第十八話
※
「押し込み?」
聖域とも呼ばれる縦穴。大地に掘られた螺子溝のように続く螺旋の道。
三悪たちの住処に戻ってきたユーヤは、全員を前に説明している。ただし陸だけは出入り口の見張りに出ていた。
「そう、妖精が変化した早押しボタンは大きく、わずかに押し込みの「遊び」がある。これを少しだけ押した状態で構える、これが押し込みだ」
「ユーヤ、その考え方なら私達にもあるネ、でも……」
主に聞き役となるのは睡蝶と、「悪問」の猫。いずれもハテナの形、蛇の木型を備えたクイズ帽を脇に置いている。
「そこまで接戦になることはほとんどないネ。むしろお手つきが多くなるし、行儀の悪い行為とされてるネ」
猫は、この二人はなぜそんな一般常識のようなことを説明しあってるのだろう、という疑問を覚えたが、特にそこには触れない。
「ユーヤさん。種目は百文字超えの長文でのクイズでしょ? 一文字を競り合うような勝負になるかしら」
猫はやはり虎窯の元幹部というべきか、このクイズの要旨を早くも掴んでいた。
「何となく分かる。これは純粋な知の勝負。前フリが多段で行われるということは、私の作ってきたような悪問としか呼べない知識が前フリに使われることもある、そういう理屈ね」
「そうネ。それに相手がいくら強くても、知識なら私が負けるはずないネ。問題なく競り勝てるネ」
「……そうだね」
ユーヤはあまり感情を出すことのない人間であり、このときも必要以上に淡々としていた。
「睡蝶よ、いいから聞いておくがよい。ユーヤのことじゃ。何か作戦があるのじゃろう」
後ろの方から声を投げるのは雨蘭。パートナーとなる「悪書」の桃との間で、何やら広げた雑誌を挟んで話し合っている。
「作戦って……押し込みが作戦として意味を持つネ? どう作用するネ?」
「それは、話してしまうと意味がなくなる。人間の無意識に働きかけるような作戦だからだ」
「それって私と睡蝶にってこと? それとも敵さんに?」
「それも含めて話せない」
「ううん」
猫は半信半疑どころか、ほぼ疑の感情しかなかった。このパルパシアの留学生を含めた三人は一体何者なのか。本当に虎煌らと戦う力があるのか。
唇を噛む。今さら疑っても仕方ないとも分かっている。この勝負に十億という大金を賭けたのは彼らなのだ。
「いいわ、押し込みをやりましょう。それで勝てるなら」
「……わかったネ、ユーヤがそう言うなら」
「ありがとう、二人とも」
「押し込み、に、何の意味があるのでしょう……」
桃が広げるのは古い雑誌の数々。なぜか誌面に桃色が多い。
「おそらく、これがペア戦であることに意味があるぞ」
雨蘭は扇子を口にあてつつ言う。桃はちらとユーヤを見て、やはり声をひそめる。
「なぜ、です?」
「我らがお主らと協力しあう形じゃから気にされておらぬが、ユーヤは意味のないことはせぬ。この勝負がペア戦である理由を説明しておらぬ。それも作戦の一部なのじゃろう」
「な、なるほど?」
「解答席の配置とかもやたら細かく打ち合わせておったからのう。もっとも、それは我らやユーヤの試合で意味が出てくることかも知れぬが……」
※
そして光指す舞台。熱狂の矢が降り注ぐクイズの舞台にて。
「虎窯チーム正解! これで4対3、一歩リードです!」
司会の鈴鈴は大きな舞台をたっぷり使って歩きまわっている。おもに男性ファンたちが、銀写精でひっきりなしに撮影していた。
「驚きの強さです! 我々梟夜会が練りに練った必殺の長文問題、見事な早押しで解答していきます!」
観客の声援は、驚くべきことに虎窯の側に向いている。
その解答者たち。黒字に赤く襟をかがった学朱服、個性を感じない凡庸な顔立ちながら、奇跡的なまでの早押しで観客が魅了されている。
