第十九話 (過日の5)
※
「悪問についてのレポート読んだよ」
草森葵と知り合って二年目の春。七沼は草森の誘いで森林浴に来ていた。
「ありがとう、どうだった?」
「1から10まで全部書くような書き方がちょっと良くないけど、面白かった」
草森はキュロットのショートパンツに深めの色の短袖シャツ。白い帽子が淡い雰囲気によく似合っている。大して七沼はすり切れたジーンズにくたびれた柄物シャツ。七沼の服はいつも似たような野暮ったさであり、周りにそれを指摘する者もいない。
「問題文から解答が一つに絞れる場合、どれほどマニアックでも悪問と断ずるのは難しいと思ってるんだ」
七沼は言う。登山道は東側に開けており、春の山々が見えているが、七沼は少しは景色を見ているのかどうか。
「クイズ世界は一種の共通認識により成立していて……。出題されるべき知識、適切な難易度は阿吽の呼吸で決まるんだ。クイズ戦士たちがもっともっと知識を蓄えれば、より難易度の高い前フリを、多段で出すようなクイズ世界が生まれるかもしれない」
「そうだね……」
登山道の脇が少し開けており、四畳ほどの空き地になっていた。草森はふと何かに気付いたようで、そちらに足を向ける。
「あ、蛹があるよ」
低木の枝にぶら下がるように、くすんだ緑色の蛹がある。草森は珍しそうにそれを眺める。ペンライトを取り出して、背後から照らしてみたりもする。
「蛹が好きなの?」
「好きだよ、繭も好き。これは中身が透明だから、できたばかりの蛹だね」
「蛹を作るのがチョウで、繭を作るのがガだっけ」
「チョウもガも同じ鱗翅目で、生物学的な見分け方はほとんど無いの。チョウみたいなガもいるし、ガみたいなチョウもいる。繭を作るチョウもいるよ」
「ええと、ウスバシロチョウ」
「はい正解」
七沼は少し恥じる。ウスバシロチョウは繭を作るチョウ、という散発的な知識だけがあって、チョウとガの違いなど考えたことはなかった。
「蛹とか繭って、神秘的だと思わない? 内部はどろどろになってて、わずか数日で体を全部組み上げるんだよ」
「確かに」
草森はそのままじっと蛹を眺めている。
七沼はここで休憩にするのもいいかと思い、リュックを下ろしてレジャーシートを取り出す。
「葵さん、お茶にしようか。菓子パンもあるから」
「うん」
のどかな山の風景。ゆっくりと流れる時間と心地よい脚の疲労。
「……でも実際は、うまくいかないかも知れない」
ぽつりと、草森がそのようにこぼす。
「何が?」
「長文問題のこと……私は、実際にそのクイズをやれないから想像できないけど、プレイヤーは大変な苦労をするかも知れない。それは繭の中身に似ているの」
「繭の中身……」
「そう、人間の記憶野は混沌としていて、あらゆるものが雑多に詰まっている。人間は繭の中身が組みあがるように、情報を再構成して思い出す。それは一瞬で、とはいかない」
それは、クイズ戦士であるユーヤには理解できる。
早押しボタンを押した瞬間、まだ答えが思い出せていないときもある。ボタンを押してから回答までの一秒足らずの間に思い出すのだ。
知識が膨大になれば、そのタイムラグは増えていくのだろうか。子供の頃の記憶を思い出すように時間がかかり、それでは早押しクイズとして行うのは難しくなる……。
「でも、葵さんみたいな人なら」
「私に期待しないで」
花の棘のような拒絶の気配。
だが離れはしない。レジャーシートの上で肩を寄せる。
「クイズで人と戦うことはしない……。できないの。私の家はそういうことを許さないし……」
「オープン大会じゃなくてもいいよ。他人が嫌なら僕が相手をしてもいい。葵さんの早押しが見てみたいんだ。どんなクイズ世界が広がっているのか、知識を極めた王の戦いが見てみたい……」
「無理だよ……」
