第十六話 (過日の4)
※
過日。
地下の空気は煌めいて見える。寒々しい冬の寒気の中で、微細な埃が光を反射しているのか。
その人物はやはり地下にいた。ブランケットを膝に置き、白い吐息をそっと空気に溶かしている。紙をめくる指にはあかぎれが刻まれ、血色はいつにも増して青白く見える。
「葵さん、これどうぞ」
七沼は缶のココアを手渡す。草森葵がいつからこの図書館にいたのか聞くことはない、聞くのが恐ろしかった。
「ありがとう」
草森葵はそうとだけ言って受け取り、髪を指先でよけつつココアをすする。
「こないだのオープン戦、葵さんの言った通りだったよ」
関西のD大学において行われたオープン戦、七沼は見学のために現地にいた。
そこで行われたのは長文かつ超難問、既存のクイズとは別次元の問題のみで構成された、究極の名を関する早押しクイズである。参加したのは各大学のエース級であり、注目度も高かった。
その結果は、51問を読み上げ35問が無回答というもの。
ある程度のスルーは織り込み済みの大会ではあったが、その光景は極限のクイズというより、気まずい沈黙が続く神経の磨り減る光景と映ってしまった。この事件は苦い経験として、大学でのクイズシーンに一石を投じることとなる。
「良い問題も多かったんだけど、難問の雰囲気にプレイヤーが飲まれてる気がした。ペーパーのつもりで取り組めば違ったかも」
クイズ大会の予選などで行われる筆記クイズ。これをペーパー、または紙と言い、筆記クイズを勝ち上がることを紙抜けなどと言う。
草森は本に目を走らせつつ答える。
「無理だと思う。難問は人間には荷が重すぎるんだよ。どれだけ勉強したって追いつかない。知識の世界は本当に広いの。一人の人間が極めつくすのは無理なんだよ」
「……そうだね」
――でも、葵さんなら。
その言葉は像を結ばず、七沼の喉の奥で消える。
「……どうすればいいんだろう? 早押しクイズはどう進化するべきなんだろうか」
「いくつか道はあると思う。一つは、問題文を長くすること」
「長く……」
「そう、長文問題とでも呼ばれるのかしら。それはクイズの行きつく一つの形。それならきっと、七沼くんの言ってた「悪問」とも親和性が高いと思う」
「悪問と……なるほど、多段フリ問題とか、そういう方向性か」
「でも、それもきっと、完璧とは言えないけれど……」
クイズの未来について語る草森葵の眼には、いつまでも憂いの色が消えない。
どれほど知識を蓄えても、クイズについて議論しても、彼女の見据える未来には、いつも影が降りている。
この時代。
クイズ世界が成熟し、プレイヤーたちが一般社会から隔絶しつつあった時代。大学生たちが中心となり、新しい世界の創造に取り組んでいた。それがどんな世界となって結実するか、まだ誰にも見えていない。
その時代の中で、七沼は未来を案ずる。
クイズの未来を、そして美しく儚げな、唯一無二の紙の王の未来を――。
※
「長文クイズ、というのは?」
梟夜会の店舗が臨時休業となり、お客が外に追い出されると、店内のあちこちからメンバーが集まってくる。
店内は暗く、ユーヤの感覚ではカラオケボックスに似ていた。細かく部屋が分かれた全個室タイプの飲み屋らしい。同伴喫茶という懐かしい言葉が浮かびかけて、ユーヤはそれを意識から追い出す。
「問題文が極端に長いクイズだ。僕たちの間で長文というと200文字を超えることもあるけど、おおむね100文字以上を目安としよう」
一番広い部屋に十五人ほどの女性が集まっている。テーブルにはクイズの本や辞書などがどさどさと重ねられ、部屋の隅のラジオから耽美な音楽が流れている。
女性陣はいずれも紅柄か、もっと際どい格好をしていたが、ユーヤの眼はそれらに向かず、ただ昏い光をたたえていた。
「長くする……という部分がよく分からないんだけど」
「長文クイズは色々な意図によって生まれたクイズで……あくまで僕の解釈だが、スリーヒントクイズに近い。分かりやすいのは偉人などだ。ある偉人についていくつかヒントとなる文章を作り、連結させて問題文を作る。冒頭はほとんど誰もわからないようなマイナーな情報、後半になるに従ってメジャーな情報になる。そのような情報を多段の前フリとして問題文を作る」
問題
ある電磁気学上の現象にその名を残し、2017年の映画ではベネディクト・カンバーバッチが演じ、京都の石清水八幡宮に記念碑があり、世界的なコレクションが栃木県のバンダイミュージアムに収蔵されている、メンロパークの魔術師、訴訟王、アメリカ映画の父などと呼ばれる、白熱電球や映画の実用化などで知られる人物は誰。
