第十話
「おい、これって……」
「大学を占拠だって……? 立てこもり、みたいなことか?」
この世界、この時代において、このような大規模な占拠事件はほとんど例がなく、創作の中ですら見ることは少ない。
しかし、シュテン大学における学生たち、古今の事例にも通じた才気ある人々は、起こりうる事態を察知しつつあった。
――伏せたる虎の国、ラウ=カンにおいて、国家によるクイズの独占は長らくの懸案であった。
――かの妖精王の祭典においても、その他の国際的な式典においても、国家の代表として選出されるのは上級官僚か皇帝に連なる者のみ。
――民間に開かれたるという科典においても同じ。合格を得るためには幼いころから学問にすべてを捧げるを許され、優れた家庭教師を雇える家のみ。そして上位陣の不自然なまでの高得点。試験問題の漏洩は以前より指摘されている。
――我がラウ=カンは知によって支配されている。
――階層は固定されて揺らぐことなく、報道はそれを疑問視することを許されず、貴族は庶民の足掻くさまをあざ笑う。
――我らは世界に冠たるシュテン大学の代表として、再三の交渉を行ってきた。その最大のものはすなわち、妖精王祭儀の出場権をかけた予選会の開催である。
――しかし宮廷との折衝は遅々として進まず……。
「ほほう、これはもしかして立てこもりというやつか。シュテンの内側をすべて人質に取るとは大胆じゃのう」
「大変なことネ……このラジオは全世界に聞かれてる。こんなこと放送されたらラウ=カンは世間から物笑いに……」
睡蝶は冷や汗を浮かべているが、その視線がつと脇を向く。
「……? ユーヤ?」
その彼は、静止している。
パンの乗った角皿を抱えているが、その手にも肩にも必要以上の力が入っていない。蝋人形のように微動だにせず、夜に溶け消えるカゲロウのように気配が薄い。
雨蘭もその様子に気付く。ユーヤが異様な振る舞いをするのはいつものことだが、なぜこんなタイミングなのか。女性二人が顔を見合わせ、そしてラジオは流れ続ける。
いわく、シュテンに七つある大門を閉鎖したこと。
交渉はこれから四日間かけて行われること。しかし塀の内側には全員が十分な食事をとれるほど食料は無いため、交渉を急ぎたいこと。
病人、妊婦、老人、親子が分かれてしまった家族などのみ外に出ることを認めること。
人質に取っている形とは言え、人間への直接的な危害などは示唆されていない。このような大規模なテロリズムは近年に例がないこともあり、仮にユーヤにその放送を批評させるならば、不自然だったり不手際な部分を指摘できただろう。
だが彼は静止したまま、じっと眼の前を見つめている。
「雨蘭、どうするネ。解放条件に該当する人が四春門に向かってる。今ならどさくさに紛れて出られるかも」
「とーんでもない。花は花園にて見よじゃ。こんな面白い催し物、中で見なければ損というものじゃろ。おぬしこそ出たほうが良いのではないか。朱角典の城から事態の指揮を執るべきじゃろ」
「私は出ようと思えば出られるし……」
ユーヤがまだ動かない。すでに放送はループに入っている。おそらく同じ内容が何度も放送されるのだろう。
その異世界人の様子は、いわば静の異様。
単に立ち止まって考え込んでいるのとも違う。脳のあらゆる部分を動員して、忘我の域に至るような思考か。
さすがに何を考えているのか不安になって、その肩に手を伸ばそうとする。
「ユーヤ、考え事ネ? それもいいけど、まず脱出するかの検討、を……」
そこではっと手が止まる。
涙が。
ユーヤのほとんど動かしていない眼から、一すじの涙が伝ったからだ。
「ど、どうしたネ、ユーヤ」
「……いや、目蓋を閉じてなかったから、乾燥しただけだ……」
彼は目元をぬぐう。
睡蝶はさすがにけげんな顔になる。集中によって目蓋が降りなくなる想像がつかなかった。この異世界人ならあり得るのだろうか、と思い、あえて追及はしない。
