第112話 心の中の自分
あの後、どうやって自分の部屋に戻ったのか、よく覚えていない。
私の頭の中では、クリス様の言った言葉が繰り返し再生されていた。
『手を放すときなのかもしれないな……』
そうつぶやいたクリス様の寂しげな横顔が頭から離れなかった。
「99回……」
私はクリス様に99回も婚約破棄と言ったんだ……。
いま、本当に婚約を破棄されるかもしれないと思っただけで、心臓を冷たい手でぎゅっと掴まれたみたいな気持ちになる。
クリス様も、こんな気持ちになっていたんだろうか。
自分では気付かないうちに、クリス様のことをこんな風に傷つけていたのかな……。
「うっ……、ううっ……、ううーーーっ」
こらえきれない涙が、じわりと滲んでくる。
クリス様は、もう私のことなんて嫌いになったかもしれない。
私が悪いのは分かっているけど、謝って許してもらえるのかな。
もしかして、もう顔も見たくないって言われるかも……。
悪い考えばかりが次々に頭に浮かんできてしまう。
私はそれを追い払うように頭を振って、ポケットから通信機を取り出すと、涙声でお母様に呼びかけた。
「お母様! お母様っ! おかあさまーーーっ!」
『ーーチェリーナ? どうかしたの?』
「おかあさまっ! ううっ、うわーん!」
クリス様とのことを聞いてもらいたいのに、涙がどんどん溢れて来て言葉にならない。
『チェリーナ、泣いているの? 何かあったのね?』
お母様は心配そうに尋ねた。
通信機の向こうから聞こえるお母様の優しい声に、少しだけ心が落ち着いてくる。
「私がっ、クリス様に、婚約破棄って言ったらっ……ぐすっ……。クリス様が、しばらく距離を置こうって……! 私が婚約破棄って言うの、数えててっ……100回言ったら、本気にするって決めてたって……っ! ううーーーっ!」
たどたどしく説明するうちにまた感情が高ぶって来た。
『まあ、100回も……? それはチェリーナが悪いわね。軽々しく婚約破棄だなんて口にすべきじゃないわ』
「クリス様は、ラヴィエータのことが……、す、好きなんじゃないかと思って……っ!」
前世からの刷り込みのせいなのか、どうしてもあの2人がカップルになる姿が頭から離れないのだ。
『チェリーナ、やきもちを焼いたのね。自分よりも他の女の子の方が似合うんじゃないかと思い込んで、落ち込んだり嫉妬したりしてしまうことは、若い時には誰にでもあることなのよ。お母様だってそうだったわ。お父様には、お母様よりももっと美しくて魔力の強い人がふさわしいんじゃないかと思い悩んだものよ。……でもね。だからといって、相手の気持ちを試すようなことばかりしていたのでは、相手は疲れてしまうわ』
「た、ためす……?」
『試していたのではなくて? クリスティアーノ殿下のお気持ちを。ラヴィエータという女の子よりも、チェリーナの方が好きだと、結婚したいのはチェリーナだと、そう言ってほしかったのでしょう?』
お母様に言われた言葉に、私はハッとした。
そうか……、何度も婚約破棄を持ち出してしまったのは、確かめたかったからなんだ。
私はクリス様が心変わりするのが怖くて、いつも先手を打つつもりで自分から婚約破棄を言い出していた。
そのくせ、心の中ではクリス様が嫌だと言ってくれるのを期待していたんだ……。
「だってっ……、私よりかわいい子はたくさんいてっ! 私よりクリス様の方が美人だし……っ!」
結局のところ、私は自分の容姿に自信がなかったのだ。
幼い頃から美しさを褒められるのはいつもお兄様で、元気さを褒められるのが私だった。
そんな私が、ヒロインである美少女のラヴィエータを差し置いて、クリス様の隣に並ぶことに憶病になっていた。
