第十一話
それからしばし。
シュテンには人がひしめいている。シュテンがいかに広大な大学とは言っても、敷地内に三万人となればアリのひしめくごとく。ラジオによればすでに2千人ほど人質が解放されたようだが、それでも大通りは人で埋め尽くされ、どの建物にも大勢が集まっている。
「やはり……慣れてない印象だな」
「? ユーヤよ、何か気になるのか」
「人を残しすぎてる。人質なんか千人もいれば十分なのに、二万人以上というのは多すぎる。交渉期限は100時間らしいが、学生だけでそれだけの時間を管理しきれるとは思えない。食糧だって持つはずがない」
しかし慣れていないのは人々も同じである。苛立っている様子はあるが、このまま本当に数日も閉じ込められるとは誰も思っていない。現実感の喪失があり、若者などは非日常に浮き足立つ気配もある。
「祭りの時期じゃぞ。屋台も多いし、食料ぐらい何とでもなるじゃろ」
「……」
そんなはずはない、とユーヤは思うが、門外漢ゆえ口には出さない。
どの店もまだ普通に料理を提供している。値段も変わっていないようだ。こんな状況なら食料の確保に動く者も出そうなものだが。それもないようだ。善良と言うべきか、純朴と言うべきか。
あるいはそれは、世界観の隔たり。
この世界のそのような様子を見ると、ねじ曲がっているのはユーヤの方ではないかと思ってしまう。緊急時に食料を確保しない、売り物の値段を吊り上げない、利己的な行動に走らない人々がそんなに不思議なのか。自分を賢しいとでも思うのか、と。
そして北東へ。
そこもやはり人だかりができていた。覆面をした学生の一団と、大勢の市民が怒鳴りあいになっている。
どうやら義憤に駆られた人々のようで、コイル状に巻かれた鉄条網を挟んで怒鳴りあっている。
「いいからお前らの代表を出せ! こんな勝手が許されるはずがない!」
「うるさい! 我々はラウ=カン伏虎国の名誉のために戦っているのだ! その鉄条網から先に進むことは許さんぞ!」
「お前たちの敵は我々ではない! 旧態依然とした朱角の王である!」
「我々は岩のようなこの国の頑迷さと戦っているのだ!」
学生たちは槍を持っている。ユーヤにも分かるぐらい素人くさい構えだが、それでも市民の威嚇にはなるのだろう。誰も入っていけない。
どうも白納区もまた区切られているようだ。建物がぴたりとくっついて並び、わずかな路地にも板を打ち付けてある。数年前から封鎖されている、という話は本当のようだ。
「これでは入ってゆけぬぞ」
「……ユーヤ、あっちから行くネ」
睡蝶が示す、それは建物の一つだった。二階家でちょっとした研究棟のようなものか。扉は閉まっている。
「封鎖されてるようだが……」
「大丈夫ネ、こっちこっち」
二人の手を引き、睡蝶は群衆から見えない程度に離れる。
そしてぴょんと飛び上がると、するすると壁を上り始める。
「窓から入って、中から扉を開けるネ」
「わかった」
ユーヤが答え、雨蘭のほうは背後に向かって呼ばわる。
「おぬしらはここで待っておれ、心配はいらぬ」
それは背後にいた誰かへの指示のようだった。わずかに抗弁の気配があったが、了解しました、という声だけが返る。
「パルパシア側のメイドさんか」
「うむ、散歩にすらゾロゾロついてきて面倒なことじゃ。外食も気軽にはできぬ」
「そうなのか……なんだか意外だな、自由に過ごしてると思ってたのに」
「王とは窮屈なものよ。これでも苦労しておるのじゃ」
やがてがちゃりと鍵の開く音がして、扉から睡蝶が出てきた。
「奥の窓から白納区に行けるネ、早く入って」
「分かった」
そして建物の中へ。念のため静かに歩く。
「双王も飛び込みの外食とかするんだな。双子都市はレストランも一流店が多いのかな」
「いやレストランとかなら自由なのじゃが、そのへんの民家で食事を取ろうとすると止められるのじゃ。双王が呼ばれてやろうと言うのになぜみんな嫌がるのか」
「一瞬でも同情して損した」
そして窓を乗り越え、封鎖されているという虎窯の支配区域に。
「……ん」
入って数秒。ユーヤの顔が右を向く。
「どしたネ?」
「問題を読むような声がした……」
「え?」
睡蝶はすみれ色の髪をかき上げ、耳を澄ます。