「睡蝶、いまシュテンには何人ぐらいいるのかな。できるだけ正確な数が知りたい」
「え? ええと……シュテンは学生の数は17000人。大学内にある企業の関係者が1000人、従業員が1500人ほど。今は寮生でない者は帰宅してる時間だし、観光客がかなり多くて……」
「シュテンには病院もあるじゃろ」
「あるネ。あとは屋台を出してた商人とか、出入りの業者とか、シュテンの中に住み着いてる浮浪者もいるから……25000から30000人ぐらいネ」
「三万人……」
ユーヤはまた沈黙する。よく見ればその瞳孔は小さく引き絞られ、震えるように高速で動いている。何かを考えているのは分かるが、この段階で一体何を考えているのかが分からない。それになぜ自分たちに相談せずに考えているのか、と睡蝶は思う。
「……二人とも、逃げられるなら逃げたほうがいい。この大学でこれから何が起こるか分からない」
「ユーヤはどうするネ?」
「当初の目的のほうも調べたいが、虎窯が気になる。もっとそれについて調べてみたい……」
「なら私も残るネ。ユーヤを守らないといけないし」
「もちろん我も残るぞ」
「……」
ユーヤは睡蝶をちらりと見る。異世界人の顔からは感情の色が希薄になっていた。
「わかった……今は大学内が混乱している。ひとまず寮に戻ろう。すぐに追いつくから、二人は先に行っててくれ」
「? わかったネ」
まだ広場の喧騒は続いている。だが恐怖や動揺というより、この事態への好奇心が勝っているように思えた。学生たちにとってそれは議論の対象であり、ある意味で娯楽でもあるのか。
切り取られた世界での現実感の喪失。あるいは仕掛けた虎窯の側も、どれほど大それたことをしているのか想像できていないのか。
「モンティーナ」
ユーヤが呼ぶ。背後に控えていた赤色リボンのメイドは、さすがに緊張を顔に出して歩み寄る。
「はい、控えております」
「確認したいんだが、この学祭……華虎祭とか言ったか、それは確か、妖精王祭儀が終わったころから始まって、一か月ほど続くとか」
「そうです」
「世界中から観光客が来てるよな。催し物もたくさんある」
「ええ、その通りです」
何故そんなことを聞くのか? と思わないはずはないが、上級メイドとして顔には出さない。
「一つだけ……頼みたいことがあるんだ」
そして耳打ちをする。それを指示されたモンティーナは、やはり何も分からないという顔で疑問符を浮かべた。
「あの、それが何か意味があるのでしょうか」
「いいから、頼む。それが僕にとっての命綱になる」
「分かりました。ですが、ユーヤさまの身の回りの世話をせねばなりません。ご安全をお守りする使命も」
「妹さんと交代でやってくれ……僕はなるべく睡蝶たちと一緒に行動する。彼女には申し訳ないが、睡蝶に身の安全を託すしかない」
「……承知しました」
答えは短く、そのメイドはふうと頬杖をつく構えをとる。
「ユーヤ様をラウ=カン仕込みの技で癒やして差し上げたかったのですが、しばらくお預けのようですね、残念ですわあ」
「……よろしく頼むよ」
「はい」
そしてメイドは身を翻し、群衆に消える。
「……」
空を見る。祭りの明かりが夜空を照らしており、星はまばらにしか見えない。そのような燃え上がるような夜空には覚えがあった。かのハイアード獅子王国、七日七晩に及ぶ祭りでもこんな空を見た。
封鎖された現状において、街はわずかに興奮してるようでもある。狂熱のかがり火が空を焦がし、人を沸かし、時代すら動かすうねりを生むのか。
この百年余りで起きたことのないほど大規模な市街封鎖。そこから何が生まれるのか、どんな混乱があるのか。
まだ誰も予想のつかぬまま、人々の囁きだけが繰り返されて――。
※
「おい、本当に出られないのかよ!」
「ふざけんなよ、俺は外に仕事があるんだよ!」
翌日、いくつかの門で押し問答が起きている。