恐ろしいのか。
わずかな肩の震え、怯えの気配が嗅覚で感じられる気がした。
彼女はどこへも行かず、何者にもならず、ただ暗く広大な、知識の海に生きているのか――。
※
「さあ、これで9対6、いよいよリーチとなりました!」
司会者が声を張り、熱気はいやがうえにも高まる。
「果たして虎窯側が勝負を決めてしまうのか! では問題です!」
「う……」
指の関節が固まるような感覚。ボタンに手が触れることすら恐ろしく思える。周囲から音が遠ざかり、司会者がとても遠くにいるように思える。
「こんな……こんな事ありえないネ。私は誰よりも知を極めて……」
観客の眼が意識される。全員が自分を責めているような感覚に襲われている。
「ユーヤ……」
視線をさまよわせる。その男は事前に言っていた通りに奥の方にいた。いつものような難しい顔をして、じっとこちらを見つめている。
ユーヤはどうも何かを探しているようだ。観客席にいるのもその関係だろう。だが睡蝶にそれを意識する余裕はない。
「ユーヤ……見ないで。こ、こんなのは私じゃないネ……こんなはずは……」
――押し込み。
「……あ」
忘れていた。ボタンをわずかに押しておくという構え。
ふと脇を見れば、肩が触れ合うほどの距離に猫がいて、ボタンをわずかに押し込んでいる。
「猫……ごめん、押し込みのこと忘れてたネ」
「え? ああ、気にしないで、私も何度か忘れてたから」
その行為に意味があるのだろうか。今の睡蝶には考える余裕もない。
ユーヤの言葉にすがるように、そっとボタンを押し込む。万が一にも蛇が打ちあがらぬように慎重に、指のふるえを押さえながら。
「さあこのまま勝負を決めてしまうのか! では次の問題です!」
司会者は観客の声援に負けぬよう、声に芯を通す。そして読み上げ用のカードをめくる。
「問題、その歪んだ風景が」
――折り畳んだ布に喩えられる。
――それは示妙記。
――作者は伯里。
――場所は夕椎峡。
「折り畳んだ布に」
――しかし布に喩えたのは伯里ではない、もっと昔からあった表現。
――だから地名の方が答え。夕椎峡
「……っ!」
指に、力が。
「喩えられ、示妙記、大覚羅」
――押さなくては。
――押すべきだ。
――だが。もし万が一。
ぴんぽん。
「!」
はっと睡蝶が顔を上げる。脳が煮立っていたかのように思考がぼやけて、視界が白くなっている。
蛇を打ち上げるのは――猫。
「あ……っと」
だがその眼には動揺がある。顎を引いて拳を握り、全神経を集中する構え。
「はい猫選手、お答えをどうぞ!」
「……が、だから……たぶん」
そして前傾になり、解答台を両手で握りしめる。
「夕椎峡!」
「――正解です!!」
喝采。
客席で打ちあがる無数の腕。そして妖精が乱舞する。
「問題を振り返りましょう! その歪んだ風景が折り畳んだ布に喩えられ、示妙記や大覚羅指遊想文などでその美しさが描かれ、コウヤクコウモリやカルニナの花の群生地としても知られる、童謡「船ななつ」の舞台となっている場所と言えばどこ! 正解は夕椎峡です、お見事!」
(今のは)
クイズに生きるものの感覚として分かる。今の問題、猫が押したタイミングはかなり際どかった。いくつか回答候補のある中で、可能性の高いものを選んだのだ。
「猫、いまどうして押せたネ」
「え、ごめん、賭けに出るつもりは無かったんだけど、つい指が動いちゃって」
「いや怒ってるわけじゃないネ、ただ……」
つられて押した。
「……!」
(そうか、分かったネ)
(この長文クイズ、必要なのは早い段階で押す度胸)
(でも一人では制動する心がまさってしまう)
(だから二人が並ぶことで、押そうとする気配を肩から伝わらせる)
(そして二人分の押そうとする意思でフライングさせる、そんな手段が……!)
