fiction 38
お互いの体から発せられる熱を肌に感じることができる、そんな距離に近づいている。背中に感じている壁の冷たさと、胸に感じる少女の熱量。麻薬のような怪しく惹きつけられるイベリスのような甘い香り。
「ああ、憶えているさ」
少女は、筋肉質だが硬すぎるわけでもない肩に顎を乗せている。そのためアストから少女の顔を窺うことはできない。それ故なのかは分からないが、急に少女の両肩をつかみ、顔の前に移動させるアスト。
急なことに少し驚いている様子の少女。その頬は薄暗い部屋でも視認できるほどには朱色に染まっている。
「お前が、レーネが――」
アストにしては珍しい非常に真面目な顔つきだ。鬼気迫るまでの迫力を持っている。言葉と意思を漏らさず伝えんばかりに少女の肩を離さない。掴んでいる手の周りの布には皺ができている。
その一室は世界から隔離されているのではないか、そう思わせるほど喧騒というものを感じることができない。そのため息一つでも部屋に音が広まる。生唾を飲み込む音もこの部屋ではしかりと聞き取ることが可能だ。
「――ギャンブルの勝ち分を全てパクって持ち逃げしたことは憶えているからな!」
「……え?」
先ほどまでの、何かを期待するようなとろけた深紅の瞳は一転して、今では理解が追い付いていない、そんな表情だ。
「忘れたとは言わせないぞ! カジノではよくも騙してくれたな!」
レーネというらしい少女の肩を意地でも離さんといわんばかりの腕力をもって、ガッチリと捕まえている。
「あ……さ、さあ? 何の話かしら?」
何かを思い出したようで、急にオドオドし始めるレーネ。先ほどとは違い、目を右往左往させていることがまず怪しい。
「師匠に言われてやってたカジノでの修行だよ。人の思考を読み取れとか言われてな。その修行にレーネもついてきただろ。おもちゃのコインかと思ってたらお前に勝ち分全部パクられたけどな」
「あ、ああ。そんなこともあったわね。でもそれって5年ぐらい前の話でしょ? 今さらそんな瑣事を一々気にしているようじゃモテないわよ?」
「さ、瑣事だと! あの金があれば俺は借金せずに済んだんだぞ! …それにモテる必要なんてない」
「はあ、まだそんなこと言ってるの?」
するりとアストの手から抜け出すレーネ。明らかに動きが素人のそれではない。手を背中で組みながら、呆れた顔を振り向かせるレーネ。
「当たり前だ。父さんが結婚なんかしなければ、母さんもフィーネも殺されずに済んだんだ!」
「でも二人が出会わなかったらアナタは産まれてないわよ。それにかわいい妹のフィーネちゃんもね」
「そ、それはそうだが…」
威勢はどこかへ消え去り、俯いてしまう。反論する余地もない正論だからだ。
「それに、私が憶えて欲しかったことはお金じゃなくて、あの時の約束よ」
立場が逆転したかと思えば、又もや顔を近づけてくる。急に視界を埋め尽くすレーネの顔に驚き、急いで目を背ける。動くと共に群青色の髪の毛もユラユラと空気を漂い、匂いがアストの周りを包み込む。
「あ、あの時?」
「いったでしょ? 『俺と同じぐらい強くなったら考えてやる』って。ふふっ」
アストの声を真似ているのか、演劇のセリフのように口調を変えている。
「あ、あの頃はまだ若かったっていうか、その、なんだ…」
自分が言った言葉が恥ずかしいのか、語尾がどんどん小さく、かすれていく。
「私、強いわよ。もうすぐヘルネさんだって倒しちゃうんだから」
「それは無理だろ。師匠からすればドラゴンだってただのトカゲどころかミジンコに成り下がるぞ」
「そんなに師匠が好きなの? いつもいつも師匠師匠って! ぶつぶつ文句言う割には言うこといつも聞いてるし!」
「ば、バカ野郎! ババアだぞ! あのくそババア何年生きてると思ってんだ!」
「とか言いながらいっつもひっつき虫だったじゃない! や、やっぱりデカいほうがいいんでしょ!」
「ん? なんだよデカいって」
「そ、それは…――もう! 貧乳で悪かったわね!」
もの凄い勢いで平手打ちを食らわせながら、自動ドアの仕事を奪って出ていくレーネ。
