第三話 (過日の1)
※
過日。
不確定で不明瞭な記憶。過ぎ去った今となっては現実かどうかも曖昧な時代。
初夏を背に受けて歩く。
バスを降りて正門をくぐり、右に曲がって法学部の脇を通る。ゴシック建築のいかめしい建物が大学図書館。七沼遊也は本館の方へと入っていく。
リュックに一杯の本を返却し、一般書架にて新書を物色。ラックの新聞にざっと目を通し、クイズにできそうな事柄をいくつかメモする。大学に入ってから身についたルーティンワークである。
早朝であっても利用者は多い。書籍を広げてレポートに取り組む者。静かに学術雑誌を読みふける者。七沼はふと顔を上げ、地下書庫の方へと向かう。
蔵書数が百万冊を超えるというこの図書館にあって、地下書庫の規模は迷宮のごとく。何かの全集、紀要、論文集などが整然と並び、空気は一様に埃っぽく、無味無臭であり、冷たい。並んでいる本がひどく冷遇されているように錯覚する。
さらに奥へ。蛍光灯のじりじり鳴る音まで聞こえるほどの静寂。地上の光も遠く、可動書架が物言わぬまま威圧を放つ。
彼女はそこにいた。
未整理の新規コレクションの区画。膨大な寄贈書がいったん集積され、いつ整理されるのかも分からぬまま眠る混沌の隙間。
柔らかな若草色のストールを首に巻き、ゆったりとした明るい緑のワンピースを着込んでいる。緑を好むのは灰色の世界にあって何かの抵抗なのか、あるいは鮮やかな色を着ていなければ、七沼ですら彼女を見つけられなかっただろう。
パイプ椅子に腰掛け、本をめくるその指先は綿のように白く、度の強い眼鏡の奥には柔らかく大きな瞳がある。
その眼が七沼を見て、にこりと笑いかける。
「七沼くん」
「葵さん。いつからここにいたの」
「さあ……だいぶ前から、かな」
草森葵。
七沼はこの時まで、図書館にいる彼女しか見たことがない。
彼女はかなりの乱読家であり、本の虫であり、活字中毒者であった。そんな彼女と知り合ったのは、まったくの偶然である。
「七沼くん、またクイズのネタ探し?」
「そうだね。葵さんのクイズを聞きたくもあるけど」
草森は眼鏡の奥ではにかんで笑い、ゆっくりと本をめくる。そこは宝石の砂浜であり、手近な宝石をすくい取って指の間からこぼすような、無造作でかつ美しい所作。
「じゃあ伊藤さん縛りなんてどう? 少しずつ難しくなるよ。女子として世界初のトリプルアクセルを成功させ」
「伊藤みどり」
「正解、では近年再評価の兆しがある江戸期の画家で、濃い色彩の植物や動物」
「ええと、わかった、伊藤若冲」
「はい正解、では同じく江戸時代の棋士であり、煙詰めとも呼ばれる、盤面39枚で始まる詰将棋を最初に考案……」
夢幻のごときクイズの時代。
どこかの大学、どこかの書庫で、二人が静かにクイズに興じる。
草森葵、彼女はけしてメディアに出ることはなく、また大学のクイズ研にも所属していなかった。
しかし七沼は彼女に惹かれていた。そして定期的に彼女に会いに来ては、いつも同じことを求める。
「葵さん、クイ研に入りなよ。例会は毎週土曜にやってるけど、それ以外でのフリバ(フリーバトル、特にルールを定めず行う早押し)もあるし、キャンプとかのイベントも多いから」
「無理だよ。読みたい本がたくさんあって忙しいんだもの」
「サークルメンバーじゃなくても出られるオープン大会もあるよ。一度出てくれれば、みんなきっと葵さんのことを」
「七沼くん、勘違いしてるもの」
いつかの時代の、どこかの書庫で。
彼女はいつも地下にいた。あるいは彼女は本の妖精だとか、本好きの幽霊だとか、そんな風にも思える。ある種の人間らしさの否定、それが七沼という人間にとっては賛辞となる。それもまた、歪んでいるが。
「私は、クイズ戦士じゃないのよ」
「それは違う」
いくぶん、真摯な眼になって七沼は言う。
「クイズは競技として進化しつつあるけど、本来は勉強したり、研究する対象ですらないんだ。本が好きで、知識を集めるのが好きで、あらゆることに貪欲に興味を持つ人。そういう人から真のクイズ王が生まれることだってあるはずだ」
草森葵は少し身を縮めたように見えた。腕を掴みかからんばかりの七沼の熱意を避けたのだろうか。
