開き程度が限界だった。
「もっと開かねぇのかい」
「・・・・・・・むり」
「いいから開けなって」
「・・・・・・・きつい」
もう意識が飛びそうな中で、言葉のやり取りをするのも厳しくなっている。
そんなアイリスの様子を見て苛立った男は
「どあああ、もういいや!」と、小さくなった魔核石をアイリスの口に無理やり詰め込んだ。
「もぐごあああああぁぁぁ・・・」
喉が圧し潰され、気道が確保できずに苦しむアイリス。
足をじたばたさせる聖女に馬乗りになると、男はそのままアイリスの唇をキスで塞いだ。
「・・・・ンンッ!!!!」
アイリスは弱弱しい力で男を押しのけようとしたが、体格差があるため難しい。
瀕死のアイリスにできることは、ただ為されるがまま、口の中に流れてくる生温い液体を受け入れるだけだった。
直後、パキンという音がアイリスの耳に届く。
その途端に口の中に猛烈な苦味を感じて、アイリスは口に入れられた魔核石を吐き出そうとしたが、男はアイリスと唇を重ねたまま離そうとはしなかった。
コクコク、とアイリスの喉が音を鳴らす。
生まれてから感じたことのないような苦味が全身に行き渡り、男はようやくアイリスから距離をとった。
「・・・ゲホッ!ゲホッ!」
「ほれ、詠唱しなよ。ヒール」
真っ赤なしかめっ面で咳き込むアイリスに対して、男が笑いながら言った。
「・・・ヒール」
無駄だと思いながら回復魔法を唱えると、アイリスの体が白銀に輝いて、クリスタルリーパーから受けた全ての傷を一瞬で癒した。
自分の魔力が尽きていたと思っていたアイリスは回復魔法が発動したことに驚き、男はとんでもなく強力なアイリスの回復魔法に驚いていた。
「なんで魔力が・・・」
「うわ・・・凄い回復力。こんなレベルの聖女、久々に見たよ」
アイリスは跳ねるようにして上半身を起き上がらせる。
体を見下ろすと傷一つ残っておらず、美しい肌は純白の色を取り戻していた。
「今、何飲んだの?魔力を補給する薬なんて・・・存在しないはずなのに」
目の前の男が誰で、今いる場所がどこで、何で自分が洞窟にいないのか・・・。
アイリスの頭の中には疑問が連鎖して浮かび上がっていたが、死を待つだけの状態だったアイリスの魔力が復活した理由が一番気になっていた。
魔力は人為的に扱うことのできる代物ではない。
魔力を回復させる方法は、時間経過による自己再生を待つだけ。
それが世界の常識で、魔力補給のための薬を独自で開発しようとしている者もいるらしいが、未だ実用化されたことは一度もなかったはずだ。
だが今のアイリスの魔力は、なぜか満タンの状態にまで復活していた。
魔物の魔核石を口に突っ込まれてから、男が口移しで飲ませてきた何かがアイリスの命を助けてくれたのだろう。
何やら体まで熱くなってきていて、頭もボーっとしてきている感覚があった。
「んー、あ、これ?ただの酒だけど?」
「・・・・ふぇ?」
アイリスに飲ませたのと同じ絵柄の瓶が何本も男が座っていた辺りに転がっている。
アイリスが自分の息のにおいを嗅いでみると、強烈なアルコール臭が漂ってきて、再びげほげほと咳き込んだ。
「さ、さけって・・・!聖女はお酒なんか飲んだらダメなのに・・・!」
「おいおい~、酒に助けてもらっておいてなんだ、その言い草はぁ」
飲酒と賭博、そして男女交際は聖女の三大禁忌と呼ばれている。
禁忌を破れば、上層部の赦しが出るまで聖教会に軟禁され、退屈な説教を何日間も受けなければならなくなるのだ。
アイリスが顔を青ざめて男がぐびぐび飲んでいる酒瓶を見つめていると、恍惚の表情を浮かべた男が笑いながら言った。
「あははぁ、まあいいや。俺はカグラ。君は?」
