少しでも自分の足で
おはよう、という声がそこここで交わされている教室にそっと足を踏み入れた。自然と肩をすぼめていて、まるでコソ泥か何かのようである。
別にいじめられているわけでもないのだから堂々と入ればいいのだが、人見知りをすることもあり、まだ慣れない場所では無意味に緊張してしまうのだ。
「あ、流依だ! おはよう! ……って、あれ?」
昨日少しだけ会話した七瀬が、私に気づいて元気に挨拶をしてくれる。そして、すぐに目を丸くした彼女に、ちょっとだけばつが悪い思いを抱きつつも笑って返した。
「お、おはよ、七瀬」
まじまじと見つめられるその原因は、分かっている。度肝を抜かれたような様相も無理もないのだ。
「流依、めっちゃ切ったね!? でも似合う! 可愛い!!」
昨日からの付き合いだけど、彼女は結構リアクションが大きいなあというのは、だんだん分かり始めた。
でも、こういうふうに手放しで褒めてくれるのは、少しこそばゆさはあるけれど、素直に嬉しい。
「そう、かな? ありがとう。ここまで切ったの久々だから……首すーすーする」
そう、私は思いきって、背中辺りまであったロングヘアを、ボブカットまでばっさりと断ち切っていたのだった。長谷川先輩と別れた後、保護者会を終えた母に頼んで、美容室に行って。当の母には、「入学式に合わせて切ればよかったのに」なんて零されたけれど。
七瀬は相槌を打つようににこにこ頷いてから、不思議そうに首を傾げる。
「似合うけど、どうしたの? 結構長かったのに」
「ちょっと、ね……入学式に出てみたら、やっぱり心機一転してみたいなあって思って」
「なるほど! そういう時もあるよね!」
また笑って頷いてくれる七瀬に笑い返しつつ、自分の席に座った。そうした時はいつも少し視界を遮ったはずの長い髪がないのはまだ慣れなくて、自分でも違和感がある。
だけど、思ったのだ。変わってみたい、と。
長谷川先輩に会って、軽音部に誘われて、迷うと同時に心臓が弾むのが分かった。
――あんたの声が欲しい。
――思いっきり歌える場所が欲しいなら、来ればいい。
あんなことを言われたのは初めてだったから。
托也さんのことは、諦めるつもりはまだなかったし、自分の意思でしばらく好きでいようと決めた。藍音はもう、中学の頃のようにいつも傍にいてくれることはないのだし、彼女に甘えずに自分自身で決めなくてはいけない。中学の頃の合唱部みたいに「絶対に部活に入らなくてはならないから何となく」ではなく、自分から興味を持ちかけている部活がある。
そういう、変わりたい、と決めた自分の覚悟を、どこかに刻みたかった。一番手っ取り早かったのが、「髪の毛を切る」という行為だったわけである。
私の髪の毛についてひとしきり褒めそやしてくれた後、机に伸びるようにして七瀬が憂鬱そうなため息をついた。
「今日って、新入生歓迎会はまあいいとしてもー、身体測定とか学力テストとかだよねぇ……大変だ」
確かに、本格的な授業を始めるための前準備とはいえ、テストとか身体測定というのはブルーな気分になりがちだ。
「そうだね。背が伸びるのはもうほとんど期待できないから、体重増えてないかだけが気になるな」
お世辞にも托也さんのように出来がいいとは言いがたい私は、テストについてはもちろん嫌なことが前提なので、敢えて触れない。考えてもますます嫌になるだけだからだ。
「あー分かる。ウチも中学で止まった」
七瀬がけらけらと楽しそうに笑い声を上げてくれるので、私も釣られて笑う。
「そして七瀬はどんどん縮んでいく、と」
すると、そんな声がして、彼女の頭上から影が差した。座っている彼女の上に覆い被さるようにしてくる、誰かがいるからだ。
「うわ、何かいる。自分だってたいして大きくないくせに」
「うっせオレはこれから成長期だほっとけ」
七瀬本人はその『誰か』の行動にあまり驚きはないらしく、あっかんべえをしている。可愛らしい顔を思いっきり歪めて。
私は呆気にとられつつも、声をかけてきた男子を見た。
