第十二話
「ユーヤ、雨蘭、二人とも私から離れないで」
睡蝶は足を前後に分け、腕を体の左右に配して構える。重心は低すぎず体重は両足に分散、どの方向にでも素早く動ける構えか。
「外の学生か」
頭上からの声。
虎の毛皮を被った虎煌が降りてくる。布がぐるぐると巻き付いたように見える衣装は足の動きが見えにくい。
「ユーヤ、スキを見て数人倒して脱出するから、そしたら全力で走るネ」
虎煌は数人の学生を引き連れている。全員が黒髪を短く切り詰め、黒い革手袋をしており、学朱服もまた黒である。同じ姿、同じ立ち姿の人物をずらりと背後に並べる。
「虎煌さん、こいつらは三悪の手先かも知れない。私が尋問しますよ」
ユーヤたちと話していた学生が言い、虎煌は小さな動作でうなずく。
「好きにしろ」
「ふん、学生ごときが我らを取り調べる、など」
雨蘭が言いかけて、そしてふと周囲を探る。ユーヤがいなくなった、と感じたからだ。目を離した数秒の間に消えた。
「あ」
その彼は、虎煌の前に立っている。
誰もユーヤの挙動に気付かなかった。睡蝶が全員に気を向けていたこともあるし、留学生ふうの雨蘭は目立つということもある。
しかしそれでも、この衆人環視の中でユーヤの歩みを許したのは異常。人の意識の隙間を突くような、彼に独特の動きのためか。
そしてユーヤは。
拳を。
虎の面に、打ち込む。
ごっ、とやや鈍い音がして、虎煌がくずおれるように尻餅をつく。
「何を考えてる!」
激しい怒声。ユーヤは膝をついて虎の面につかみかかる。
「あんな高さから飛び降りさせて足を折ったらどうする気だ! 責任問題になるだろうが! 安全帯はどうした! ハーネスぐらいつけさせろ! それ以前にあの角ばった台は危険だろうが! 体を打たないように円柱を使うべきだろう!」
それは場のほとんどの人間に意味のわからぬ言葉。息もつかずに叫び続ける。
「だいたいこんな所で練習試合なんかしてる場合か! 分かっているのか自分たちのやっていることが! 少しでも人員を割いて大学の中を見張るべきだろうが! あんたにはこの会を取り仕切る資格もなければ、シュテンを封鎖する実力もないんだ! 世界で初めての規模だぞ! その自覚があるのか!」
そして、ひときわ鮮明な発声で言う。
「虎煌、僕と勝負しろ!」
その言葉に、全員がはっとなる。
あまりにも突飛な、急流から宝石が転がり出たような言葉。唐突で常軌を逸した場面ゆえに、それが逆に何か必然性があるかのような、遮るべきでないような錯覚が流れる。
「クイズで勝負だ! 僕が勝ったなら虎窯の会長の座を明け渡せ! そしてシュテン大学の封鎖を解くんだ! 受けるか!」
言われた人物は、虎の面の奥で表情は見えない。眼球すらほとんど見えない仮面であったが、その体温に、ユーヤの手から伝わるわずかな鼓動に、揺らぎはほぼない。
「虎窯は、外部の者とは戦わない」
それは意志の力だとユーヤには理解できた。この人物は強固な意志を持っており、怒りや動揺を意志の力で抑え込めるのだと。
「それに、我々にそんな勝負を受ける理由がない」
「受けざるを得ないさ、なぜなら」
瞬間。
ユーヤの側頭部を棍が一撃する。
「がっ!」
吹き飛ぶように倒れるユーヤ。瞬間、止まっていた時間が流れ出すような感覚。
自分たちは何をやっていたのか、この男が会長に掴みかかっているのに、まるで芝居を見るような棒立ちを。
それは激昂となって現れる。数人が倒れたユーヤに容赦ない蹴りを浴びせ、さらにどこからか棍が手渡され、きつく打ち据える。
「ユーヤ!」
駆け寄ろうとした睡蝶の前に、数人の男が。
「どくネ!」
体が沈む、膝の脱力によって姿勢を下げ、重力で上半身が落ちてくる力を利用するような踏み込み、そして鳩尾に掌底。
「ぐがっ!?」
すみれ色の残像を残して脇に跳躍。身構えようと腕を上げつつあった男の側面に着地し、横回転から胴部への蹴り。
棍が走る。
裂帛の気合とともに振り下ろされる影、足さばきによって回避し、一手で棍を踏みつけ、二手で相手の腿に足を置き、三手目で三日月を描くようなバク宙。足の甲が相手の顎をとらえ、睡蝶は一回転してつま先から着地。
時間にすれば数秒、3人の男を一気に倒した手応え。
殺気が。
「!」
反射で顔をそらす。耳のそばを棍が抜けていく感覚、一瞬遅れたら顔面が弾け飛んでいた。
「このっ!」
ほとんど予備動作のない高速の右回し蹴り。男は棍を立てて受ける。
呼吸を置かずに手刀、胴突き、回転しつつ鞭のように打ち出される裏拳。
そのすべてが棍によっていなされる。極めて頑丈な滷怩樫の棍。打ち込む睡蝶の側も骨がきしむ。
男はしかし、必要以上に攻めてはこなかった。数度打ち合ったかと思うと流麗に後退する。
そこに、5人の男が。
それは虎煌の側近たち。黒の学朱服を着て、二メーキ近い棍を構えている。それぞれが異なる部分に殺気を向けつつ、脇にいる雨蘭にも油断していない。雨蘭の視点では、おそらく早すぎて何が起きたのかも分からなかっただろう。
(こいつら……相当な訓練を受けてる。何者ネ)
5人は等間隔に広がり、虎煌との間の壁になる。その向こうでは別の学生たちがユーヤを執拗に打ち据えている。
(急がないと、ユーヤ、が)
はっと、視線は動かさぬままに腕でガードを取る。
飛来物である。どこからか小石大のものが投げ込まれた。
それは黒の男たちにも意外なことなのか、一人が周囲を見る。
投げ込まれたのは、己の膝を抱えた姿の水色の妖精。
しかも一体二体ではない。次から次へと。
(水煙精!)
