fiction 34
魔力の風が吹き荒れる中、この辺りの主と思わしき純白な毛並みと相手に威圧感を与える程の巨躯をもつ虎種の魔獣、さらには非常に小柄な身体に大きなローブを纏っており、完全に服に着られているルミとの殺し合いが始まる、
「――術式 分界(ジ=アブソリュート=リッパー)」
が、あっけなく終結を迎えることになるだろう。
ルミに向けて最後の跳躍をしている魔獣、その大きさは普通の虎の2,3倍はありそうだ。さらに身から迸る魔素の密度からもその魔獣が、この一帯では桁違いの存在だと嫌というほど教えてくれる。そのような魔獣に嚙みつかれようものなら――まあ普通の虎でも――イチコロだろう。
それに対するルミは現在進行形で超巨大な魔方陣を展開している。多人数合成魔法クラスとアストが評していたように、その大きさは個人で行使できる規模ではない。
どのような魔法かは知らないが、そんな規格外の大きさの魔方陣である術式が作動すれば目も当てられないようなことになるのは容易に想像できる。
つまりどちらが先に攻撃を当てるか、という極単純なお話なのだ。
しかしその攻防を制したのはルミらしい。聞いたこともない魔法名を発したことから、魔法の行使に移ったことが分かる。
合成魔法とは、空間支配権を共有に設定することにより二人以上で魔法を行使する技である。二人以上で魔法を実行するため、その分魔素の消費を抑えることができる。そしてその分上乗せすることも可能だ。
しかし合成する際のメリットは何も魔素の分担だけではない。それは、より複雑な魔導関数の構築という、魔法界の未知領域に踏み出せる可能性があるということだ。
そのため大人数で合成魔法を行えば、個人では再現の仕様がない規模、難易度の魔法を生み出すことができる。
ルミはその規格外な魔法クラスである大きさの魔方陣を展開していたのだ。そのためどんな魔法が作動するのか、そして二次災害がどれ程出るのか分かったものではない。故に直ちに緊急体制を整えるアスト。自己防御術式は最大限まで防御力を引き上げている。さらにルーシェの時も使用した《外気殻》も併用し、最大級の体制を整える。だというのに
(まだ優雅に肉食ってやがる! パルメ先輩も銃のメンテなんかしてる場合じゃ!)
今、途轍もない戦いが起ころうとしているにも拘らず、全く動く気のない3人。ミシューはアタッカーではないとはいえ、こちらも肉に齧り付いている。
ルーシェ達があそこまで優雅に過ごしているのであれば、恐らくルミの勝率はほぼ100%なのだろうと勝手に見当をつけ、ミシューの護衛を熟慮断行する。最悪、ルミの魔法の嵐が吹き荒れてもあの2人ならどうにかなると踏んだからだ。
しかしミシューは違う。感知系の能力者であり、直接戦闘はしないのだ。そんな人間が合成魔法クラスの余波を防げるとは到底思えない。
そのため、食事中のミシューをそのまま片手で抱え上げ、ルミの後ろに下がる。別にルミを壁にしようとしているわけではない。術者がルミならば、その方向に自分の魔術が飛んでくる可能性は低いという勘考の末の行動だ。
こういう緊急時だけは無駄に悟性を用いて行動するアストである。いや、こういう緊急時が日常茶飯事であったアストにとって、学生生活は極めて退屈であったのだろう。無駄に頭を働かせるまでもなかったのかもしれない。勉強ができないのとは別問題だが。
そして、そこまでして警戒したルミの魔法であったが、珍しくアストの悪い予感が外れることとなる。
(な、なに! ちっちゃい球が出てきただけかよ!)
ルミと魔獣の間の空間に生まれた小さい球体。別に灼熱の炎を纏っているとか、絶対零度の氷塊というわけではない。ただ、ただ異常なほど黒いだけの球体。まるでテレビの画面の一部に映像が映し出されていないように、ただ黒い。そのため一目に立体物であると、球体であると視認することは不可能だ。
しかし異常に空間支配力――空間をどれだけ把握し得るか――が高いアストには、その球体が球体であると感じ取ることができていた。
相手の虎は既に跳躍中であり、進路変更は不可能そうだ。そもそも進路変更する気もないらしい。その小さい球体は虎の頭ほどもなく、そのまま食ってやらんとばかりに大きく口を開けて飲み込みながらルミへ肉薄する。やはりあの小さな球体程度では巨虎の猛攻を止めることはできなかった…はずだったのだが、
(ずれただと!)
何故かいきなり虎の進行方向が空中で不自然に曲がり、ルミのすぐ横の咫尺の間を通りすぎていく。とはいえ進路が変更されただけである。すぐさま猛攻に転じる、と思われたが着地に失敗したようで木々を揺らすほどの轟音を出しながら地面に突っ込んでいく巨虎。
(……おかしいな……なぜ起き上がらない。確かに痛そうだったが、そんなんで死ぬタマでも…っ!)