「さあ! 次の問題……おっと、ここで資料が届きました! 虎窯側はその代表である虎煌氏、残り五人のメンバーは現在のサークル内トップの人々だそうです! その名はえーと仮名のようですが、甲虫、羽虫、鱗虫、土虫、糸切虫となります。いま壇上におられるのは甲虫と羽虫選手ですね」
「ふん、虎にたかるノミの群れってやつだな」
ユーヤの横から現れるのは陸である。大学生のはずだが小柄で少年のような雰囲気がある。勝負の熱に浮かされてるのか、頬を赤く染めている。
「でもなんか観客の熱狂ぶりすごいな。いくらなんでも学園を占拠してる張本人だぞ、もっと罵倒の嵐かと思った」
「その可能性も考えてはいたんだけど……」
罵倒から暴動、という事態になったときの手も用意してあった。だが観客たちはもはやクイズのことしか見えていない。僅かだが炊き出しが行われていることもあるし、封鎖を成している純紫衝精の持続時間を考えれば、この事態がどうあっても百時間を大きく超えないだろうという目算もある。
だがやはりこの世界、この時代。
クイズが世界の中心にあるのだと、ユーヤは何度めかのそんな感覚を覚えていた。
「長文クイズというのは色々な意図のもとに生まれたんだけど、その一つに、クイズ戦士たちの凄さを魅せるため、という理由もあるんだ」
「そうなのか?」
「長文を早い段階で解くことにはインパクトがあるからね。一般的にも問題文が長い問題は難しいというイメージがある。問題の難しさを見てる人に知らしめるための長文でもあるんだ」
ぴんぽん
ボタンが押される。知恵の象徴たる蛇が立ち上がる。
「深渓カイワディール法!」
「正解! 猫選手お見事でした。では問題を振り返ります。統一歴91年4月に締結された多国間法であり……」
「すごいな。さすが猫だ。半分も読まれてないのに押した」
「……」
ユーヤの感覚は少し異なっている。
今の問題、法律が答えならばその締結年と月だけで当てることは不可能ではないはず。つまり最初の前フリで当てられる可能性がある。
それがかなりマイナーな情報なのか、同じ月に締結された他の法律があるのか、あるいは。
「押しが少し遅い……」
「そうか? とんでもなくレベル高いと思うけど」
「押し込みが……見たところ猫はできているが、睡蝶は……」
視力というより、ユーヤがあらゆるクイズシーンを見てきた中での経験によるもの。
ボタンにかかる手、体重のかけ方と立ち方、目の配り、そんなものから多くのことを感じ取る。
「……できていない。おそらく意識している余裕がないのか、無理もないが……」
※
(この連中……!)
その睡蝶は実のところ、押し込みなど意識していられる状態ではなかった。
現状は7対5、リードを許している。
問題のレベルはきわめて高いが、きちんと聞けば睡蝶ならば回答可能。だが押し負けてしまう。
「問題! 評論家ネイレンヘルはそれを「少年期の色褪せた思い出のようだ」と表現し――」
――軽水画、ディアンドッグ、水底のタウラル
「――シヴェンナ王朝においては魚の鱗より抽出した顔料」
ぴんぽん
「はい甲虫選手!」
「軽水画」
「正解です! よくご存知でした! では問題を振り返り……」
「うぐっ……」
振り返って見れば、理屈が分かる。
あの第一の前フリから「水底のタウラル」はありえない。ディアンドッグもかなり薄い。迷わず押して軽水画と答えるべきだった。
「睡蝶、落ち着いて。まだ十分逆転できる」
「わ、わかってるネ」
歯噛みする。ここまでの正解数は猫が2、睡蝶が3。それで心配されるとは、自分はよほど切羽詰まった顔をしているのか。
(違う、余計なこと考えたら駄目ネ、チームメイトと正解数なんか比べてどうするネ)