「さあこれで9対7、勢いに乗れるでしょうか。では続いてまいりましょう!」
(だから、ユーヤはこの作戦を教えられなかった)
(最初から意識していては無意識を制御できないから)
(で、でも……)
気付いてしまった。
あるいはマッチポイントでなければ、理解しながらもその作戦に乗れたかもしれない。
「問題! 古代シュネスでは酒造における三戒の一つとされ」
――香気分離に関する法律。
「ラウ=カンではジョサイ王の時代に制定された」
(ぐ……)
だが、意識してしまっては。
自然な筋肉の緊張を猫に伝えられない。肩で押すような不自然な動きにしか。
「最古の食品関連法」
ぴんぽん
蛇が打ちあがり、そして黒の学朱服の男に視線が集まる。
「香理……香気分離に関する法律」
そして血の気が引く。
瞬間、周囲からすべてが遠ざかる。
打ちあがる喝采や、投げ上げられる帽子。銀写精のフラッシュ、すべて、自分から無限の速さで離れていくような……。
※
「……だめだったか」
ユーヤは広場を一度出て、脇の方から会場裏手へ。教室のいくつかを関係者用の控室にしており、梟夜会のメンバーがユーヤを通してくれる。
「睡蝶」
彼女はその控え室にいた。部屋の片隅で悄然としているように見えたが、ユーヤを見るとうろたえるように手を動かす。
「ゆ、ユーヤ、ごめんネ。答えは分かってたのに、うまく押せなくて……」
「いいんだ、何も言わなくていい」
「ま、間違えたらどうしようって、そればかり考えて……ゆ、ユーヤの作戦もできてなかったネ、ごめんなさい……ごめん……」
――彼女には、長文問題は向いてない。
「……」
周りに女性スタッフや雨蘭もいる。窓には暗幕が下ろしてあるが、その隙間からは学生たちが覗き込んでいる。
その中で、一瞬だけユーヤは強く眉をしかめる。
――彼女は完璧を求めるから。
――負けることより、間違いを答えることを恐れるから。そういう人間なの。
それは幻覚か、あるいは妄想か。
それともずっと以前から、心の奥深くに刺さったままの白木の杭なのか。
――そして彼女は、自分しか信じていない。
「大丈夫だ、落ち着いて、誰か彼女に水を……」
「ゆ、ユーヤ、私、こんな大勢の前で戦ったことなくて、き、気が動転して、体も動かなくて……」
――長文問題は確かにクイズの進化した姿かも知れない。
――でも、この世界のクイズはまだ発展途上。作問者が完璧じゃないのよ。
――前フリで本当に答えが一つに絞れるのか。彼女はそれを信じることができない。だから「もう一文字」を聞こうとする。
――出題者を信じきれない。コミュニケーションが不全なの。だから彼女は、クイズ戦士ですらない……。
「やめるんだ!」
妄想だ。ユーヤは奥歯を噛み締めて心の声を追い出す。
彼女はけして誰かを悪く言うことはない。他人を突き放すような言葉などありえない。
何より彼女と睡蝶は違う人間。現在の人間に、過去の思い出を重ねるのは極めて失礼なことに思われた。
睡蝶は目を潤ませていたが、はっと目を見開き、眼鏡を取って目元を拭う。ユーヤはまだ想念で渦を巻くような思考の中で、それでも言葉をかき集める。
「僕が悪いんだ……僕の作戦が甘かった。もっと君と猫が有利になる勝負を考えるべきだった。それに相手についても調べが足りなかった。どれほど詫びても足りない」
「う……」
睡蝶は、ふいに狼狽していた自分に気づく。
誰にも見せたことのない憔悴した姿も。そして敗北の瞬間も見られてしまった。そのことが強烈な羞恥となって背中を上ってくるように思えた。
「ゆ、ユーヤ……」
「大丈夫だ」
ぎゅっと、ユーヤはその体を抱きしめる。砂漠で水を求めるように、地獄で太陽を求めるように狂おしく、力の限りに。
「最初から完璧な人間なんかいない。君はまだ繭の中なんだ。いつか必ず羽化を果たす。必ずだ。だから自分の心に負けないでくれ。すべてのことを糧とするんだ。敗北すらも」
「わ、私は……」
「とええええええい!!」
その睡蝶が真横にふっ飛ばされる。腕が強引にほどかれた。
「のわっ!?」
雨蘭の飛び蹴りだ、と気づいて周囲にいた全員が茫然となる。
「な……何するんだ」
「黙れこの浮気者が! おぬしら二人とも結婚しておる身であろうが! 二人じゃから浮気団じゃ! このウキウキ浮気団! 際どい腋に和気あいあいの浮き輪談義か! 猥談奇談サークルか!」
「適当にしゃべるんじゃない!」
「な……何するネ!」
がらがらと、隅にまとめていた椅子の山が崩れており、それを押しのけて睡蝶が出てくる。
「ふん! 負けるだけならまだしもユーヤに抱きつくとは不届き千万! そーゆーのは勝ったご褒美にされるもんじゃ。負け犬は歯噛みしながらパンくずでも食うておれ!」
「きーっ! 雨蘭はあいつらの実力知らないから言えるネ! 本当に洒落にならないぐらい強いネ! 雨蘭なら勝てると言うネ!」
「ほっほっほ、むろんじゃ。ほれ司会者の声を聞くがよい」
「さあ、ではインターバルを2時間ほど挟みまして、次なる会場は第一講堂です。大学全土を舞台にしたこのクイズ対決。次なる種目はこれまた世界初!」
「世界初……」
猫が呟くのを受けて、雨蘭が胸をそらす。
「そうじゃ。次なるクイズはイベントでも、ラジオでも行われることのなかった知の祭典。我と桃の力、見せてくれようぞ」
「問われるは桃色の知識! 闇の歴史! 禁忌なき戦い! 地底クイズを行います!」