「あ、ども。七瀬、入学早々ナンパしたん?」
「ナンパって何、ナンパって。フツーに友達になっただけですー!」
テンポよくぽんぽんとやりとりされる会話は面白くて、思わず笑ってしまう。
「あ、流依、コイツうるさくてごめんね! 幼馴染みで腐れ縁の、武内泰介。同じクラスだけど無視でいいから、無視で」
「いや何で、オレにも友達増やさせてくれね? 泰介でいいから、よろしく歌姫さん!」
「ああ昨日の帰りに一緒にご飯食べるって言ってた……って、え、何その歌姫って」
普通に応じかけてから、身に覚えのない呼ばれ方に目が点になった。
「そーそー、七瀬がラーメン食いたいってうるさくてさー。あれ、本人は知らなかったんだ? 中学の時、文化祭の合唱部の発表で、曲の途中のソロのパート歌ってたじゃん? それが上手だからって、皆がひっそり呼んでた渾名」
初耳である。容姿も性格も姫なんてキャラではないため、大変居心地が悪い。正直のところ、やめていただきたい。
「初めて聞いたよ……。井上流依です、よろしく。とりあえずその呼び方はやめて、私も流依でいいよ」
「マジか。まあ嫌なら呼ばない、ごめんごめん。流依ね、よろしく」
七瀬の幼馴染みであるという泰介は、ニカリと明るい笑みを浮かべて応じてくれた。
嫌なことはしない、と言い切ってくれる姿勢に好感が持てる。七瀬との先ほどの遠慮ない言い合いは、幼馴染みという間柄ゆえのものなのだろう。そういう、相手を見てどういう距離感で付き合ったらいいのかを考えられる人は、嫌いじゃない。
屈託のない笑顔と、明るめの髪に留められたカラフルなヘアピンがよく似合っている。
「あ、これ? 起きたらコイツに着けられてて、面白いからそのまま来た。似合う?」
私が見ているのが分かったのか、そのヘアピンを指差した泰介がまた笑った。
「え、普通に似合ってると思うよ? 七瀬が着けたんだ」
「そうそう、似合わなかったら笑ってやろうと思ったのに、似合っちゃうんだもん! 何か腹立つ!」
七瀬の言い様には笑ってから、ふと頭をよぎった記憶に手を叩く。
「もしかして……二人とも吹奏楽部だった?」
私の台詞に二人は顔を見合わせて、当たりと言うように手で円を作ってみせる。
「何か見覚えあると思った……」
「そりゃそうだ、合同演奏とかしてたもん」
泰介がからからと笑うので、納得して頷く。
人の顔や名前を覚えるのはどちらかというと苦手なのだ。吹奏楽部と合唱部はそれなりに関わりがあったので、さすがに覚えていたけれど。昨日、七瀬が話しかけてくれたのも、私の顔を知っていたからなのかもしれない。
「二人ともパーカッションだったよね、確か」
「うん、そうそう! 泰介さ、ドラムやりたいけど、中学の部活だとできるの吹奏楽ぐらいだからって吹奏楽入ったの」
ドラム。確かに吹奏楽部なら、バンド音楽などを演奏する時には叩いていた気がする。コンクールに出るような曲だと、選挙区によってはあまり出番はないような気もするが。
「七瀬だって小学校までピアノ習ってたから弾けるって理由だけで入ったんだろ」
「まあねー! どっこいどっこいか!」
楽しそうに笑い合っている二人を見ていると、仲のよさにこちらまで自然と笑顔になる。
「昨日七瀬は見に行くって言ってたけど……二人とも、部活見学どこに行くか決めた?」
ふと気になって訊いてみる。
「あー、うん、ね」
言いながらちらっと泰介を見上げる七瀬の様子からして、事前に打ち合わせているようだ。
「おう。軽音部覗いてみよっかなーって」
やっぱり、ビンゴ。
「あのね、私も……覗いてみようかなって思ってた」
ドラムがやりたかったという泰介なら、大手を振って演奏することができる軽音部に興味を持ってもおかしくないだろうなと予想ができた。仲のいい七瀬も一緒に見に行くぐらいのことはしそうだ、ということも。
「え、マジで!? 流依も?」
七瀬が顔を輝かせる。
「うん……昨日ちょっと、勧誘されて。見に行くだけでも行ってみようかな、と思ってて……」
