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第十三話 (過日の3)






過日。


記憶の底に積み重なった朽葉のごとき日々。無数の過去は折り重なって子細は定かならず、背景たる時代はさらに曖昧に、ただ劇的なる一瞬だけが切り取られる。


「百科検定」とはクイズ研究会が発行していたペーパーであり、わずかにA4一枚分しかない。


内容はといえば、極めて狭いジャンルについて検定試験の形式でまとめられた問題集である。おおよそ80点を獲得できれば合格。認定証として名刺サイズの紙がもらえる。クイズ研究会では毎週これを作成し、一般生徒も交えて試験を開催していた。


「静岡検定ねえ、こういうのって実際にあるのかな」


部員の一人が言う。七沼は採点作業をしながら答える。


「観光ガイドなんかは試験があるけど、一般人に向けて検定をやるってのは聞いたこと無いかな。でも評判いいし、現実にやるところが出てきても不思議はないよ」


地方都市の観光や文化について検定試験を行う、いわゆるご当地検定が始まるのはもう少し後の時代である。その第一号は福岡は博多についての知識を問う「博多っ子検定」であった。


検定試験は問題の作成、運営から採点まで一年生の仕事。七沼はその大部分に精力的に関わっていた。

そして、採点のさなかにふと指が止まる。


「……? この、14番の受験者」

「どうした?」


部員が聞き返す。七沼は2度ほど確認してからテスト用紙を見せる。


「満点だ。今回は満点は無いと思ってたのに」


七沼ははっと口をつぐむ。今回は他の部員が作った問題にかなりの悪問が混ざっており、全問正解はまず不可能と踏んでいたからだ。

いわく、田宮模型の住所を正確に答えよ。静岡銀行の金融機関コードはいくつか。この写真の手水舎ちょうずしゃは静岡県内のどの寺社のものか……。


いずれも根こそぎ正解。七沼はほとんど反射的に問題の漏洩を疑った。

だが用紙の扱いは七沼の責任でのこと、手抜かりは無かったはずだ。今この瞬間まで、すべての問題の答えを把握してたのは七沼だけである。


「へえすごいな、物知りなんだね」


他の部員の反応はそんなものだ。七沼はこの人物をぜひクイズ研に誘うべきと考え、名前欄を見る。


草森くさもり……あおい


だが、その人物に七沼が巡り合うのは一ヶ月以上経ってからになる。


草森は認定証を受け取りに来ず、クイズ研の検定試験を受けることも二度と無かったのだから。





「あれは気まぐれだったの」


学食にて。

草森はいつも少食であり、ジャムサンドと小さなゼリーを時間をかけて食べる。七沼はもう何度目かの話題、つまりクイズ研への勧誘を行っていた。草森はいつも断っていたが、話自体を止めてほしいとか、七沼自身を忌避する素振りはない。だから出会うたびに同じことを話してしまう。


「本当は駄目だったのに、つい面白そうだったから、やってみただけ」

「面白かったなら、時々やってみるのもいいんじゃないか? こないだのヨーグルト検定は評判がよくて、女子の受験者が20人も来たんだよ」


草森は片手でサンドイッチを食べつつ、文庫本を開いて目を走らせている。東北地方の遺跡に関する本のようだ。


「駄目なのよ、目立ってはいけないの」


家の方針でテレビに出ることが許されない。イベント参加など目立つこともできない。将来は政略結婚にでも出されて深窓の令嬢として生きる。


七沼のその理解はどこか空想じみていた。平成の世にそんなことが起こるのだろうか。それとも自分はまだあまりにも世間知らずであり、富豪たちの織りなす深淵の世界を知らないだけだろうか。


「サークルぐらい、何も特別なことじゃないよ。学生ならみんな当たり前に……」

「当たり前に生きられない、そういう家もあるの」


眼鏡の奥には憂いが見えた。それを空気に溶かすように、数度の瞬きを交えて言う。


「私、高校も行ってなかったから」

「え……」

「授業を聞いてるのが苦痛だったの。全部知ってることだったから。だから高校の頃はずっと引きこもってたの。親は特に何も言わなかった。大検には受かってたから」

「その……読書好きは昔からなの?」

「物心ついた時からよ。家には誰も読まない格好だけの書斎があって、そこの本を読んでた。使用人が近所の図書館に連れて行ってくれたりもした、雑誌や新聞をずっと読んでたの」


草森の話には家族の影が希薄だと感じる。意図的に描写を避けているのか、それとも娘にほとんど関わることはなかったのか。

知り合って3ヶ月ほど、何度も彼女と話をしたが、彼女の周辺についてはぼんやりしている。数少ない情報としては男の兄弟がいること、父は忙しく家にはあまり寄り付かないこと、草森の姓を名乗っているのは母と自分だけなこと。