『ふふっ、お馬鹿さんね。クリスティアーノ殿下は確かに麗しい方だけれど、男の人なのよ? きっとクリスティアーノ殿下は”私より美人”だなんて言われても喜ばないし、見た目で婚約者を選ぶような方じゃないわ。忘れたの? あなたと婚約した時、あなたの顔がどんな風だったのか』
「あっ!」
そうだった。
あの時は、病気の痕があちこちにあって、自分でも悲鳴をあげるくらい酷い顔だったんだ。
『それに、あなたはとても美しくなったわ。どこに出しても恥ずかしくない自慢の娘よ。ーー親の欲目かも知れないけれどね』
「お母様……」
『……ちょっと俺にも貸してみろ! チェリーナ、お前は誰よりも可愛いぞ! 100人いたら100人が間違いなくそう言うだろう! ーーこれは欲目じゃなく客観的な事実だからな』
お母様から通信機を奪ったらしいお父様が乱入して、親バカ丸出しの発言をする。
「プッ! お父様、ありがとうございます」
『早くクリスティアーノ殿下に謝って許してもらいなさい。こういうことは、時間が経つとますます拗れてしまうわよ。今頃クリスティアーノ殿下の方も、距離を置くなんて言わなければよかったと後悔していらっしゃるんじゃないかしら』
……そうかな?
そう言われたらそんな気がしてきた。
よしっ、気分が上向いたこの勢いのまま謝りに行こう!
「わかりました! お母様、お父様、ありがとうございます! 私、クリス様にきちんと謝ります」
『それがいいわ。それじゃあ、何かあったらいつでも連絡するのよ』
「はい! また連絡します!」
両親と話して気持ちが晴れた私は、通話終了ボタンを押すと謝罪の言葉に考えを巡らせた。
「まずは、ごめんなさいだよね……。それから……」
クリス様は顔で私を選んだわけじゃないのに、見た目の釣り合いを気にしていたなんて馬鹿だったのかもしれない。
ーーいや、まてよ……。
顔で選んではいないけど、私に病気を移した責任を取るつもりで婚約を言い出したんじゃなかったっけ……?
「私のことなんてもともと好きじゃないのかも……」
やっぱり、謝っても無駄かもしれない。
上向いた気持ちがまたもや急下降した私は、倒れ込むようにぽすんとベッドに寝転んだ。
コンコン。
ベッドの上で悶々としていると、控えめなノックの音が聞こえて来た。
誰だろう……?
いま人と話をする気分じゃないのにな。
「はい……」
重い体を引きずって薄く扉を開けると、そこには、心なしかいつもより冷たい雰囲気のクリス様が立っていた。
今日は勝手に入ってこないんだ……。
これが距離を取るということなのかな。
「クリス様……」
「なぜ食堂にこない。みんな心配していたぞ」
食堂……?
あ、夕食の時間……。
「もうそんな時間でしたか」
「早く行かないと閉まってしまうぞ」
魔法学院の夕食は6時から8時までの好きな時間に行けばいいんだけど、ほとんどの生徒は6時ぴったりに食堂に集まって食事を取る。
みんな成長期だからお腹が空くし、出来立てのほうがおいしいからね。
でも、いまはとても食事が喉を通るような気分じゃないよ……。
「今日は、いいです……。おなかは空いていませんから」
「……目が赤い。泣いていたのか?」
クリス様はそう言うと、ふいに私の目元へ片手を伸ばしてきた。
指先で優しく撫でられたせいで、一度は止まった涙がまた溢れてきてしまう。
「うっ……、ううーーーっ!」
「なんだよ」
「クリス様っ、私、わたし……っ!」
謝りたい気持ちはあるのに、なんて言ったらいいのか言葉が見つからなかった。
クリス様はそんな私の肩をそっと押して部屋の中に入ると、後ろ手にパタンと扉を閉めた。
そして、私をぎゅっと抱きしめると、落ち着かせるようにぽんぽんと背中をたたいてくれた。
「……本当は、婚約破棄したくないんだな? だから泣いているんだろう?」