「やった! じゃあ、三人で行こ!」
「確かに。何となく初回は緊張するし、皆で行けば怖くないって感じする」
有り難い申し出に、私はぱっと表情を明るくして頷いた。
「ありがとう! ぜひ」
誰より私自身が、一人で行くのは何となく不安だったので助かった。
「オッケー。じゃあ、放課後になったらすぐ行こ」
約束を交わし合い、予鈴が鳴るのに合わせて泰介は自席に戻っていく。
まだ一日が始まったばかりだというのに、もう放課後が待ち遠しくなっている。こんな感覚は、久々だった。
「何となくだけどさ、軽音部、見学多そうじゃね?」
いよいよやってきた放課後。三人で示し合わせて教室を出たところで、泰介がそんなことを言った。
「あーうん……」
「前列の女子、結構騒いでたしね……」
午前中にあった新入生歓迎会の出来事を思い出して、私と七瀬は遠い目になる。
新入生歓迎会では、お決まりの生徒会長の挨拶などの後、部活動紹介があった。うちの学校はそれなりに部活の数も多いようで、ひとつひとつの部活の紹介は短い時間だったが、軽音部は割とインパクトがあった。
三年生だという部長がどんな活動をしているのか軽く説明してくれて、その後実際に演奏してくれたのが、昨日私が会った長谷川先輩だったのだ。
私が整っていると思ったのだから、それはもう、だいたいの人が同じように感じるだろう。後ろの方の人たちは遠くて顔なんて見えなかっただろうけど、前の方にいた子たちはそれなりにざわついていた。
しかも何と、その長谷川先輩が歌ったのだ。よく漫画で見るような悲鳴こそ上がらなかったものの、ざわついていた子たちは釘付けだった。なぜ一部始終が見えたかって、歓迎会の間は出席番号順に並ばされており、私は前の方にいたからである。
教室に帰ってから騒いでいたクラスメイトもいたし、多分、女子の見学者は多い予感がする。
「まあ、それはそれじゃね?」
泰介は特に気にしていないのか、呑気な感じで笑っている。
男子は女子の間の妙なマウント取りなんて知らないだろうから言えるのだ、と私はわずかばかりながら気分が暗くなる。男子は男子で面倒なこともあるのだろうなとは分かっているが。
「あのねぇ、オトコのために必死になる女っているんだよ! そういうの、敵に回すとめちゃくちゃ怖いんだから。少なくともウチはそういうタイプとは関わり合いたくないから、ぜーったい仲良くなれないし」
と、七瀬が私の思っていたことをあっさりと泰介にぶつけてくれていた。言いたいことを言わずに黙ることの多い私からすると、羨ましくなるぐらいの言いっぷりだった。
「へー……女子も大変なんだな」
その発言から、七瀬と私の二人とも暗い顔をしている理由が、泰介にも多少は分かったらしい。同情の目をしている。
「ウチらは純粋に、軽音の活動に興味あるんだけどねー。オトコ漁りするタイプがいたらげんなりしそう」
七瀬がそのまますぱすぱと言い切っていくので、ちょっとハラハラしてしまう。自分も内心では同じようなことを考えているため、好感は持てるものの。私が小心者なだけだろうか。
「流依はボーカルやりたいんでしょ? やっぱ、歌好き?」
「あ、うん。まあ、軽音が駄目でも合唱部とかはあるし、今月は見学と仮入部期間らしいから、今日の雰囲気だけでは決めない……ようにしたいかな」
今日は確かに長谷川先輩目当ての子も多いとは思うが、落ち着いてきたらそれぞれ本当に目当ての部活を見つけてくれるんじゃないかな、なんて。
「確かに、まあ、今日で決めるのは早いよね」
うんうん、と納得してくれる七瀬に笑いつつ、ポケットに入れていた昨日の勧誘ビラをそっと取り出す。
二人にも言えていないが、長谷川先輩目当ての女子たちがいる中では、「長谷川先輩に誘われて見学に来ました」とは言い出しづらい。私が目の覚めるような美女だったなら別だけれど、多少歌が得意なぐらいで、あとは平凡を絵に描いたようなタイプなのだ。目立つ子たちの不興はなるべく買いたくないというのが本音。