「痛て! …ったくなんだったんだよ一体」
血行のよさがよく分かる、赤い紅葉模様がアストの頬に浮かび上がる。ドアがひん曲がりながらも健気に閉まろうとガタガタ動いている様子を、頬をさすりながら一人で見つめるアスト。
「…それにしても随分と口調が変わったなあ。昔はガキっぽかったのに」
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「あ、アストさ~ん!」
ベルトハルツ名誉学園の控室にリタの快活な声が響き渡る。
レーネに平手打ちをされた後、そのまま倉庫の様な誰もいない部屋に居座るわけにもいかないため、控室に移動したのだ。
「お? なんだ、みんな集合してたのか」
本来なら対抗戦参加生徒以外の人物は立ち入り禁止の場所ではあるが、そんなことをアストが知っているわけもなく、また気にするわけもなかった。
「御機嫌よう、アストさん。開会式に間に合ったようで本当によかったです」
「え、なんで知ってんだ?」
純粋に驚く様子を見せるアスト。今朝の出来事が全てVIPルームから覗かれていたなんて思いもしていない。
「こちとら警備員と絡んでたとこも見ていてねえ。さて、アスト君。早く白状をしたまえ」
すると、獲物を見つけた肉食動物のように睨みつきながら話しかけてくるレスト。話し方も何故か探偵みたくなっており、生えてもいない幻のあごひげを触る動きをしている。
「あん? 一体何のことだ?」
「お前とレーネさんとの関わりだよ! それにさっきもどこふらついてたんだ?」
「なんだ、見えてたのか。レーネとの関係って言われてもなあ。俺が一番わかんねえ」
「よ、呼び捨て…だと」
一人が撃沈し、戦線離脱する。戦争では威勢がいい奴ほど早死にするものだ。…ここは戦場ではないが。
「ま、強いて言うなら、幼馴染ってとこか?」
レストが爆砕したことには気にもせず、頭をかきながら何とか答えらしきものを捻りだす。だが、その回答はアスト本人が思っているよりも遥かに騒乱を引き起こすだけの威力を保持している爆弾でもあった。
「「お、幼馴染!!」」
いつの間にか復活したレストとリタが同じタイミングで同じ反応をする。
しかし何も驚いているのはこの二人だけではない。いつも大人しいエリスやフィネスは勿論、聞き耳を立てていた対抗戦参加者までもが驚愕の表情を表している。
「そ、それは本当なのか?」
いつもの冷静沈着とした様子が一かけらも見受けられないケイネスの質問。しかしその質問はこの部屋にいる全ての者の心の声であり、今まで話し声などで騒がしかった控室が一気に静かになる。
「な、なんだ? みんなどうしたんだ」
流石に周りの様子がおかしいことに気が付いたアスト。しかし今後悔しても、もう後の祭りである。
「ほんとう、なのか?」
ケイネスの緊迫した顔つきに、冗談を言おうとしていたものの飲み込んでしまう。
「え、ああ。レーネは幼馴染、だと思う…けど」
「こ、これは大変なことになったぞ…」
どこからともなく嘆く声が聞こえる。
「な、なんかいけなかったのか?」
「敵の主力と繋がりがあったとなると、八百長を疑われてもおかしくない。特に武術部門の裏にはかなりの金が流れてるからな」
ケイネスの真面目な顔を見ればその言葉が事実であることは明確だ。それに裏に流れているお金については、心当たりがある。
(そういえばエルツィン先生も賭けてたな…)
「だ、だけど幼馴染がいるってだけでそんな大騒ぎになんかならねえだろ」
これは、アストの考えはもっともである。
学術惑星であるこのアルスウィッシェンにある学園には、広大な宇宙から様々な学生が集まってくる。そのため基本的に幼馴染がいることの方が珍しい。とは言え、幼馴染がいるだけで問題になるとも思えない。確かに普通ならば大した問題にはならないだろう。
しかし今回、問題になった生徒はアストである。アストが対抗戦のメンバーに選ばれたのはごく最近だ。身辺調査など、詳しいものまでは行われていない。そのため、疑惑を完全に払拭することができないのだ。
