第94話 ジョアン侯爵領へ
まだ乗合馬車に乗ったばかりだとしたら、ジョアン侯爵領からは出ていないはずだ。
王都からジョアン侯爵領ってどれくらいかかるのかな?
というか、ジョアン侯爵領ってどこにあるのっ!?
いつもマルティーノおじさまたちの方から遊びに来ていたので、私はまだジョアン侯爵家に行ったことがない。
プリマヴェーラ辺境伯領から馬車で3日ほどの距離だと聞いたことがあるけど、どっち方面に3日なんだろうか……。
「チェリーナ! こっちだよ!」
先に校庭に着いていたお兄様が手を振って合図を送っている。
「お兄様っ!」
息を切らせて駆け寄ると、お兄様は私の両肩をガシリと掴んだ。
「チェリーナ、僕たちは最速でジョアン侯爵領へ行かなくてはならない。分かるね?」
「えっ、もちろんですッ!」
こんな時になんの確認!?
そんなことより早く行こうよ!
「よし。では、高速トブーンよりも更に早いトブーンを出してもらおうか」
「ええっ! 高速トブーンに風魔法で加速するのが限界だと思いますが……」
これ以上速いのなんか乗りたくないよ!
以前からもっと速いのはないのかと事あるごとに聞かれていたんだけど、安全性を考えたらそこまでスピードを出さない方がいいと思って、のらりくらりと要求を躱していたのだ。
「チェリーナ、緊急事態なんだ。ティーナに万が一のことがあったらどうする? あと数分早く着いていたら助かったなんてことになったら、後悔してもし切れないよ」
私の肩に乗ったお兄様の手にぐぐっと力が加わる。
お、重いよ……。
「ああ、もう、わかりましたっ! でも、安全運転でお願いしますよ? トブーンで死人が出たなんてことになったら、私耐えられませんからね!?」
「わかってるよ。普段は僕専用にして、チェリーナは乗らなければいい話だよ」
そういう問題なのかな!?
製作者としては、製品の安全性も考えずに作りっぱなしになんてしたくないんですけど……。
でも今急がなくてはならないことはどうしようもない。
私は覚悟を決めると、ペンタブに保存しておいたお兄様用の白い高速トブーンの絵に、”30%スピードアップ”と書き加えた。
「これでよしと。ーーポチッとな!」
ドシーン!
目の前に現れたトブーンは、最速トブーンと名付けておく。
最速、トブーンだからね!?
最速は一番早い、これ以上は早くならないっていう意味だよ!?
「見た目は高速トブーンと同じだね」
まあね、急いでるし、字を書き加えただけですから。
「これは最速トブーンという名前です。最速という意味はーーー」
「チェリーナ、おしゃべりしてる暇はないよ。早く乗って」
確かに名前の説明なんか後でも十分だ。
私は頷いて温度調節機能付きの結界のマントを羽織ると、最速トブーンに乗り込んだ。
「さあ、行きましょう!」
「よしっ、落とされないようにしっかりつかまってるんだよ!」
ブババババババーーー!
最速トブーンは20メートル程上昇すると、プリマヴェーラ辺境伯領へ帰る時と同じ方向へものすごいスピードで飛び始めた。
「おにっ、おにーさまっ! ジョアン侯爵領はっ、どどど、どこにあるのかっ、知っているのですかっ?」
あまりのスピードに怖じ気づいて、つい声が震えてしまう。
これってまだ風魔法で加速してないよね!?