解、トーマス・アルバ・エジソン
「長文クイズの出現にはいろいろな動機があるんだが、多段フリ問題は競技性を求めるものでもあった。より知識の深いクイズ戦士は、より前のフリで押せる理屈だね」
「初めて聞く形式ね。ラジオでは長すぎる問題は敬遠されがちだし、前フリが複数あるなら読み上げのトーンも考えないと……」
「私、も、虎窯で作問をしてましたけど、問題文の長さを気にしたことはなかったです……」
鈴鈴はクイズの運営側として、桃はクイズ戦士として興味が引かれているようだ。
「10問先取の勝負として、これから2時間ほどで30問ほど作ってほしい。可能だろうか」
「何とかするわ。会場の手配と飾り付けもメンバーで手分けしてやってもらう」
「できる限り豪華に、派手にやってくれ、それで報酬の方は」
「明細は後で出すけど、全員参加だから8000ディスケットぐらいね」
少しの間。
「……ずいぶん安いけど」
「このお店は商売だけど、クイズサークルは学業の一貫。イベント運営もね。報酬は一人あたま500ディスケットでやってるの。そのかわり気に入った仕事しか受けないのよ。じゃあ細かい打ち合わせやりましょ」
「ああ、ある程度はそちらの裁量でやってくれ。とにかく盛り上がるような工夫を……」
「いやーんこちらの方、触り方がえっち」
「よいではないか、やはり若い子は肌触りが違うのう、どんな化粧品使っとるんじゃ?」
盛り上がり始めてた雨蘭のところにつかつか歩き、脳天に手刀を落とす。
「はうっ!?」
「遊んでんじゃない! 打ち合わせに来たんだろうが!」
「そうは言ってもすでにボトル入れてしもうた」
「早っ!? いやそうじゃなくて君も聞いとかなきゃダメだろ! 君の試合もあるんだぞ!」
「それよりユーヤよ、我は大変なことに気づいたぞ」
急に真剣な顔になり、小さく手招きをする。
「……? どうしたんだ」
ユーヤがソファの横に座る。すぐに若い女性が横に来て席を詰めた。
「うむ、これは我の長年の経験、多くの人や物に触れてきて磨いた、卓抜たる観察眼ゆえの気付きじゃ。さしものユーヤも気づいておらんようじゃが……」
「……な、何だ」
そして雨蘭は息を呑み、ひそかな興奮で目元を歪ませつつ、言った。
「あの桃という娘、千年に一人の美尻じゃ……!」
「……」
人生で最強クラスのデコピンが打てた。
※
「ゆーやさま」
クイズイベントの打ち合わせを終え、店を出たところで声がかかる。
見ればピンクリボンのメイド、マニーファが来ていた。青い布包みを背負っている。
「ゆーやさま、ごめいれいのもの、集めてきました」
と、包みをほどいて現れるのは大量の串焼き、葉物野菜で巻いた焼き魚、肉饅のような白い饅頭などである。それぞれ油紙で包まれ、飴玉や蜂蜜の瓶などもある。
その上にちょこんと座るのは純白の妖精。冷気を放つ氷晶精である。食料は適度に冷えており、痛むような様子はない。
「ああ、ご苦労さま、よくここが分かったね」
「陸さんにお聞きしましたよお。これ、みなさんで召し上がりますかあ?」
「いや、この食料はイベントで配る。食べ物が少なくなってきて、どの屋台も食料を絞ってきてるからね」
歓楽街であるこの通りでは、食料品店はメニューに紙を貼って値段を書き換えている。そうでない店は臨時休業のようだ。
おそらく大通り沿いの屋台はほぼ全滅だろう。どの店も一両日中に封鎖が解けると見越していたのか、食料は出し尽くしてしまったようだ。
「マニーファ、君はどこかの厨房を借りて、これらの食料を元の形が分からない程度に料理し直してくれ。鍋に仕立てるのがいいだろう。それとクイズイベントで炊き出しを行うという触れ込みも頼む。2時間でできるかな」
「わかりましたあ。すぐにやりますよお」
と、メイドは一礼をして引き返し、雑踏に消える。食べ物の香りに通行人の何人かが首を巡らすが、香りを追ってもそのピンクの影は目視できない。
桃が尋ねる。彼女と雨蘭は先に店を出ていた。
「あ、あの……ユーヤさん。どうしてイベントを盛り上げる必要があるんですか?」
「……パンとサーカス、だよ」
「……?」
「人々の不満を反らすためには、食べ物と娯楽が必要だということ……。食料を盗んで不満を煽ったのは僕だから、とんだマッチポンプだけどね」
「な、なるほど、学内の混乱を増すことによって、虎窯に勝負を受けさせる。さらにその食料を不満を反らすために使う……」
「そういうこと……。それより、勝負は2対2での三回戦。二戦目は君と雨蘭だ。インターバルを作るからおよそ四時間後の勝負になる。体を休めててくれ」
「わ、わかりました」
「雨蘭も……」