草森が自分の姓を嫌っているのは、家の一員になれないことを意識してしまうから、ということ――。


「運転免許を取ることも許されてないし、もちろん修士や博士課程にも進めない。この読書も、ある日突然に許されなくなるかもね」


物悲しいような、あるいはすべてを諦めきった砂のような言葉だった。そんな様子を見ていると、七沼の胸はざわついてくる。何か言わなければと気ばかり焦る。


「葵さんは……もう知らないことなんか無さそうだけど」

「そんなことないよ、何も知らないも同然だよ」

「そうかな……」


草森は読んでいた本のページを見せる。左半分に土偶の写真があった。


「じゃあ問題、これは何?」

「それは……土偶だね。遮光器土偶と呼ばれるものだ」

「そう、この土偶について、人は知ってるようで何も知らない。儀式に使われたとは言うけど何の儀式なのか、どこに飾っていたのか、どんな人が作ったのか、そもそもこれは本当は何という名前なのか。何も知らないのよ。私たちが知識と呼んでいるものは、とても大きな未知の海に浮いた船なの」

「なるほど……そう言われると、そうかも」

「クイズの世界は……たぶんもう少し狭いと思う。ある程度の人が知っていることじゃないと、クイズとして成立しないから」

「……! そう、それは僕たちにとって命題だよ! 僕たちはクイズをクイズとして成立させるために、知の領域に白線を引いてる。そしてやがて、クイズのためだけの知識が持て囃されてくる。それは正しいことなのかいつも悩んでる。しかし新しい問題を作るのは時間も労力もかかるし、競技性のためにはベタ問は捨てがたいし」


我知らず早口になっていた。柔和に己を見つめる草森に気づき、少し顔を赤らめる。


「……葵さん。じゃあ僕と検討会をしないか」

「検討会?」

「そう。僕はクイズ研だけど、プレイヤーとしてだけじゃない。クイズの行き着く先、新しいクイズの世界についても考えたいと思ってるんだ。そのためには、葵さんの意見が必要なんだよ」

「私が……」

「部活じゃないから問題ないだろう? 読書の邪魔になるほど時間は取らせない。週に2回ぐらいでどうだろう。食事のついででもいい」


滑稽なぐらい必死な、言葉数ことばかずを増やしただけの説得だという自覚はある。彼女に何かしてあげたかったのか、彼女の知識が何かに貢献されるべきと考えたのか、動機は自分でも分からない。