「何を言っているのさ。ジョアン侯爵領はうちに帰る時にいつも通っているじゃないか。アルジェント侯爵領の手前がジョアン侯爵領だよ。高速トブーンを風魔法で加速すれば、3時間半から4時間程で着けるけど、この最速トブーンだとどれくらいかかるかな? おそらく、マルティーノ叔父様の方がだいぶ先に着くだろうね」
そうだ、お兄様には詳しい説明をしていないんだった。
「あっ、マルティーノおじさまじゃなくて、ダニエルが向かっています。サリヴァンナ先生のお産が始まったそうで、マーニがダニエルを迎えに寄越せと言いに来たんです」
「そうか……。マルティーノ叔父様が向かってないなら、やっぱり急いだ方がいいね。ダニエルがどの程度の実力なのか分からないし、ティーナを守れるのか心配だよ」
お父様は何人か迎えにやると言っていたけど、盗賊の人数がはるかに上回っているということも考えられる。
うちの騎士たちには結界のマントがあるから殺されてしまうことはないとは思うけど、乗合馬車の方の被害はゼロとはいかないかもしれない。
「チェリーナ、そろそろ風魔法で加速するよ!」
「は、はいっ!」
私はぎゅっと目を瞑って恐ろしさに耐える。
マーニ、私たちが着くまでマルティーナを守って……。
どうか、お願いよ……。
私は祈るような気持ちで、固く両手を組み合わせた。
「あっ、あれは!」
永遠にも思える時間が過ぎ、お兄様は突然何事かに気付いたような声をあげた。
「えっ?」
「チェリーナ、あれじゃないか!? 馬車が襲われている!」
下を向くのが恐ろしくてなるべく見ないようにしていたけど、馬車が襲われていると聞いては見ない訳にはいかない。
「ああっ! きっとあれですよ! すごい人数です! お兄様、急いでくださいっ!」
まだ米粒のようにしか見えないけれど、戦っていることは確実だ。
「わかってる!」
どんどん戦闘地に近づいて行くにつれ、プリマヴェーラ辺境伯領軍所有の印である青いトブーンが数機止まっているのが見えてきた。
「お兄様、トブーンがあります!」
やっぱり間違いない!
あれはマルティーナの乗っている馬車と、うちの騎士たちなんだ!
「もう少しで着く! 何とか持ちこたえてくれっ!」
お兄様が表情を険しくしている。
30人程の男たちが入り乱れて激しく斬り付け合っていて、敵と味方の見分けがつかないけど、目視できるトブーンの数からして盗賊の人数が何倍も上回っているからだろう。
逸る気持ちを抑えながら、ただ見ていることしか出来なかった私たちは、次の瞬間、信じられないものを目の当たりにすることになった。
馬車の扉が開き、中から町娘風の服を着た赤毛の少女が飛び出してきたのだ。
「まさかっ! ティーナ!? なんてことを!」
「馬車に戻れッ! ティーナ!」
私たちは悲鳴のような声をあげたが、激しく戦闘している中で声が届くはずもなく、マルティーナがこちらを振り返ることはなかった。
マルティーナの視線の先を見ると、一人の騎士に何人もの盗賊が群がっている。
もしかすると、あれはダニエルなのかもしれない。
「ぼさっとしてると踏んづけるわよ、どいたどいたー!」
私たちはやっと馬車のすぐ傍にたどり着くと、戦闘中の人間を無視して割り込むようにトブーンを着地させた。
「ティーナ! 騎士たちには結界のマントがあるのよッ! お願いだから馬車に戻って!」
私はトブーンから飛び降りるなり、マルティーナに向かって叫んだ。
聞えているのか聞こえていないのか、マルティーナは私たちに背を向けたまま、前方に手を突き出している。
「ファイアー・ボール!」
マルティーナの声に反応して空中にボッと球状の炎が現れたかと思うと、その炎は盗賊めがけてゴウッと勢いよく飛んでいった。
あれは……、火魔法……!?
でも、マルティーナは魔法を使えないはずじゃ……?
炎の玉は近くにいた盗賊のマントの裾をぶち抜き、地に落ちてもなお燃え続けている。
「あちっ、あちい! クソッ、何なんだよ!」
炎が燃え移ったことに気が付いた盗賊は引きちぎるようにマントを剥ぎ取ると、足で何度も踏み付けて火を消した。
「ひ、火魔法使い……? おい……、あの子ども、赤毛だ……」
「まさか、プリマヴェーラ辺境伯の子どもじゃ……」
「おい、やべえよ。殺されるぞ! 逃げようぜ!」
マルティーナが火魔法を使えることが判明したとたん、盗賊たちはざわつき始め、急速に戦意を失っていった。
「私の父はチェーザレ・プリマヴェーラよ! 分かったら今すぐ立ち去りなさい! さもないと、みんなまとめて丸焼きにするわよ!」
……ん!?