(押していかないと……そう、これは「悪問」の猫に合わせてユーヤが提案したクイズ。早い段階の超難度の前フリを、マニアックな知識が噛み合うことで答えられる、という作戦ネ)
(でも私なら、もっと、もっと早く……)
「問題! 灰山における独特の気象現象に」
――盟盆
ぐ、と。
手のひらがボタンを押さんとする。
それは、まばたきの一瞬の世界。
体が前に出て、肩から肘、肘から手首、手首から指に力が伝わる一瞬。それに抗うような力が、意識の外からの意志が手を止める。
目の端に司会者の黄色い残像。耳が無意識に言葉を追わんとする。
あと一節の問題文を。
あと一文字の確信を。
「その名を残し」
押せる。
間違いない。
他の可能性などごく僅か。
「リンロウ朝において儀式」
ぴんぽん
頭上から蛇を打ち上げるのは――羽虫。
「盟盆」
「正解です!」
爆発的な歓声。
もはや回答者たちが何者であるか、今の大学の事態はどうか、そんなことが遥か後方に遠ざかるかのようだ。学生たちに混ざって高齢の教員や、街の片隅に住んでいた少年たちまでも声援を送っている。
「怒涛の連取です! まさかここまでの実力とは! これが虎窯なのか、これが国を変えようとする男たちなのか!」
「ううっ……!」
押せた。
なのに、なぜ押せなかった。
自責の言葉が心臓の中で廻転する。
(どうして)
(もっと早く押せたはず)
(練習試合なら山のようにやった。クイズ専門の家庭教師たちと何十回も……)
実戦経験。
そんな言葉がよぎる。
「まさか」
「? どうしたの睡蝶、何か気づいた?」
我知らず言葉に出していた。睡蝶ははっと口をつぐむ。
「い、いえ、何でもないネ」
「そう……これで8対5、でもそこまで押し負けてはいない。頑張りましょう」
「わかったネ……」
(違う、実戦経験なんて関係ないネ)
(誰よりも多くを学んだ)
(誰よりもクイズで強くあろうとしたネ)
(誰よりも……)
※
そこで、視点は舞台から観客へと移り。
その片隅。
「……悲しいことだ」
偏屈そうな男が、ぽつりとつぶやく。
「何がだ?」と陸。
「大学封鎖をとりあえず頭からどけて眺めれば、観客の反応は最高のものだ。確かに素晴らしい闘いが生まれている。本来は……喜ばしい事態なんだ。虎窯のメンバーは確かに強かった。一般レベルから大きく隔絶している、僕にもそれは分かる」
「そうだな……科典で九割超えってのも本当なんだろう」
「この超難問、長文クイズをこのレベルで競えるなんて、一生に何度もあることじゃない。本来は喜ばしい出会いなのに、君たち三悪と組めば、大陸のクイズ文化を大きく広げられるはずなのに」
「おいおい、敵だろうが。あまり入れ込むなよ」
あきれたように陸はため息をつく。この男はどうも理解不能なところがある。冷静沈着な軍師のようでもあれば、子供のように感情の振れ幅が大きくも見える。
果たして猫たちが負けたなら、あのパルパシアの留学生と桃、そして自分とこの男とで二勝せねばならない。想像すると早くもしんどく思えてきた。
「入れ込むといえば、あの子……」
すみれ色の髪と眼。猫と同じく瓶底のような眼鏡をかけている少女。
「大丈夫なのか……。だいぶ、追い詰められてるように見える」
「追い詰められてるんだよ」
そのユーヤの声。喉を煙でいぶしたような枯れた声に、少しぎょっとする。
そのユーヤの横顔。
すべての内臓が悲鳴を上げるような。激甚なる痛みに耐えるような顔。脂汗と早い呼吸。陸は本気で、ユーヤが病気なのではと思った。
「……果たしてここから、生まれ変われるか」
その人物の口が、わずかに動き。
誰にも聞こえぬほどの声で、短い言葉をつぶやいた。
「それとも繭のままなのか、睡れる蝶よ……」