妖精は笑うようなはにかむような、どこか人間とかけ離れた笑みをしつつ、口をすぼめて煙を吐く。
焚き火ほどの煙を出すだけの妖精。だが十数匹となれば、周囲は瞬時に煙の壁となる。黒の男たちにもさすがに動揺が見えた。
「くそっ、まだ仲間がいたか!」
「水煙精を蹴り飛ばせ! どこから投げてきてるか探せ!」
「あ、あの、こっちへ」
腕を引かれる。それは桃色の髪留めをした少女だ。睡蝶より少し若いぐらいか。
「あの、男の方、も助けました、一緒に来てください」
「誰か知らないけど、恩に着るネ」
そして怒鳴り声と、棍で煙を払いのけようとするぶおんという音が、睡蝶の背後で遠ざかっていった。
※
「ずいぶん降りるネ……」
「もう少しだよ、怪我の手当もそこでできる」
「暗いのう、そんなランプの明かりしかないのか? なんか本が散らばってて危ないし……」
「気、を、つけてください。中央の吹き抜けから落ちたら、助かりませんから……」
言葉が幻のように響く。
夢うつつの時間、ゆるゆると意識されてくる激痛。
どのぐらい時間が経ったのか。やがてユーヤは自分が寝かされてることに気づいた。硬い石の床に気休めのように毛布を敷き、そこに寝かされている。床が斜めに感じるのは、そこが階段の上だからだ。
腫れぼったい眼で周囲を見る。本が積み上がっているのが見えた。大判の本で満たされた古い書架。乱雑に積み上げられた画集や図鑑。柔らかい紙の雑誌類。
そして空間は巨大な円筒形。幅10メーキほどの螺旋階段がえんえんと上に伸びている。自分たちはそこを降りてきたのかと、痛みで濁る思考の中で思う。
ユーヤたちをここに案内したのは三人。ユーヤは意識が混濁していたが、それでも体質レベルに染み付いた習性のためか、それぞれが名乗ったことは覚えていた。
「ここは一体何なんじゃ? 我は聞いたこともないぞ」
「聖地、大昔はそう呼ばれたらしいぜ」
陸と名乗った少年が言う。彼はユーヤの服を脱がせ、内出血で青くなった部分に冷たい水ぶきんを当てていた。
「でも実際はただのゴミ捨て場だ。何千年もの間、本が捨てられてきた場所なのさ」
「こんな穴、聞いたことないネ……。しかもこの深さ、紅都ハイフウは海に面した土地ネ、その近くにこんな縦穴があるなんて……」
ユーヤは痛む首を動かして周囲を見る。壁はすべて本棚。階段にも土が積もるように本が置かれている。
中央の吹き抜けには柵すらも無く、風が吹き抜ける獣のうなりのような音が響く。
「ここ、は、禁書の管理地なんです」
若い女性が言う。名は桃と名乗っていたか。
「大昔、に、時の権力者が隠したい本、消したい本をこの穴に投げ入れたんです。本を焼いてはならない、って、神祖帝コウレン様、から続く、教えですから……」
だが、ゼンオウは焼いているという。その記憶がユーヤの意識をよぎる。
「あなたたちは何者ネ?」
「私たちはこの穴に住んでるネズミよ。ただの螺旋階段だけど、ここはもう地下150メーキよ。穴はまだまだ続いてるけど、下に降りすぎるのはタブーになってるの」
三人目は猫と名乗った少女。
球体のようなショートヘアで緑色の髪。睡蝶のように伊達ではない瓶底眼鏡をかけた人物、さばさばとした様子で語る。
「私たちはかつては虎窯のリーダーだったけど、今は追われる身なの。彼らは私たちを目の敵にしてる。私たちの時代の方針をとことん批判して、自分たちの正当性を強調したいようね」
「ということは、おぬしらは……」
雨蘭の目を見て、ショートヘアの少女はうなずく。
「私は「悪問」の猫、あっちの男は「悪癖」の陸、あの大人しそうな子は「悪書」の桃」
縦穴は深く、長く、闇色が濃い。
獣脂ランプの灯芯が、ちりちりと爆ぜる音がした。
「三悪、と言われてたのよ。でも今は……」
「そこの君たち」
ユーヤがふいに発言したので、陸がぎょっとする。
「おいまだ喋るな、口の中を切ってんだぞ。骨は折れてないみたいだけど、かなり殴られてるからな。どこにどんなダメージがあるか」