「・・・アイリスです、ヒックッ・・・。助けてくれて、ありがとうございました」
アイリスの瞳はトロンとしていて、顔も真っ赤になっているが、自分では気付いていない。
生まれて初めて感じるふわふわとした浮遊感は、どこか心地よい感覚だ。
「うん、お礼はまあいいからさ、とりあえず・・・」
丁重に頭を下げてお礼を言うアイリスに向かって、カグラがニヤニヤしながら自分が来ていたマントのような古布を、アイリスに放り投げてきた。
首を傾げてどういうつもりか尋ねようとすると
「それ、羽織っときー。可愛らしいサイズのお山が丸見えだよ?」
「・・・・・へ?」
そう言われてマントを受け取り、自分の体を見てみる。
すると、装着していた防具も着ていた衣服もクリスタルリーパーのせいで全て破られてしまっていて、自分がほとんど生まれたままの姿になっていることにアイリスは気づいた。
聖女の回復能力は全身の怪我には有効だが、破れた衣服までは再生することができないのだ。
男に背を向けて、より一層真っ赤な顔をしたアイリスがそそくさとマントを羽織る。
それが、かつて世界に名をはせた冒険者、カグラ・メンフィスとの出会いだった。
***
ラムル王国冒険者ギルドは、昼過ぎになると、仕事を求める冒険者でギルド内には活気が戻っていた。
ニーナやカリンのような受付嬢の仕事は、冒険者パーティのランクに応じて最適な依頼を受注させること。
判断を間違えば、冒険者たちの命を危険にさらす可能性すらあるだけに、極めて重大な役割を彼女たちは担っている。
だが、眼鏡をかけたグラマラスな美人受付嬢は心ここにあらず。
目の前に立っている冒険者パーティの女リーダーに以来の案内をすることなく、口を真一文字に結んで呆けていた。
「あのぉ・・・ニーナさん?」
「・・・・・はっ!ごめんなさい、依頼ですね・・・これでどうでしょう!?」
「え、いや、これBランク向けの依頼です!私たちはまだDランク!!」
「あっ・・・ごめんなさい!」
そんなやり取りを3組の冒険者パーティと繰り返すと、ギルド内はようやく落ち着きを取り戻す時間帯になっていた。
テキパキと冒険者を送り出していた受付嬢のカリンがニーナにチョコの破片を渡しながら笑って言う。
「なはははっ、ニーナも仕事に集中しないときがあるんだなぁ。そんなに聖女ちゃんのことが気になるのかぁ?」
「・・・ありがと。なんか、嫌な予感がするのよ」
冒険者だった頃から、ニーナの予感は悪い時にばかり的中する。
やはり他の冒険者パーティを探せばよかったかと思いもするが、もはやパーティ探しに一刻の猶予もない聖女アイリスに、フェルナンドのパーティ『永遠の絆』を紹介したのは間違いなかったはずだ。もし紹介せずにアイリスが聖教会に戻ってしまえば、ニーナは自分がきっと後悔すると直感していた。
腕を組んで難しい顔で考え込んでいると、何かを感じ取ったカリンが鼻をピクッと動かしてニーナの腕を突いた。
「・・・お、噂をすれば戻って来たみたいだよ?」
犬の獣人は嗅覚を研ぎ澄ませれば、周囲の状況を把握することができる。
冒険者であればその精度はかなり緻密で、数十メートル先で誰が何をしているのかを正確に把握できる獣人も世界には存在する。
カリンの鼻にはさすがにそこまでの精度はなかったが、扉の外にだれがいるのかくらいは十分感知することができていた。
ニーナには全く感じられないが、冒険者一人一人の匂いを嗅ぎ分けることができると言っているのを聞いたことがある。
今も、カリンがアイリスたちの匂いを感知したのだとニーナは思い込んでいたが、30秒ほど待ってみても、ギルドの扉は開かなかった。
どういうことか聞こうとしたところで、獣人の受付嬢は「・・・・ん?ん???」と驚いた様子で右に左に顔を動かし、宙の匂いを嗅ぐ動作を繰り返す。
