川の上流へ
―――チュンチュン。
外から光りが入り込み、鳥の鳴く声が聞こえる。
「――アイラさん?」
ミオの声だ。
声の様子は……優しく起こしに来てくれたといった様子ではなく、こんな朝早くからもう怒っているらしい。
まったく……ミオは元気だな。
身体にはひんやりと心地のいい冷たさがある。
見ると、腕の中にはユキちゃんがすっぽりと収まっている。
どうやらユキちゃんと一緒に眠ってしまったらしい。
あの後、妙に身体が火照って暑苦しく、すぐには寝付けなかったはずなのだが……いつの間にか心地のいい眠りに落ちていた。
ユキちゃんは低体温なのだろう。
今回はそれに助けられ、眠ることができたということだ。
……さて、それにしても……どう言い訳をしたもんか……。
「……え、えっと……お、おはようミオさん。今日も可愛いですね?」
とりあえず……煽ててみた。
「ありがとうございます。でも。それはそれとして……どういうことですか?これは?」
お礼は素直に言うミオ。
だがしかし、誤魔化しきれるものではなかったらしい。
「……えっと、これは……いつの間にかこんなことに……?」
「……はぁ……またですか……。」
ミオは深いため息をつき、頭を抱える。
「――ん……んん……。」
ユキちゃんが目を覚ます。
「――おはよう。ユキちゃん。」
俺は声を掛ける。
「…………え?……へ?…………え?……え?……え?――――いやぁぁぁ!!!」
ユキちゃんと出会ってからユキちゃんの発した一番大きな声だった。
食事を頂く。
昨日の夜残ったものを再び火に掛け、そのまま朝食として頂いた。
ミオやベルは俺から距離を置いて座っている。
ユキちゃんも、ネコの後ろに隠れて俺から逃げているように見える。
意外だったのは、ネコやネネちゃん、シキちゃんは全く気にしていない様子だったことだ。
追い出されるかもしれないと思っていたのに意外だ。
そしてもう一人。
昨日は見なかった顔がいる。
狐のような耳と、綺麗な色のフサフサの尻尾を生やしたネコよりも少し背の高い女の子だ。
「えっと……。」
何か言わなければと俺が口を開く。
「……ああ、そうね。そこにいるのは、えっと……。」
何かを察してくれたのかネコが口を開く。
「――うちはヤコ。よろしゅう頼んます。」
「――んなっ!?」
ネコが驚く。
ヤコが何か言ってはいけないことでも言ってしまったのだろうか?
「俺はアイラだ。よろしく。」
昨夜のことは胸の内にしまっておくことにしよう。
「はい、よろしゅうなぁ。」
というか俺たち、自己紹介してなかったな……。
「そっちに座ってるのがミオとベル。こっちにいるのがユン。」
「ミオです。よろしくお願いします。」
「ベルです。」
「ユンでーす!」
「はい、よろしゅう。」
これで自己紹介は済んだ。
「それで、今日なんだけど……俺たちは、川の上流の方に行ってみようと思う。」
「――ちょ!昨日と話が――!」
俺の言葉にネコが驚く。
「……色々調べたら、またここに戻ってきてお世話になろうと思うんだけど……ダメかな……?」
川の上流へは調べ物をするためだけに行くことをそれとなく伝える。
「…………分かったわよ……。約束は……守ってよね……。」
「もちろんだ。ネコたちは、俺が責任をもって守る。」
「――そう……なら、いいわよ……。」
話を終え、すぐにネコたちの家を後にした。
川の上流。
ネコたちの家を出て、まずは川を目指した。
森はそれなりに広いようではあったが、ネコの教えてくれた方向に真っすぐ森を抜けると、川には容易に辿り着けた。
森は川まで続いていたが、一度川まで出てくればあとは簡単だった。
その川に沿って上って行けばいい。
更には、反対側の岸に渡るための大きな橋も目印になった。
それだけ大きな川という意味でもある。
一度氾濫でもしてしまえばこの辺り一帯は洪水になってしまうだろうが、今日は晴れているし、川そのものもそれなりに広く大きい。
洪水の心配はないだろう。
色々なことに恵まれたおかげで、ここまで迷うことはなかった。
川に沿って森を抜けると、開けた場所に辿り着く。
ネコの教えてくれた通り、人間がいるということだろう。
ネコたちには、近い内に何かしらお礼をしたい。
――――ガンッ!ガンッ!――――。
――――キィン!ガキィン!――――。
「――――おおおおおおおおお!!――――。」
多くの音や声が聞こえてくる。
橋の方だ。
橋の反対側、橋を渡りきったところで、人が犇めき合っている。
いや、ぶつかり合い、対峙し合っているとでも言った方がいいかもしれない。
橋の反対側に渡らせないために橋を守っているようにも見える。
そんなことを考えながら辺りを見渡すと、上空に視線を向けた時に視界に何かが映り込む。
「――ユン!!」
その飛来した物体は放物線を描きながらユンの方へ向かっていた。
「――へ?」
――ドサッ。
俺はユンを押し倒し、その飛来した物体からユンを守る。
――トスッ。
地面に突き刺さった先の尖った棒状の何か。
……矢だった。
それ以外に同じものが転がっていないところを見ると、狙って飛んできたわけではないだろう。
流れ弾……この場合は流れ矢とでも言うのだろうか?