「それにこの世界に、クイズのできない人は一人もいない。誰だってその人だけの知の領土があって、思い出したり連想したりすることは楽しいことで……」
「……そうかもね」
その人物は、知識の化身。
七沼遊也が出会った、唯一無二のクイズ王。
本をめくり、活字を追うことが何よりも優先される。七沼との会話も、戯れのようなクイズも、あるいは読書以外のあらゆることがほんの片手間のような人物。
「でも、やはり私は、クイズ戦士じゃないの……」
(……なぜ)
なぜ。
何故。
疑問だけがその場に降り積もり、そしてページをめくる乾いた音だけが、いつまでも止むことがなく――。
※
広間は赤の円柱が等間隔に並び、長方形の構造をしている。白い漆喰の壁には竹を格子状に編んだものが貼られ、壁紙の代わりとなっていた。食事の間であるから赤は控えめなのか、大きめの植物などが並んでいて目に優しい。
「器は……青磁だね。見事な絵付けだな」
メイドの二人に案内される形で席につく。引かれた椅子に座れば、ラウ=カンふうの長衣を着た男たちが現れて給仕の配置についた。
やがて睡蝶も現れてすぐ近くの椅子に着座する。ゆったりとした乳白色のロングドレスに着替えており、裾はミルクの河のように床に流れている。
そして劉信も別の入口から現れる。すだれのついた帽子を小姓に預け、別の文官といろいろ話をしながら食事をとっていた。書類もいくらか並んでいる。
「お客人の前なのにすみませんね。何しろ忙しくて。今日もこれから会議が四つあるんですよ。友人の誕生日の祝いも送らないといけないし。この書類とかでいいかなもう」
「気にしないでくれ……。こっちは自由にやってるから」
料理は色々と並んだ。鶏肉を揚げてフルーツを使ったソースをかけたもの。キノコのそぎ切りを添えた蒸し魚。ナッツと鳥の足の炒めもの。ただどれも取り分けてくれる量が少なく、箸のひとつかみで終わってしまう。
料理のせいで逆に胃が活性化したのか、腹の虫が鳴りそうになる。少し不安を覚えて睡蝶に尋ねる。
「これは……もしかして何十皿もこんな感じで出るのかな。そうなると食事の時間がすごく長くなったりとか……」
「ユーヤは渗透脆は初めてネ? お腹にたまるものだから前菜は少なめにしてるネ」
「どんな料理なんだ?」
「今から用意するネ」
現れる。それは大の男が三人がかりで運ぶ巨大な深皿である。子供用のビニールプールほどの大きさがある。
「……?」
その中央に台座を置き、次に運び込まれるのは小麦色に焼かれたパンである。型食パンに似ており、ほぼ立方体。池の中央に置かれたオブジェのような、という比喩が浮かぶ。
料理人がパンの向かい合った二面の皮を切り落とし、白い部分を上下にして積み重ねていく。ざっと五段。高さは150センチほどにもなる。
「大昔、スープのにごりを取るためにパンで濾してみようと思った料理人がいたネ。ぎゅっと生地の詰まったパンを重ねて、ああして積み上げた上からスープを注いだネ」
いくつかの寸胴鍋が並び、肉のスープ、魚がぶつ切りで入っている浜鍋のようなスープ、野菜のスープなどが順次、注がれていく。
「そうして一日が終わるときに、そのパンがまかないとして出されたネ。それがこの料理の由来ネ」
「おお……なかなか面白いな。でも三種類のスープを混ぜるだなんて、なんだか雑然とした味になりそうだが……」
「そうですね、現在でもあのやり方で作る店はありますが、本当のまかない料理です。臭みもあるので私はちょっと苦手です」
白布で口元を拭いつつ、劉信が言う。
「ですので現在の姿がこれです」
給仕の一団が現れ、ユーヤの前に置かれるのは立方体のパン。食パン半斤ほどの大きさで、上下に冬瓜のようなもので蓋がしてある。
どうやら先程の大掛かりな料理は説明というか、余興だったようだ。
「……これは、香りが」
ナイフをそっと突き入れてみれば、ウェハースのようにさくさくと崩れる皮。じわりとしみ出すスープからは極彩色の蝶が飛び立つよう。肉に魚、野菜に香辛料、何かの発酵食品まで、数十もの香りが折り重なっている。
それは本来かなり密度の濃い生地であり、それがスープを吸ってパンパンに膨らんでいる。外側の皮をさりさりと崩せば、まるでゼリーのようにスープを蓄えたパンが切り出される。
「不思議だ……こんなに水気があるのにスープが流れ出さない」