「・・・どうしたの?」
何かを言うのに戸惑うようなタイプではないカリンが、ニーナの問いに口をもごもごさせている。
カリンに近づいて至近距離で見つめると、扉の外を指差してニーナに申し訳なさそうに言った。
「・・・たぶんだけど、聖女ちゃんだけがいない」
それを聞いて、ニーナはギルドを飛び出した。
「ニーナっ!出て右の方に歩いてった!」
「了解!」
声をかけてくる同僚に感謝しつつ、ニーナはギルドを出て右の通りを走った。
行き交う冒険者たちをかき分けて進んでいくと、やけに派手な防具を身に纏った冒険者パーティを発見して後ろから声をかける。
「ま、待ってくださいっ!」
「・・・・・ニーナちゃんか」
足を止めて振り返ったパーティリーダーのフェルナンドが顔を曇らせて呟いた。
ニーナはメンバーを確認してみたが、カリンから聞いていた通り、聖女アイリスの姿だけがどこにも見当たらない。
それどころか、自分の足で歩くことができているのは2人だけで、女冒険者2人は男性陣に担がれている状況だった。
レベル4の魔物、クリスタルリーパー討伐で何かが起こったのは間違いない。
同情するレベルの惨状のようだが、フェルナンドが笑いながら言う。
「ごめんね、敵が想定外の強さでね。どうにか退路を作って全員で撤退してきたところなんだ」
「それは、お疲れ様でした。ですが・・・回復して、戦闘を継続しなかったんですか?」
「・・・回復薬はこの二人にほとんど使ってしまってね。長時間の戦闘は困難だと判断したんだよ」
その判断はきっと間違っていない。4人組の冒険者の内、2人が行動不能になってしまえば、ダンジョン内部を攻略して魔物を討伐することなど到底不可能。
ニーナはフェルナンドたちが撤退したことにはそれ以上追及しなかったが、自分が送り出してしまった聖女がなぜどこにもいないのかは確認しないわけにはいかなかった。
「・・・同行していた聖女様は、どこに?」
フェルナンドを見据えて尋ねたニーナは、彼の表情が一瞬だけ曇ったのに気づいた。
「ああ、あの子は、僕たちを置いて逃げたよ」
「・・・は?」
「まあ、前科もあるし、別に驚くようなことじゃないんだけど・・・・・」
その言い草がカチンと頭にきたアイリスは、場所をわきまえることなく、フェルナンドを睨みつけて
「嘘ですっ!!」と大声で叫んだ。
しまった、と悔やんだ時には遅く、周囲に冒険者たちが集まってきてしまった。
自分に噛みついてきた受付嬢が気に食わなかったフェルナンドが、笑みを消して睨みつけてくる。
「・・・嘘だって?」
「あ、いや、その・・・」
「なにか証拠でもあるのかな?」
そう言われてぐっと押し黙るニーナ。
元冒険者として、受付嬢として、数多くの冒険者に触れてきた経験によって培ってきた感覚からして、この男が嘘をついているのは間違いない。
だが、それを明らかにするだけの材料はどこにもなかった。
そしてフェルナンドの言う通り、アイリスが過去に参加した冒険者パーティを見捨てて逃げたという事実がある限り、彼ら『永遠の絆』の証言の方が強くなるのは道理だった。
「僕らは全員が聖女アイリスに裏切られたんだ」
「・・・ああ。間違いないぜ。だから俺はあんな奴、初めからパーティに入れるのに反対だったんだ」
どうやら、このパーティの中では聖女が再び敵の前から逃げたことを事実にしたいらしい。
何も言い返せないでいるニーナに背を向けて、フェルナンドたちが足早にその場を去っていく。
これ以上は無駄だと直感してしまったニーナは両拳を握り締めて、アイリスが一人取り残されている錬魔の森の洞窟に向かって走り始めた。