「君たち、虎窯を抜けたわけじゃないんだろう? 会長職を降りただけだな?」
ごふ、と咳をしながら言う。猫と桃は顔を見合わせ、ゆっくりとうなずく。
「ええ……一応はね。前会長は陸よ」
「じゃあ、あの虎煌と戦えるな。外部の人間と戦わないと言ってたけど、虎窯の人間となら」
「ユーヤよ、一体どうしたのじゃ」
どかり、とその頭の横に座る雨蘭。大仰に扇子を構える。
「さっきから妙じゃぞ。なぜあの虎男と戦おうとする。大体、いくらなんでも今の時期に会長職を賭けた勝負なぞ受けるわけがなかろう。立てこもりの真っ最中じゃぞ」
「そうネ、現実的じゃないネ」
睡蝶も同意する。
ユーヤが常識を超えた行動を取るのは何度も見たが、先程のあれは何というべきか、あまりにも性急すぎていた。
何か駆け引きを持ち出そうとはしていたが、その前に側近に殴られていては意味がない。睡蝶の感覚で言うなら、あれはユーヤの気が場を支配しきれていなかった。だから冷静な行動を許してしまったのだ。
何かしら、急がねばならぬ理由でもあったのだろうか。
「あの虎煌は慎重な男のようネ。戦うのは難しいし、極端な話、こんな立てこもりなんて無視してもいいネ。私たちの目的はそこじゃないネ」
ユーヤは血の混ざった咳をしつつ、睡蝶に意識を向ける。
「抵抗、しなければ」
「抵抗?」
「事態が結末に向けて動いている。恐るべき千里眼と手腕。どれほどの人間を操ればこんなことが可能なのか。これはあの王子にも近しいほどの力だ。まさか、もうあれの使い手はいないはずなのに、なぜこんなことが……」
「ユーヤ、ユーヤ落ち着いて。ゆっくりでいいネ。傷が痛むなら時間を置いても……」
「このシュテン大学は、要塞じゃない」
はた、と、手を伸ばしかけた睡蝶の動きが止まる。
「あの妖精を使った守り、城には無いというのは不自然だ。それに、戦争の備えならあそこまで一瞬で妖精を展開させる必要はない。城塞都市のシンボルである塔と水堀がない。塀の上に見張り台も歩廊もない。銃眼もない。僕の知る城塞都市とはまるで違う」
「……?」
「このシュテンは、いざという時に焼き尽くせるように出来ている。中の人間ごとだ」
「!」
まさか、と睡蝶の首筋がこわばる。他の者はそもそも発言の意味を受け止めきれていない。
「つまり、ゼンオウ氏は本当にシュテンを焼く気だった。そして、それは実行されようとしている。虎窯が火をつけたとでも発表する気だろう」
「まさか……そんな」
「抵抗しなくては……マニーファ、マニーファ、来てるか」
「はいだよお」
「うわ!?」
すたり、と本棚の上から降りてきたピンクリボンのメイドに、三悪が腰を抜かす。
「な、お、お前いつの間に」
陸は動揺するが、睡蝶はもちろん気づいていた。パルパシア側のメイドも実は一人残っている。
マニーファは少し消沈しているようだ。ユーヤが暴行を受けたときに助けられなかったからだろう。あの状況では無理もないが、責任を感じているのだ。
「上級メイド、マニーファ、何なりとご用命をうかがいますよお」
「マニーファ……白納区の外に出て、食料を調達してきてくれ。いくつかの屋台から、五十人分ほど」
「……そんなにですかあ?」
「ああ、こっそりと盗み出してほしいんだ。お金だけ置いてきてくれ」
「はい……?」
上級メイドは極めて優れた人材だが、さすがにユーヤの言ってる意味が分からず困惑する。
「お金は、置いてくるんですかあ?」
「そうだ、誰にも見られぬように、食料を盗み出して、お金は分かりやすい、ところに」
傷が痛むのか、息も絶え絶えに言う。マニーファは分かりましたと言いおいて、足音もひそやかに階段を登っていった。
「抵抗、しなければ、抵抗、を……」
ユーヤはまだ何かを言い続けていたが、その言葉は次第に鮮明さを失い、眼球も濁って焦点を結ばなくなる。
誰にも理解できない言葉が、聞いたことのない単語が散発的に飛び出すだけになって。
彼がようやく気を失ったのは、それから18分後のことだった。