口に運べば、それは数十回の肉の経験に匹敵する衝撃。
口の中で重厚な気配が膨らみ、強引に鼻から抜けていって風味が脳を揺さぶる。魚や野菜の味わいが数秒遅れてやってきて、コース料理を食べたような満足感。ぎゅっと詰まった密度のある生地だが、噛みしめると糸の束のようにほぐれ、瞬時に飲み込んでしまう。その瞬間がたまらなく切ない。
劉信が書類にペンを走らせながら解説する。
「それは堅縄包と言いまして、噛みごたえがあって食いでがあるパンでしたが、渗透脆にすると不思議と大量のスープを含むことが分かったんですよ」
「凄い……おそらく分子の目が異様に細かいのかな。そこにスープを染み込ませるのも大変な技術が必要だろうし、それでいてサクサク感を保ってる外側の皮も」
「大変です!」
「くそおおおおお!!」
飛び込んできた衛兵風の男に、ユーヤは柄にもなく凶悪な目を向ける。
「いま味わってる最中だろうが!!」
「いえ、あの、大変な事態が」
「何があったネ?」
さすがに無視もできず、睡蝶が尋ねる。
「宮廷前の閲兵広場に、外国籍の飛行船が強行着陸いたしました!」
「ええ!?」
がたん、と席を立つのは劉信。
「守備隊は何をやってたんですか!? 弩を射掛けるはずでしょう!」
「いえ、警告はしたようなのですが、王室所有の飛行船でして、さすがに落とすわけにも」
「王室? いったいどこの船です……?」
「ユーヤ、そんなにハフハフいって食べなくても」
「く、くそ、スープが熱くて一気に食べられない……」
そして回廊の奥から、ばたばたと大げさに響く足音が。
「お、お待ち下さい。どうか正式なる手続きの上で」
「ええいどかぬか! 我の行く手を遮るのは許さぬ!」
そして入り口に現れる。その姿は空を映すような蒼。ユーヤの目がはっと引き付けられる。
「! 君は……」
スカイブルーのタイトワンピースを着て、羽根扇で己の腰をパンと打つ人物は、世界にその名も高き二つの星。その片割れ。
「ユーヤ!」
パルパシアの双王の一人が、大股でユーヤのそばへと歩み寄る。邪魔な椅子を足で押しのけ、ユーヤの胸を扇で突く。
「なぜラウ=カンなどに来ておるか! シュネスの一件が終わったならすぐパルパシアに戻る約束じゃろうが! このユギがわざわざシュネスハプトまで迎えに行ったのだぞ!」
「……え、ユギ?」
「ちょ、ちょっと待つネ」
睡蝶が二人に割って入ろうとするが、蒼のタイトワンピースがユーヤに半歩詰めて、間に入らせない。
「ユギ王女……な、なぜこの朱角典城まで来れたネ? ハイフウ周辺は風の道の調査が許可されてないネ。飛行船なら途中で馬車に乗り換えるしかないはず……」
「ふふん、灰気精を使ったのじゃ。とびきり上等なやつじゃぞ。シュネスハプトからここまで15時間で来れたわ」
それは風と天候を操る妖精。アクアマリンと蜂蜜で呼び出せるが、宝石として200万ディスケットほどの石が求められる。
しかも一時間ほどで妖精の世界に帰ってしまうため、連続使用となれば膨大な額になる。
とはいえ世界一の富裕国とされるパルパシアである、さほど問題ではないだろう。
気になることは、もう一つ。
「ユギ王女……あなた一人ネ? ユゼ王女は?」
「国元に置いてきたわ。政務もあることじゃし、こちらから迎えに行くことなど無いとか言うものでのう。言い合いになったが、それはほれ、一応は我のほうが第一王女でもあるし」
パルパシア王家は必ず双子が生まれる。見分けをつけられるように着衣の色を分けており、蒼がユギ第一王女、翠がユゼ第二王女である。パルパシアにおいて双子は対等であり、格差を意識することはあまりない。
それ以前に、パルパシアの双王が別々の国にいるなどこれまで一度もなかった事態である。驚くというより、あまりに例外的な事象のために思考が追いつかない。
「さ、そんなわけじゃユーヤよ、とっとと帰るぞ」
「い、いや困るネ、ユーヤにはこっちの用件が……」
「ちょっと待って」
ユーヤはいつの間にか立ち上がり、中腰の姿勢となっている。
目の高さを眼前の少女に合わせ、じっと見つめる。まじまじと、その黒瞳で穴を開けんとするごとく。
「な、何じゃ」
ややどぎまぎする王女に向けて、静かに一言。
「……君、ユギか?」