門を封鎖するのは黒い覆面を被った学生たちのようだ。門の上では巻き上げ機の脇に陣取る者もいる。
七箇所の門にそれぞれ30人以上。長剣と槍で武装しており、鉄条網などでバリケードを築いているため、他の学生や市民は近づけない。
覆面の学生たちはほとんど喋らず、ただバリケードを乗り越えようとする人間がいると、角材などで地面を強く叩いて威嚇しているようだ。
「なんだかピリピリしておるのう」
雨蘭が呟く。テラス席にはたくさんの学生が集まっており、飽きるということを知らぬかのように、現状について議論している。
学食や飲食店はまだ遅滞なく動いており、閉じ込められた人々は不安ながらも食事をし、あるいはボードゲームや読書などで時間を潰しているようだ。
一日が空けると、各国のラジオはすでにラウ=カンの異変を報じ始めていた。紅都ハイフウでもかなりの騒ぎになっているようで、シュテンの外側にも市民が詰めかけているらしい。
「兵士の投入はあるのかな」
聞くのはユーヤである。三人で囲んだ丸テーブルにはラジオが置かれており、広播太声では虎窯の主張が繰り返され、他の国のラジオでは緊急体制を敷き始めているようだ。
「まだ無さそうネ。ラウ=カン国営放送は何も言ってないし、他の国のラジオでも動く気配はないと報じてるネ」
この事態にあって例外的な動きをしているのはラウ=カン国営放送であり、この局は日常のプログラムをほぼ崩していない。大国のメンツというものだろうか。
「隣国のシュネスやハイアードはそれなりに詳細な報道ネ、他の国はもう少しかかるかも」
ユーヤは遠くを眺める。塀の前には人だかりができているが、多くは何かを待つかのように空を見つめるだけだ。あるいは事態に立ち会うことを何かの義務と感じ、野次馬のように集まる者も多い。
「兵士は塀を乗り越えられるかな。あるいは破壊するとか」
「乗り越えるのは難しいけど、破壊は可能なはずネ。その気になれば飛行船から落下傘で飛び降りてもいいし」
ユーヤは落下傘の発明がいつ頃だったか思い出す。確か、かのレオナルド・ダ・ヴィンチのスケッチにそれに近いものがあり、最古となると千年以上前になるとも言われる。飛行船が交通手段として根付いてるこの世界なら、当然あるだろう。
だが現状、壁の破壊も飛行船も見られない。
「純紫衝精というのは100時間ほど有効だと言ってたよな」
「そうネ。個体差が少しあるけど100時間を超えたあたりで帰るものが出始める。こういうのを減精率と言って目安があるネ。純紫衝精は120時間で半減。150時間で95%以上が帰るカーブを描くネ」
「なるほど……」
現実的に大学を封鎖できるのは120時間あまり。ユーヤは感覚として長すぎると感じる。今はまだ不慣れもあって従順だが、この封鎖が3日4日と続けば市民が暴発しかねない。
「何だか、聞いていた話と違う……虎窯の主張には、大学をもっと開かれた場所にするというものもあったはず。誰でも大学に行くチャンスが与えられるように変える、と……。それとこの籠城は、あまりにもそぐわない」
「確かにそうネ。数年に渡ってシュテンの白納区を占拠してたけど、ここまで乱暴な計画に出る連中じゃなかったはずネ」
「……やはり、虎窯に接触してみるしか」
ユーヤの呟きに、睡蝶は少し目を輝かす。雨蘭もぐっと身を乗り出した。実のところその言葉を待っていたかのように。
「それしかないネ! さっそく行ってみるネ!」
「ユーヤよ気をつけよ。この女、とにかく手柄を立てたい一心じゃぞ」
そもそもこの大学への潜入捜査からして、睡蝶のスタンドプレーの一部とも言える。彼女はともかく常に事態の中心にいたいのだろう。
「とんでもないネ。純粋な愛国心からネ。こんな世間の恥になるような事件は一刻も早く終わらせるネ」
「……」
ユーヤは立ち上がり、北東の方を見る。
「よし……ともかく近くまで行ってみよう。何か分かるかも知れない」