「ユーヤよ、休むのはよいが我らはまだ二回戦の種目を聞いておらぬぞ。どんなクイズなんじゃ?」
「……それは、相手側とほぼ同時になるように伝える、不公平の無いように」
クイズサークルに依頼するとはいえ、運営にユーヤが関わっている。その気になれば必勝の策はいくらでもあるだろう。
だが、それはユーヤという人間性が許さない。
有利な状況を作ることと、不正を排除すること。どこまでが許容されて、何が受け入れられぬのか。ユーヤは精神を削りながらそれを見極めんとする。
絶対に交わらない炎と氷の血、その2つがこの偏屈な異世界人の体内を駆け巡っている。
葛藤と苦悩の時間が、まだまだ続くかに思われた。
※
そして知の舞台は幕を上げる。
「第五問 メルニエンス歴272年に発見され、『その地にて蝶は川面を埋める』」と称された景勝地/で」
ぴんぽん
「はい猫選手!」
「リダロ河!」
「正解! 問題の続きを読み上げます。景勝地であり、その後統一歴99年まで再発見されなかったため、架空のものの喩えとして用いられる「リダロの水」という言葉の語源でもあるセレノウの指定河川といえば何! 正解はリダロ河です、おみごと!」
観客はすでに二千人を数える。
前列には銀写精を構えた男たちが大挙しており、広場の外周では簡易的な屋台で温かいスープなどが振る舞われている。それに混じって梟夜会のブロマイドなども売られていた。
「すげえぞこのクイズ……とんでもない難易度じゃないのか」
「ああ……虎窯の三悪のことは聞いてたけど、噂通りの実力者だったか」
「いや、相手側もすごいぞ、何でも今は奥にいる虎男が代表らしいが……」
それはやはりこの世界、この時代、そしてこの大学という特殊な場所であるためか、観客はまず何をおいてもクイズに関心が引かれているようだった。
虎窯に対して野次を飛ばすものも少なくないが、それは圧倒的な狂騒の中に飲み込まれてしまう。彼らの不満の多くは空腹から来るものであり、無償の炊き出しがあるとなれば、食べ終える間はクイズに関心が向くのもやむなきところか。
周囲には光の妖精も飛び、梟夜会メンバーによる生演奏で音楽も鳴らされ、過剰なほど盛り上がっている。この閉鎖環境のストレスが一気に吐き出されるような眺めか。
「……もっと盛り上がってくれ、もっと……」
セレノウのユーヤは会場の外縁付近におり、人波をかき分けて少しずつ移動している。襟元が乱れそうになるのを押さえて、少しずつ。
「痛えっ!」
背後で声が。
振り返れば、ユーヤと似たような学朱服を着た人物が、別の男の手をねじりあげている。
「脂ぎった手なのに手癖が悪いですね。爪も伸びてるし。関係ないですが」
その男が革の財布を取り落とすと同時に手を離す、男はほうほうの体で逃げていった。
「ほらユーヤさん、財布を掏られるところでしたよ」
財布のことは気にしていない。どうせ小銭しか入っていないからだ。
それよりも、ユーヤの名を知る人物。
「君は……」
おどけるように開かれた眼、軽口と冗談だけを編み続けるような尖り気味の口。その奥に見える美男子然とした顔立ち。長い黒髪を後ろで結い上げた人物。
劉信統括書記官。
「……なぜ、ここに」
「何言ってるんですか、シュテンの封鎖となれば国の一大事ですよ。しかもゼンオウ様の奥方が取り残されてる。助けに来たに決まってるでしょ。心配してたんですよ空腹のあまり教科書とかかじってないかと」
話しつつ、二人は会場の片隅に移動する。絶叫に近い歓声もあって、二人の会話を気にする者はいない。
「脱出の手筈は整ってますから、隙を見て逃げましょう」
「…………。いや、まだ出ていけない。虎窯との直接対決にこぎつけたところだ」
「ほう」
劉信は人の頭の隙間からステージを見て、拡声の妖精によって響く司会者の声を聞く。
「なるほど、問題文が異様に長い……これはあれですね。凄みの演出でしょうか。学生たちの不満を反らすために、なるべくステージを盛り上げる必要があると」
(この男……)
「うーむ、やはり噂通りの御方ですね。クイズの形式ひとつに色々な意味を持たせている。鈴鈴に依頼したのも良いと思います。私もファンなんですよ。もう梟夜会のグッズで三部屋埋まってますから」
軽口を叩きながらも分析は的確、淡々とユーヤの企みを見抜いていく。ユーヤは表情を変えぬまま、すべてを見透かされるような恐れに冷や汗を流す。
(……いつもそうだな、事態は常に、悪い方に流れていく)
ステージを見る。人の頭の隙間、回答者と司会者たちのさらに奥にいる、虎の毛皮をかぶった人物。
(虎煌、あの人物が劉信の変装ならば、まだ救いはあったのに……)