さらに運が悪いことに、相手はレーネ=ハイネスであった。
「レーネだといけないのか?」
「レーネ=ハイネスも新入生だ。そもそもアルトハルツ第二学園はレーネ=ハイネスを入れて三人が新入生だ」
これは疑われないほうがおかしいというものだ。
「はあ、レストもリタもそこまで考えて驚いてたのか」
ケイネスの解説を聞き、ようやく事の次第を理解したアスト。声を上げて一番驚いていたと思われるレストとリタの方に向く。
「あ、ああ。もちろんだ。なあ? リタ」
「ひゃ、ひゃい。その通りでございます!」
単純に幼馴染であることに驚いていただけだろう。
「いや~、アストっちは何か問題起こさないと気が済まないのかナ?」
頭の後ろに腕を組みながらアストに近づいてくるミシュー。その傍にはルミとパルメもいる。
「いや、先輩にだけは言われたくありませんよ。昨日だって最初の原因はミシュー先輩だったそうじゃないですか」
ジト目を向けた先には、「にゃはは」と全く反省の色を見せないミシュー先輩の姿がある。
そこに、ドアが開く音がする。学園の代表としてインタビューを受けていたルーシェ達が帰って来たのだ。
すかさずその場の雰囲気をおかしく思ったのか、怪訝な表情を浮かべながら近づいてくるルーシェ。
「なんだ、どうかしたのか?」
「あ、ルーシェ! おかえり! なんかね、アストっちがかくかくしかじかなんだって!」
「ふむ、フィネスさん。どういう経緯か教えてもらってもいいかな」
「はい。実は――」
完全にスルーである。ミシューと付き合うのならば、この程度のスルー技術は必須技能だ。
要点をかいつまみ、非常にわかりやすく説明をするフィネス。
「――という事です」
何やら案じている様子のルーシェ。しかしすぐに顔を前に向ける。
「…ふむ、問題はない。ここにいる者が口を開かなければな」
突如、極寒の吹雪に襲われたかのような悪寒が部屋にいる全員を襲う。
「さて、何の話だったかな?」
「「「なんでもありません」」」
(こ、これがエルツィンと肩をならべる腹黒の力か!)
その場にいる者が、軍隊のように威勢の良い返事をする。
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「…アストのばか」
何者をも惹きつける深紅の瞳は、今や覇気の感じられない弱弱しいものとなっていた。まあこれはこれで男性の心を引き抜きそうな威力があるが。
「どうしたのじゃ。レーネらしくないのう。どれ、余に相談してみなさい」
落ち込んでいる様子のレーネに近づく一人の少女。どちらかというと、幼女寄りの少女だ。しかし様々な人種が混ざり合う現代社会において、見た目で判断する行為は最も忌避されている。
とはいえ、レーネの頭一つは確実に小さい体は、初等教育の最中であると考えたほうが自然だ。
「僭越ながら、一人にしてあげたほうがよろしいかと」
するともう一人も現れる。今回はレーネと同い年ぐらいの男子だ。体つきはやや細身だが、額につけられている大きな切り傷からして、普通の一般人であるとは思えない。
そもそも医学が発達したこの世界で、傷が残るというのはほぼあり得ない話なのだ。だというのに大きな切り傷が残っているということは、何らかの意思が働き、治療をしなかったことに外ならない。
「なんだハゲ。余が慰めてやろうとしておるのだぞ」
「だからその行為がよろしくない、って剥げてません! 今時ハゲなんて都市伝説です!」
「もう! 騒がしいって言ってるでしょ!」
「…初めて言われたのじゃ」
「陛下、そういう問題ではないかと」
「とにかくどっかいって!」
アストを会場に入れた時のような、凛々しさは欠片も残っていない。ギャーギャー騒ぐ二人組を外にほっぽる。
「…待ってなさいよ。アストは私のものなんだから」
上にはどこまでも広がる、渺茫とした蒼天。下には学生たちに埋め尽くされている大学、さらにその先に続く活気ある街並み。
少女の心とは正反対の景色を目によく焼き付けてから立ち上がる。その瞳に繊弱の色は見受けられない、戦士の目つきをしていた。