「――ユン!大丈夫か!」
「――んもう……!アイラさんってば……こんなところでいきなりなんて……いけませんよぉ……もう……。」
ユンは何やら顔を赤らめ身悶えしている。
このド助平め。
「……アイラさん、これは一体……?」
ミオの声だ。
普段なら怒っていてもおかしくないシチュエーションだが、ミオもこの状況の危険さが分かっているらしく、不安の入り混じった声で聞いてくる。
「……わからない……でもこれは……。」
言い掛けた時だった。
「――お主等!なにをしておる!」
カパカパと人間のものではないと思われる足音が聞こえ、すぐ直後に怒鳴るような声で問われる。
「俺たちは……。」
「――ん?変わった出で立ちをしておるな……お主等、異国のものか?」
相当不審に思われているのだろう。
こちらが喋り出す隙がない。
だが、余計なことを喋る必要がないのは、むしろ好都合でもあった。
「俺はアイラと言います。この三人は……。」
「ミオです。」
「べ、ベルです……。」
「ユンでーす!」
「うむ……儂は泰々と申す。お主等はこんなところで一体何を……?」
馬から降り、名乗る。
「……俺たちも、ここへ来たばかりで何が何やら……。」
「……うむ、そうか……。行く当てがないのなら、儂等の所へ参らぬか?」
「……お、お願いします……。」
急な提案に驚く。
帰ることのできる場所がないわけではないが、分からないことが多いのは確かだ。
ここは付いて行った方がいいだろう。
気が付くと、橋の向こうでの争いは既に終了していた。
泰々さんは逸早く帰って来ていたため、俺たちを見つけたのだろう。
泰々さんは、大きな屋敷に住んでいた。
身分が高そうであったため、てっきり城にでも住んでいるのかと思っていたが、そういうわけではなかったということだろうか。
「あら、旦那様お帰りなさいませ。お怪我はありませんか?」
「うむ、今帰った。」
泰々さんの奥さんだろうか?
綺麗な着物……というよりも、どちらかというと見た目にも気を遣いつつ、動きやすさを重視したような着物を着ている。
「さて、では早速だが。お主等はどこから来た?」
泰々さんは腰を下ろし、早速聞いてくる。
「俺たちは……アースガルドというところから来ました。」
正直に答える。
アトランティスを経由したが、もともとはアースガルドにいたはずだ。
ここがどこなのかは分からないが、嘘は言っていない。
「ああすがるどとな?聞いたことのない地名だのう……。」
「……俺の方からも聞いていいでしょうか?」
「うむ、よかろう。申してみよ。」
「今は、西暦何年なのでしょうか?」
これが最も有力な質問だ。
場所はどこであろうとも、言葉が通じている以上はこの際関係ない。
それよりも、合戦が行われているようなこの時代。
その時代が分かれば、ある程度対策ができると考えたからだ。
「……西暦とな?なんじゃそれは?」
……ん?ああそうか、西暦じゃ分かるわけもないか。
聞き方が悪かった。
「……失礼しました。今の元号と、そして今は何年なのでしょうか?」
「……元号とはなんだ?異国の者はおかしなことを言うな。」
そう言い、ガッハッハと笑って見せる。
これは……想定外だ。
元号が元号という表現ではないのか。
あるいは、そういった時代の概念がない可能性もあるだろう。
そもそもここは、俺が知識として知っているような時代なのか?
確かに、ミオやベル、ユンがいるのであれば日本の感覚で聞くべきではなかったのかもしれない……。
これは参ったな……。
有力だと思われた手掛かりが掴めなくなってしまった……。
「……で、では……ここはどこなのでしょうか?」
妥協点だ。
場所がある程度正確に分かれば、分かることもある。
「こことは……この国のことか……?この国は、分河の国という。」
――なんだそれは!聞いたことのない地名じゃないか!
いや、あるいは俺が知らないだけで、どこかマイナーな地名の国なのか?