「あ、確かに。よく気づいたネ」
「ほう、まあここにいても仕方ない、行ってみようぞ」
たどり着いたのは何かの野外ステージのような場所。おそらく円形の広場だったものに、5段ほどある階段状の座席を設置したようだ。
奥に見えるのは、二本の柱。
それは高さ4メーキほど。水泳の飛び込み台を伸ばしたような白無垢であり。近くには車輪付きのハシゴが見える。
そして柱の上に、人がいる。
オレンジの襟、学朱服を身につけた男たちである。持ち物といえば黒板、画板のように体の前に斜めに吊っている。
「なんじゃあれは。何かの罰ゲームかの?」
「いや……あれは」
――問題。
声が響く。広場の隅のほうに出題係らしき人物がいる。
――木管楽器の進化を四人の人物によって区切ったリャナンジの栞、その四人とは誰。
二人の学生は黒板に刻み始める。
やがて左側の学生がぱっと正面に提示し、下にいた別のスタッフが丸を描いた旗を上げた。
「右の学生は手が止まってるネ。そんなに難しい問題じゃないけど、ど忘れしたネ?」
「いや、それより、あれ……」
ユーヤは始め、それが人だと分からなかった。あまりにも人間のシルエットから離れていたからだ。
それは柱の後方。回答者たちの背中を眺める位置にいた。巨大な木造の階段が作られており、その上に玉座がある。
そして玉座からゆっくりと降りてくる、その威容。
その背中は黄金の体毛に覆われている。
牙は鋭くひげは長く、四肢にみなぎる獣の殺気。胴体を包むのは黄金を基調として七色を織り込んだ装束。奇妙な儀式に臨むシャーマンのような。自らをより異様なものに変えようとするような姿。
人間をひと吞みにする人食いの虎、そのような錯覚が――。
「虎の毛皮ネ……」
確かにそれは毛皮のようだ。大きく口腔を開いた部分から口が見えるはずだが、布でも巻いているようで暗がりしか見えない。
一頭を丸のまま使った毛皮に加え、両腕もまだらの布で覆われ、下穿きにも飾り布が縫い付けてある。まるで怪物が歩くようで、その人物の本来のシルエットが分からない。
「見事な毛皮じゃな……あれはラウ=カンにも百頭はおらぬと言われる金旗虎ではないか?」
「たいそうな吹き上がりっぷりネ。学生が武将でも気取ってるネ?」
虎を纏った人物は答えられない男の方へ降りていき、背中を杭で突くように、低くかすれた声を飛ばす。
「リャナンジの栞だ、答えろ」
「は、はい、リャナンジの栞はスパシーラ、カウメディル博士、コナ子爵、そ、それと……」
言い淀むこと数秒。
虎を纏った男は、振り向くこともできない男に言い放つ。
「飛び降りて、思い出せ」
「う、そ、そんな」
下までは4メーキ。男は強いためらいを見せたが、周囲から押し寄せる男たちの視線。何より虎の男の気配に圧されるかのように、目元を震わせつつ飛び降りた。
「ぐっ!!」
だん、と足から落ちて倒れ込み、転がるようにもがく。
足が折れるほどではないようだ、ゆるゆると立ち上がって、逃げるように退場した。
「ひどいことするネ、飛び降りさせるなんて」
「おい、あんたら迷い込んだクチかい」
と、声がかかる。雨蘭はわずかに動揺を見せたが、ユーヤはごく自然に振り向いた。
そこにはやはり学生らしき人物。襟元には橙色の当て布が見え、ややくだけた様子で首の後ろをかく。
「もしそうなら大人しくしててくれ、外に出たいならバリケードのとこの同士に言えば出してくれる」
「あなたは?」
「虎窯の一員だ。いちおう区画の外と中は区切られてるが、どこからか迷い込む人も多くてね。白納の外に出てもらうって意見もあったんだが、思いのほか人数が多そうなんで、邪魔にならないなら放っとくことになった」
睡蝶は壇上の虎男を指して言う。
「あの男は何者ネ?」
「まあ立ち話もなんだ、この練習試合は見学が許されてることだし、席につきなよ」
男は前に出て座席に座り、ユーヤたちもその近くに座る。
「心配しなくてもいい。シュテンにいる学生はみな我々の同士になりうる存在だ。留学生へも礼節を欠くなと言われてる」
それは留学生に扮した雨蘭への言葉か。男の目はめまぐるしく動き、三人の顔をそれぞれ見つめようとする。
「話を続けてくれ……あの人物は何者なんだ?」