今日はあの人の名前は出さないようにしよう。心に決めて、並んで特別教室の方に向かっていく七瀬と泰介の後を追う。
見学期間中の軽音部は、どうやら第二音楽室で活動を行っているらしい。部活動紹介の時に部長さんが言っていたし、ビラにもその旨の記載があった。
「うわ」
「ヤバ……」
「すっげ」
近づいて行くにつれて見えた光景に、私たちは思い思いに呟きつつ真顔になった。
予想通り、女子で溢れている。いや、さすがに溢れているというと語弊はあったが、決して少なくはない数の女子が、第二音楽室に集合している。
「あれ、全部今日のボーカルの先輩目当てかね? すっげ」
唸っている泰介は、感心半分、ドン引き半分、といった様子。
「うーん。多分別の中学だった子もいるけど、ウチの学校で割と華やかだった人たちもいる……っていうかあれ、ひとつのグループじゃん?」
七瀬が肩を叩いてから示すので、女子生徒たちを見る。確かに見覚えのある同じ中学の子たちもいて、華やかさから発言権も大きかったグループの子たちだった。
一緒にいる他の中学出身だろう子たちも、彼女らと親しげに会話できているのなら、ほぼ確実に同タイプの子たちだと思われる。
「うん……そう、みたいだね」
苦笑が漏れる。これは、むしろ今日は見学を諦めた方がいいのではとか、怖じ気づく気持ちが湧いてくるほどだ。
「やめにしてみる……? 今日のところは」
「まああれ、ちゃんと見学できるかも怪しいっつーか」」
二人も同じことを考えていたようで、ぽつぽつと会話している。
「確かに。見学は明日でもできるもんね」
私もそれに同意した、その瞬間だった。
「こっち」
そんな低い声と共に、誰かに腕を掴まれて、後ろに引かれる。
「う、え……!?」
妙な悲鳴が飛び出したが、前方のドア付近ではしゃいでいる声が途切れないことからして、グループの子たちには聞こえなかったようだ。それをいいことに、わけも分からないままそのまま引っ張られる。
「え、流依!?」
「何事、誘拐?」
しかし、七瀬と泰介には当然聞こえているわけで、慌てたように追いかけてくる。
私の腕を掴んでいる手は、どうやら第二音楽室の後方のドアから伸びているらしく、そのまま室内に引っ張り込まれる。
それを追ってきた七瀬、更にそれを追ってきた泰介、と順に中へ足を踏み入れたところで、ぴしゃりとドアは閉められた。
「な、何……って、は、長谷川先輩!?」
一体犯人は誰だと振り返ったら、そこには昨日見た顔があって、ぎょっとする。
「騒ぐなうるさい」
当の本人は悪びれもせず告げつつ、顔を歪めている。
「自分から問答無用で引っ張ってきておいて……?」
困惑して文句を呈すも、この先輩には効果がないようだ。ただ肩を竦めているのみで、不機嫌な表情をしている。昨日顔見知りになっていなかったら、間違いなく回れ右して逃げている迫力だった。
だが今、そこはいい。問題はなぜ唐突にわたしを誘拐――もとい、強制的に室内へ連れ込んだのか、だ。
「どゆこと……?」
「知り合いなんじゃん?」
二人は状況が理解できず、完全に目を白黒させている。
私も事情が分かっていないのだ。長谷川先輩と私に多少なりとも面識があったこと自体を知らないのだから、彼らの混乱は無理もない。
「突然、引っ張られたら、びっくりします……」
やはりというか、美形な分、ただ黙っていても迫力がある。そんな彼に対して何とか勇気を振り絞った言葉は、震えていた。
でも彼の表情は眉ひとつ変化せず、ただ肩を竦めただけだった。何か用があったのでは、と思うも、なかなか触れづらい態度である。
「あー、三人ともごめんね? 今は昌が声とか出そうもんなら捕まっちゃうからさ、女子に」
と、別な声が聞こえてきて、私たちはようやく長谷川先輩以外の存在に気がついたのだった。
陽に透ける髪の毛は、かなり明るい色だ。校則に引っかからないのだろうか。しかも、長谷川先輩の数が可愛らしく思える程度には、多くのピアスが耳を飾っている。