でも、近くにあんなに大きな川があるのにマイナーな地名なんて……。
――そうか。
川だ。
「……では、あの川の名前はなんという川なのでしょうか?」
「――おお!あの川か?あの川は、玉川と言う。だが、川の名前なんぞ知ってどうする?」
――玉川!なんとなく聞いたことがあるような気もする名前だ。
あとは、その川が本当に俺の知っているものと同じかどうかということが問題なわけだが……。
「い、いえ……少しでも何か手掛かりになればと思いまして……。ところで、さっきの争いは、なんの争いだったのでしょう?」
「……うむ……。先の戦いはこの国を守るための戦いよ。奴等め、この国を潰そうとしておってな。その護りのために儂等は戦っておったのだ。」
「守るための戦い……。」
思わず口に出ていた。
「なんだ?お主等も協力してくれるのか?」
そう言ったあと、泰々さんはガッハッハと大袈裟に笑う。
「……そうしたい気持ちもあるのですが、俺たちはこの場所についてもう少し知りたいと思っていて……。」
「――よいよい。戦は儂等の仕事。お主等が関わる必要はない。」
泰々さんは笑ったまま、冗談めかして言う。
「……すみません……。」
「だから良いと申しておるに。それより、お主等はこれからどうするのだ?」
「……俺たちは、もう少し手掛かりを探してから川の下流に向かおうと思います。」
正直に答える。
本来なら、川の下流へは戻ると表現するのが正解だ。
だが、ネコたちのことに関しては伏せることにした。
「……うむ……川の下流か……。人里を下るのであれば構わんが、森の中を行くのであれば気を付けるのだぞ?」
妙なことを言う。
俺たちは森の中を通って来たのだが……。
「……なぜでしょうか?」
「うむ……森の中には妖が出ると聞く。昼間であればまだしも、これから下るのであれば注意した方が良い。お主等さえよければ、ここにいてもらっても構わんのだぞ?」
「……ありがとうございます。でも……。」
ネコたちとの約束がある。
それに、お礼もしたい。
「よいよい。お主等がそうすると言うのなら無理強いはせん。必要とあらばまた戻ってくるが良い。」
「――ありがとうございます。」
会話を終え、泰々さんの屋敷の人々に見送られる。
俺は、ネコたちのいる家へと帰ることにする。
泰々さんの言う戦と言うのが少し気になる気もするが、そうであれば尚更ネコたちの安全のためにそれを教えておくべきだと思った。
泰々さんへのお礼もその内したいとは思うが、そもそも泰々さんの味方として戦ってしまっていいかどうかも分からない。
守るための戦い自体は嫌いではないが、その目的が何にあるかというのも大事なことだろう。
最短距離である森の中を通り、ネコたちのいる家へと戻る。
思っていたよりも日が沈むのが早く、帰り道が徐々に暗くなっていく。
ネコの家に着く頃には真っ暗になっているだろう。
そもそも、暗くなっていく森の中を迷わずに帰ることができるのだろうか?
そんなことを考えている時だった。
「――ひゃ!?」
「――ふにゅ!?」
短い悲鳴が聞こえる。
ベルとユンの声だ。
「……ん?どうした?ベル、ユン……?」
そう口にしながらも、辺りには魔物の気配を感じていた。
一体や二体の気配ではない。
かなりたくさんの魔物が隠れている。
「――う……動けません……!」
……動けない……?
「――捕まっちゃったよー!」
目を凝らして見てみると、空間がチラチラと光っている。
これは……。
――糸だ!
ベルとユンは糸に捕らわれてしまったらしい。
なんでこんなものが……。
蜘蛛の巣のようにも見えるが、もしそうなのだとすれば……大き過ぎる。
「……旅のお方……どうか助けては下さりませんか?よよよよ……。」
女の声だ。
声からして美人だ。
「――ど、どうしました?」
俺は、突然現れた助けを求める女性に駆け寄る。
「……私のことを、抱き締めては下さりませんか……?」
そう言いながら、その女は俺に寄り縋ってくる。
触れた女の身体は、ぬちゃりとしていた。
女は、濡れていた。
「――い、一体何を……。」
唐突過ぎる言葉に驚いてしまう。
きっと何かに襲われ、ここまで逃げてくる際に濡れてしまったのだろう。
「……抱き締めて下さいませ……。私を、抱き締めて下さいませ……。」
きっと相当怖い思いをしたのだろう。
とりあえず、その濡れた女の言う通り身体を抱き締めて落ち着かせてやることにする。
「――い、いや!」
ミオの声だ。
「――どうした!?ミオ!?」
俺はミオの方を振り返り、駆け寄る。
いや、駆け寄ろうとした。
だが、体が動かない。
自分の体へ視線を向けると、濡れた女とは別に何かが体に巻き付いている。
「――アイラさん!!」
助けを乞うミオの身体には、白い布が巻き付いていた。
それがミオの動きを封じている。
俺の身体にもあれと同じものが……?
いや、それにしては太いような……。
……ん?