持前の空間支配力で事の次第を認識したアスト。しかしそんなものが無くとも簡単に確認できる。
「あ、穴があいている…」
そう、飛び込んできていた魔獣の口から頸椎を通りすぎるラインが綺麗に無くなっていた。あの黒い球体の太さのラインが。
――まるで球体が通り過ぎたように
いや、“まるで”ではないのだろう。実際に球体が通り過ぎたのだ。正確に言えば魔獣が通り過ぎたと言ったほうがいいだろう。
勿論、頸椎が途切れた魔獣に息があるわけもなく、そのまま不格好なぬいぐるみのように倒れ伏したままだ。しかし死闘の面影として、地面にはその魔獣の血でできた池が着々と広がっている。
「わわ! ビックリした~。いきなりアストっちに攫われたかと思ったヨぉ」
とは言うものの、未だにのんきにアストの腕の上でも肉をむしゃぶりついている。とにかくよく分からないままだが、一件落着は一応したようなのでミシューを元の場所に移す。
「ふむ、合格だ――アスト君」
「まあそりゃそうでしょうね。なんせこんな大きな魔獣を倒した――って俺!?」
肉を食べ終えたルーシェは水系統の魔法で手を洗いながら謎の合格発表をアストに下す。
「そうだ。あの状況下でミシューの護衛に回ったアスト君の判断は完璧だったということだ」
「…てことはこの状況を作り出したのは俺にルミ先輩の実力を見させるためではなく、俺の護衛としての判断力を確かめるための謀計だったってこと…ですか?」
相変わらずルーシェの手の内を踊っていたらしい。臨戦態勢をとっていたアストは《外気殻》の使用を中止し、片手に持っていた刀を石にかける。
「そんな人聞きの悪いことは言わないでくれたまえ。ルミの実力を確かめてもらおうとしたのは偽りではない。それに必ずこのようなことになるよう仕組んだわけでもない。」
「でも可能性はあったってことですよね?」
「数ある可能性の1つとしてな」
(…どうやらこの他にも色々策略していたらしいな)
「まあそれはいいですけど…あれは何なんですか?」
アストが視線を向けた先には全くをもって変化がない黒い球体があった。明らかにおかしい、この世に存在してはならないものである。疑問に思うのは必然とも言えた。
「この世には結合で溢れている。全てのものが形を留められているのはこの世に結合力があるからに他ならない。金属結合や共有結合、はたまた分子間相互作用ポテンシャルに至るまでな」
しかし返ってきたのは回答ではなく、理科の授業であった。アストにとっては外国語の授業ではあるが。
「は、はあ。それはいいんですけど。で、結局アレは何なんですか?」
「――その力が全て無くなったらどうなると思う?勿論分子間引力もだぞ?」
アストには何を言っているのかさっぱり分からない。
「はあ、要するに物を形成しているノリが無くなったらどうなるか、ということだ」
「ノリがなくなる? まあバラバラになるんじゃないんですか?」
「それこそがルミの固有魔術――分界だ」
もしそれが本当ならば物凄い話である。しかしそれだとしても未だ疑問は残る。
「それだとしても明らかにおかしいですよ。相手の魔獣はかなりの強さだったんだから体内に直接発生させるわけでなくても、あんなにきれいに穴が空くはずがないですよ。途中で反魔力が働くはずです」
すこし黙りこくったと思ったルーシェであったが、不意にゆっくりと拍手をし始める。
「ふふ、流石だよアストくん。やはり相当いい人材に巡り合えたようだ。――その通り、どのような現象を起こす魔法だって、必ずその現象がおこるわけではない。燃やす魔法だって、必ずなんでも燃やせるわけではない。それは自然の摂理だ。それを人間程度で超えることは不可能だ――そう、神でもない限りね」
「……まさか、アポカリプス…ですか?」
「…素晴らしい、素晴らしいよアスト君! その通りだ。人間だけなら無理でも、神から与えられたものなら別だろう? 神から与えられた力ならば、文字通り絶対を再現することだって可能だ。…まあ私は無神論者だけれどもね」
今度は風系統の魔法で手を乾かしているルーシェ。本当に人間ビックリ箱である。珍しく興奮している様子だが、すぐにいつもの様子に戻ってしまう。
「ということは、ルミ先輩は絶対性保有者ってことですか?」
「少々違うかな。ルミが絶対性を発動できるのはあの魔術だけだ。つまり後天的ともいえる存在だ」
「そ、そんなバカな…それだったら、誰でも絶対性を発動させられることになるじゃないですか!?」
「ま、そこら辺の細かいことはどうでもいい。とにかくルミの実力さえ分かればな」
「どうでもいいようには思えませんが…まあ今更ルミ先輩の強さに疑問を持ってなんかいませんよ」
「ねえ、ホントにそんなことどーでもいいけど、早く移動しない? あの猫の血が匂って仕方がないんだけど」
すると銃のメンテが終わったのか、レッグホルスターにしまいながら移動を提案するパルメ。あの巨虎は猫と同義のようだ。
「さんせー! 私も早く離れたいかも。ルーシェ、水!」
ようやく腹が収まったようで、指をなめながらパルメの意見に賛同するミシュー。それにしても水とは…
(そういうことね…)
どうやらルーシェの水魔法で手を洗いたいらしい。それにすぐに気が付いたルーシェは空中に水の球体を生み出す。しかし驚くべきは、さらにその球体の中で水が常時かき混ぜられているということだ。
まさに自動手洗い器である。手をつっこむだけで自然と汚れが取れる仕組みだ。
「ふむ、では移動するとしよう。森の移動に慣れるのも今回の目的だからな」
すると置かれていた調味料の足元に魔方陣が輝きだし、そのまま引っ張られるように飲み込まれていき、この世から存在が消滅する。いや、どこかに移動しただけなのかもしれない。どちらにせよ、荷物として持つ労力は省かれた。
(この先輩がいればサバイバル生活なんて練習する必要なんてねーんじゃないのか?)
問題はルーシェの鬼謀だと心の底から思いなおすアストであった。
咫尺の間:非常に近い距離