「……うん、いいよ」


草森は草原のように淡く微笑み、そう答える。そして少し妖しげに唇を尖らせて言った。


「でも議題はあるの? 私はクイズの経験ないから、七沼くんから話を振ってくれないとわからないよ」

「議題か、そうだな、じゃあ第一回の議題は」



「悪問について、はどうだろう」





全身の痛みで眼を覚ます。


ずきんと鋭く走る痛み。体を動かしにくいのは、関節などに包帯が巻かれているからか。その下には冷たく柔らかい、軟膏のようなものが挟んである。


「うぐ……」

「ユーヤ、目が覚めたネ」


傍らには睡蝶が座っていた。

空間の広さを感じる。遥か上方に見える僅かな陽光。獣脂ランプの明かりは頼りなく、円筒形の空間を照らすには足りない。睡蝶の肌があかあかと色づいて見えた。


「睡蝶、今は何時?」

「朝の6時ネ。夜が明け始めた頃」

「6時……」


ユーヤは急速に意識が覚醒しているように見えた。それは寝起きの良し悪しとは関係なく、意志の力で眠気を体の隅に押しやる眺めだ。


「ずいぶん眠ってしまったな……あの三人に虎窯フーヨウの現状について聞かないと」

「……ユーヤ、それよりずっと寝てたけど、シモの方は大丈夫ネ」


下の方、と言われて、つと己の生理現象を意識する。

そして、まさか尿瓶でも当てられるのかと思って慌てて上体を起こす。


「いや大丈夫、自分で行ける、トイレはどこかな……」

「地上まで出ないとねえぞ。上りは大変だけどな」


近くで毛布をかぶっていた青年が言う。外見はユーヤより少し若いぐらいだが、やや背が低いことと、溌剌とした印象のために若く見える。確か、「悪癖」のルウと言ったか。


「私が肩を貸すネ」

「ちょっと待て、我が連れて行く」


と、毛布を跳ねのけ、どたばたと起きてくるのは雨蘭。長くウェーブのかかった髪は多少、外ハネが目立った。まだ櫛を通していないようだ。


「先に申し出たのは私ネ。それに怪我は私が止められなかったせいもあるし」

「そうはいかんぞ。ユーヤと二人きりにしたらいつ襲いかかるか分からぬ」

「双王こそ、ユーヤと二人きりにするとお尻叩かれるのが落ちネ」

「川渡しのクイズじゃないんだから……」


ふしぶしの痛みを感じつつ、何とか立ち上がる。夢うつつに聞いた通り骨は折れてないようだ。しかし全身が熱を持っているし、腫れのせいでやや歩きにくい。


「こら無理をするでない。「七人の間男」に出てきたカーバンガーかお前は」

「その例えわかるわけないだろ」

「うむ……それもそうじゃな。相方がおればツッコミが得られるのじゃが、一人だとどうも調子が……」

「まあいいネ、二人で支えるから」


左右から肩を支えられ、ユーヤはどうにか階段を登り始める。


少し登ったところには桃色の髪留めをした女性、「悪書」のタオが読書をしていて、三人に会釈を投げる。

そしてすぐ顔を背ける。物静かというより、人見知りが激しい印象だった。


「ユーヤ、昨日メイドに何か指示してたけど、作戦でもあるネ?」

「……作戦なんて立派なものじゃない。苦しまぎれだよ、窮余の一策ってやつだ」


改めて己を見ると、下着と包帯以外は何も身に着けていない。さすがに気恥ずかしさを感じたが、今は関節の痛みのほうが深刻だった。

そして昨日の己の暴走についても、じくじくと傷の痛みのように思い出される。


「ごめんな、先走ってしまって」

「気にしないでいいネ、ユーヤなりの考えがあってのことだと信じてるから」

「相変わらず無茶苦茶するのうとは思ったぞ。あの虎男に食ってかかるなど」


ユーヤは、それは疲労のためか、あるいは微熱のためか、体からネジが抜け落ちるように言う。


「いつも、こうなんだ」

「? どしたネ?」

「いつも間に合ってない。僕が関わった時にはすでに事態は手遅れで、どうしようもなくて、最悪の不幸は過ぎ去った後なんだ。無茶をして抵抗しても、もう何も起きなかったことにはできない。僕の人生はそんなことの連続で……」


「そんなことはないぞ」


と雨蘭。ユーヤの背中をばんと叩く。


「痛っ!?」

「最悪の不幸などというものはまだ起きておらぬ。いくらでも挽回できる。たとえ永遠に何かが失われても、必ず救済はある。人生そんなもんじゃ」

「……そうだね」


そう単純に割り切れないのがユーヤという人間性であるが、雨蘭の天真爛漫、自由奔放な生き様を思うと、己もそうあるべきかと思えてくる。そこには確かに救いもあった。


「だから全身めった刺しになったカーバンガーも、なんとか逃げてまた別の家で間男となったわけじゃ」

「伏線回収だと……!?」


「皆さん、おはよう」


階段を登りきったところに、まるっこい髪型に瓶底眼鏡。はきはきとして明朗な印象の女性、「悪問」のマオがいた。


そこは今出てきた穴を中心とした広場であり、穴の周囲は木片の山である。元々の姿は無数の木箱のようだ。上はドーム型テントのような布張りの屋根があるが、全体として簡素な作りで、あまり「聖地」の入り口とは思えない。


「お手洗いだったらそっちよ。近くに人はいないようだし、見張ってるから心配ないわ」

「うむ、じゃあ我も行ってこようかの」

「ここは何なのかな?」

「昨日も言ったでしょ。ゴミ捨て場。禁書の管理地。この木箱はすべて販売禁止を受けたり、閲覧禁止に指定された本なの」


周囲を見る。漆喰の塀に囲まれた一片20メーキほどの空き地。いや、それは塀ではなく壁である。土地を掘り下げ、漆喰の壁で外周を固めてあるのか。2箇所にハシゴがあって、その上には町並みがわずかに見える。


「本当は立入禁止だけど、白納パイナン区が占拠されたせいで見張りもいなくなったの。地下深くには国の根幹を揺るがす秘密がある……なんて噂もある。もっともここの木箱は大した本じゃないけどね。猥褻な小説とかよ」

「国の根幹を……」


そう呟くのは睡蝶。彼女は木箱の積もった眺めを見て、足元にある長大な地下空間を想って、ふと言葉をこぼす。


「何だか、この穴、妙に空気が澄んでるというか、静かというか……」


あちこちから、ざわめきが聞こえてくる。

目覚め始める紅都ハイフウ。そしてシュテン。



その一日は、混乱の気配から始まった。


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