「――なんだ……これ……?」
思わず口に出てしまっていた。
自分の身体に巻き付いているもの。
その先端まで目を向けた時に背筋がゾクリとした。
――人の顔が……付いている。
いや、その顔こそ美人ではあるが、こうも長い首とあれば、それは不気味というものである。
まるでろくろを使い、長く長く伸ばされたような首だ。
「――んあ!や!やぁん!」
今度はベルの悲鳴が聞こえる。
ベルの方へ視線を向けると、ベルは巨大な蜘蛛の糸に磔にされたような格好になっており、その前には子供が立っている。
いや、子供というにはあまりにも不気味すぎる。
その身長こそ子供ほどではあるが、明らかに人間ではないことが後からでも分かる。
なにより、その口から伸びていると思われる舌が、異常に長い。
その舌は、ベルの服の中にまで入り込み、ベルの全身をベロベロと舐め回している。
さらには、ベルの頭上に巨大な蜘蛛まで控えている。
きっとあれが糸の原因なのだろう。
「――ベル!!これは……一体、何が……。」
もしやこれが泰々さんの言っていた妖というやつなのだろうか。
「……私を……私を、温めて下さいませ……。」
俺に寄り縋っている濡れ女は、そう言いながらぬるぬると俺の下半身の防具を剥ぎ取っていく。
「――ちょ、なにを!やめ……!」
言い掛けた時、パクリと咥えられてしまった。
その長く長く伸びた首の方に……。
「――ふぁ……いや、や、やめて下さい……そ、そんなところばかり、舐めないでください……。」
ベルの声からは力がなくなっていく。
「――ベ、ベルちゃん!――んん!ふんぬ!むむぅ……!」
ベルの横で、蜘蛛の糸に捕まっているユンが、抜け出そうと頑張っている。
「――いや!いやです!いや!やめて!」
今度はミオの悲鳴が聞こえる。
ミオは、一反程もある長い木綿の布に体を巻き付けられ、足をM字に開き、座り込んでしまっている。
更には、ミオの前にもこれまた不気味な老人がしゃがみこんでいる。
その不気味な老人は、手に持った大量に小豆の入った風呂桶から、あられもない状態になったミオの身体へと、その小豆を一粒一粒詰めていく。
「な、なんでこんな……!――はうぅ!!」
俺のことを咥えこんだ首の刺激があまりにも強く、思わず変な声が出てしまった。
「――ん……んん!……いやぁ……あ、だ、ダメです。そんなところ!な、何でそんなに汚い所ばかり舐めるんですかぁ……んん!あっ!や、いやぁ……。」
ベルのことを舐めている不気味なそれは、どうやらベルの垢など、本来なら汚いと思われるものを求めているらしい。
「――んあ!あっ!ん……いや……んっ……そ、そんなに詰めては……あっ、あっ、んっ、いやっ……あっ……ん……んんんっ!!」
ミオは詰められたパンパンのそれを噴き出し、ぐったりとしてしまう。
――待て、これは相当まずいんじゃないか?
誰も動けない。
もし、この魔物だか妖だかに俺たちを始末する目的があったのであれば……俺たちは為す術もない……。
「――ま、まずい!!だ、ダメだ!でっ……!んっ!あっ!んあんっ!!」
おっと、変な声が出てしまった……。
「――ちょっとあんたたち!何してんのよ!」
聞いたことのある声だ。
「――お、猫娘さんじゃないですか。こんなところに何の用で?」
ベルの頭上に控えていた巨大な蜘蛛が口を開く。
「あんたたちこそこんなところで何やってんのよ。」
「……私たちはここで人間を見つけてね。それにこの男、私のタイプなの。」
そう言いながら、濡れ女は俺に体を擦り付けてくる。
「――にゃ!?と、とにかく!その人間たちはダメ!私の知り合いなの!」
「……なんだい?横取りする気かい……?」
濡れ女はネコを睨み付ける。
「――そーだ!そーだ!横取り、ダメ、絶対!」
他の連中も濡れ女に乗じてネコに文句を言う。
「――フシャー!!いいから立ち去りなさい!この人間たちはダメなのよ!」
ネコは威嚇するように言う。
「……はぁ……。仕方ないわね。そこまで大切なら大事に隠しておきなさいよ……。」
濡れ女は興覚めといった様子で他の連中にも目配せをし、その連中を引き連れて森の奥へと引き下がって行った。
「――だ、大丈夫!?」
俺たち以外、誰もいなくなったのを確認したネコは、俺の方へと駆け寄ってくる。
「……大、丈夫……。」
嘘だった。
安心からなのか疲れからなのか、意識が遠くなっていく。
「ごめんね。あいつらは――――。」
ネコは何か喋っていたけれど、俺の意識は途切れてしまった。