それでも長谷川先輩ほどの威圧感がないのは、その底抜けに明るい笑顔のせいだろうか。
「うるっせーぞ、雄大」
「えっ普通に喋っただけなんですけど!? 喋るなと!?」
そんなやり取りの中、私の腕を掴んでいた長谷川先輩の手がようやく離れ、ほっとする。
「声の質がすでにうるさい」
「えー……理不尽極まりない……」
表情は乏しいものの、いかにも不機嫌そうな雰囲気の長谷川先輩が言い放つ。
その台詞には、部外者の私といえどちょっと苦笑いが飛び出しそうだ。親しげなことから同級生のお友達なのだろうし、こういう親しさもあると知ってはいるけれど。
真顔をしつつも、長谷川先輩の様子にもめげずに、その人は笑いかけてくれた。
「とりあえず、軽音部にようこそ。見学希望、でいいんだよね?」
私はゆっくりと頷いた。傍にいる七瀬と泰介も頷いているのが視界の端に映る。
「よかったー。今日はほら、どう見ても音楽に興味があるって感じじゃない子もいっぱい来ちゃって、昌が不機嫌だったからさぁ……助かったよ、ほんとに」
長谷川先輩の不機嫌の原因は、どうやら廊下で見かけたような女子たちにあったようだ。
「それに、あれでしょ? 昨日川辺で歌ってた、って子」
目をぱちくりさせる。それを知っているのは長谷川先輩だけのはずだったが、お友達にまで話していたのか。ちょっと、いや、だいぶ驚く。
「何、何? 何があったの、流依」
興味津々といった様子で、七瀬は私を覗き込んでくる。
私からは気恥ずかしさもあって説明しづらいので、長谷川先輩が話してくれないだろうか。
そんな淡い期待をしたが、ほぼほぼ予想通り、彼は黙ったままである。少しばかり憎らしい思いで見てから、説明した。
「昨日……歌ってたら、そこにたまたま、長谷川先輩が通りかかって……」
自分から川べりという往来で歌っていたとは言えなかった。誰にも知られていないからできていたことだったから、正直恥ずかしい。
「そうだったんだ!? すごいね!」
そう顔を輝かせた後、七瀬が何か気にかかった顔をしたため、目を瞬かせる。
「七瀬?」
「長谷川先輩、その子が流依だってよく分かりましたね。流依、髪の毛ばっさり切っちゃったから、中学から知ってるウチも最初は別人かと思ったのに」
もしかして切った後に会った? と訊かれたので首を振りつつも、そういえばと思いながら自分の髪の毛に触れた。
長谷川先輩に会った段階では切る前だったから、手がかりになりそうな特徴が消えてしまっていた。それなのによく、目立つような容姿もしていない私が昨日の人物と同一人物だと分かったものだ。顔だって、一度会ったぐらいで記憶してもらえるような顔立ちであるとは思っていないし、何より音楽室の中からでは姿さえろくに見えなかったのではないだろうか。
「……声」
それには端的に返答が返ってくるが、どういう意図かが分からない。再度目を瞬かせていると、長谷川先輩は再び肩を竦めてみせた。
「声は覚えてた。歌を聴いて誘ったんだから、当たり前だろ」
確かに、手を引かれる直前、私は七瀬と泰介と話していた。たった数語話しているのを聞いただけで目当ての人物を捜し当てるなんて、長谷川先輩は相当耳がいいらしい。
「ふんふん……昌がそこまで惚れ込む声ね。俄然気になってきた」
にやりと笑った長谷川先輩のお友達が、手で私を示してみせる。
「よければさ、聴かせてほしいな、歌。あ、俺は瑞木雄大。昌とは小学校から一緒の同い年」
自己紹介と共に吐き出された衝撃的な言葉に、私は固まるほかなかった。
「あ、ウチも聴きたい」
「オレもオレも!!」
そしてクラスメイトたちも、止めてはくれないという事実。
助けを求めるように長谷川先輩の方を見てみるが、彼もまた、待っているような眼差しを向けている。表情が少ないだけに、非常に目が雄弁だった。
私は少しばかり頬が引き攣るのを感じつつも、観念して、鞄を下ろしたのだった。
自分から踏み入れたいと思った一歩だ。逃げずに、向き合ってみようと。