「あの人は半年ほど前から会長の座についた。素晴らしい人物さ。ゆるみかけてた虎窯をまとめあげて、この反動計画を練り上げた」
半年、という言葉をユーヤは意識する。
舞台では次の出場者が出てきたようだ。車のついたハシゴでそれぞれが壇上に登り、緊張の中で前傾に構える。
「半年ほど……そんな短期間で会長に就くのは、ずいぶん急な気がするな。選挙の票は集まったのか?」
「ん? ああ、虎窯の会長職は試験で選ばれるのさ。七十七書を元にした150問あまりの試問。それを虎煌さんは見事に全問正解された。虎窯がクイズサークルだった頃から見ても初めてのことだ」
「フーコウ……」
睡蝶が呟く。その名前に心当たりがないか記憶を探る気配があった。だが思い至らないようだ。ユーヤは話の先を促す。
「……あの仮面と、装いはいつも?」
「そうだよ。皮膚の病だとかで肌を晒せないらしい。火傷の跡もあるから見られたくないってことだ」
ユーヤは内心で数秒。硬直する。その言い分をサークルの全員が信じたのか。それとも疑うユーヤの方がおかしいのか。
「たとえ試験で満点でも……あの異様な人物がよくサークルをまとめたな。反対する者はいなかったのか?」
「いちおう幹部職が五人いて、三人の反対票があれば辞職させられるがね。会長も幹部職だから、会長以外で三人ってことになるが」
そこはどうでもいいとばかりに、男はやや勢い込んで話を続ける。男は三人と同時に話すような気配があり、背後の雨蘭たちにも強く訴えかけようとしている。問い読みの声が背後に流れる。
――問題、臨空公社の万年筆において、部品点数が六点のものは六香と呼ばれますが、では七点から十二点までの……。
「虎煌さんはすごいよ。だらけきってた会の空気を見事に立て直した。思えば俺たちはたるんでたんだ。なまじ朱角と交渉してるからってそれで満足して、交渉が遅々として進まないことに怒りを持たなかった。クイズもそうだ。古典の宝たる一問多答がおろそかになって、アップダウンだのこの人は誰だの下世話なものばかりになってた」
ラウ=カンでは一問多答が重視されるという。現在も壇上では激闘が展開されていた。みな顔を真っ赤にして脳漿を絞り、がりがりと魂を黒板に刻みつける。
「「三悪」はどうなったんだ」
ユーヤがその言葉を出した瞬間。男の眉根が不機嫌さに歪んだのが見えた。
「三悪だって? どんな噂を聞いてるんだ」
「ユーヤ、周りに」
睡蝶が耳朶に囁きかけるが、ユーヤは鋭く手を動かして制止。
「……聞くところによれば、三悪は誰よりも優れたクイズの達人だった。彼らがシュテン大学を変えてくれる。もっと開かれた大学になり、誰にでも勉学の機会が与えられると」
「はっ!」
男ははっきりと大きな声を出す。周りの空間、階段で見えない場所に呼びかけるかのように。
――問題、「収功具録」における道徳の規範、三家五塔といえば……
「開かれた大学はいいだろう! だが、すべての人間にクイズを与えよ、七十七書を超越せよという三悪の理想はあまりに荒唐無稽! 国を導く完全なる人間。地の底にて黄金の繭に包まれるのはごく少数であるべきなのだ! それは虎煌さんの見解でもある!」
そして周りで人が湧く。黒い覆面をかぶった学生たち。
「お前たち、三悪の信奉者か。すでに幹部でない者を重んじる発言は自治会法に触れる。我々に同行してもらおう」
「ユーヤ、こいつら眼がやばいネ。不用意に動かないで」
言いつつ、睡蝶はそっとユーヤの背に張り付く。ユーヤは座ったまま、また己の思考に沈むかに思える。
(三悪は……前会長職、あるいは幹部だったということか)
ユーヤは静かに思考する。
目の前の男がイカれているのは最初から分かっていた。常に自分たち三人の目を見て。周りの様子を悟られまいとしていたことも。だから人を集めていたことは意外ではない。
ユーヤとしては、この男から話を聞くほうが有用だと感じた、それだけの事だ。
(だが、なぜそこまで攻撃的になる? 評判を聞く限り暴君だったようにも思えない。この男からも、三悪への直接的な悪態は出てこなかった)
――問題、牡蠣を剥くためのナイフ、地方によって刃先にいくつかの……。
(であればこの怒りは、三悪への憎悪は、おそらく人為的な……)