牛乳プリン
「次のニュースです。本日未明、都内某所で通り魔による―」
大好物の牛乳プリンを頬張りながら、物騒な事件を伝える朝のニュース番組を眺めた。
自分の住むアパートからそう遠くはない場所でのことなのに、現実味など無く、残酷な物語を聞くような感覚しか持てない。
仕方のないことだと思う。
世界は、不条理なことで溢れているのだから。
空になった容器を捨てる。ゴミ箱から視線を上げると、電話の留守番キーが赤く点滅してた。
慣れた動作で電話を操作する。一件のメッセージが流れた。
『おはよう、美優。昨日は残業で二時間も会社に残されたみたいだけど、疲れは取れたかな?今日も仕事がんばってね』
何の感慨もなくメッセージを削除した。
見知らぬ男の、毎日欠かさず電話に残される言葉を。
それでも、留守電に不審なメッセージが吹き込まれるようになった当初は気味が悪く、家に帰宅するのが恐ろしかった。
聞き覚えのない声で、毎日一律の時間に電話をよこす。起床予定時間の朝6時と、帰宅後部屋に入った直後の計二回。
留守電設定を解除したところで、結局はすぐ近くで監視されているかのようなタイミングで電話を鳴らす相手に、一時期ノイローゼになりかけたこともあった。
電話の配線を抜き、部屋の窓という窓に厳重に鍵をかけカーテンを引いた。会社には有休を取ると伝え、薄暗い部屋で夜も電気を付けず過ごした。
完全にアパートの一室とその他とを遮断したかったが、何かあった時の護身用に携帯は常にマナーモードにしておいた。携帯には例の男からと知らせる着信は未だに鳴ったことはないが、その時の私には携帯でさえ男と自分とを繋ぐかもしれない忌々しいものだった。
アパートに隠って3日がたったとき、とうとう食べる物が底を尽く。何も考えず衝動のままに行動を起こした自分と、普段からまともに家で料理をしない習慣を悔いた。
玄関ドアの覗き穴から外を見渡し、誰もいないことを確認すると財布と携帯と鍵を持って慎重に数日ぶりの外の世界へと出た。
ホッとため息をついて玄関を閉めようとする。しかしドアノブには、3日前までには無かった物があった。
コンビニのビニール袋が3つ、窮屈そうにかけられていたのだ。
犯人は考えずとも分かった。
恐る恐る一番手前のビニール袋に手をかけ、中身を覗く。
膨張する恐怖とは対照的に、中に入っていたのは牛乳プリンとペットボトルの水。それと一枚の白い紙切れだった。
―――今日で会社を休んで三日目だね。どんな容態なのか分からないから毎日気が気じゃないよ。牛乳プリン、美優好きだったよね?早く良くなるよう祈ってる。―――
他のビニール袋の中にも全く同じものが入っていた。出社せず部屋に隠るようになってから毎日一つずつ追加されていたらしい。
手紙の内容は違えど、私を心配しているのが伝わってきた。
何だか可笑しくなった。
急に毒気を抜かれ、恐怖の対象にならなくなってしまった。
捻りもなく一心に牛乳プリンを贈ることへか、私がアパートに引きこもる原因が自分なのだと微塵も理解していないことへか。はたまた、留守電に残されていたメッセージの声が、いつも柔らかさを帯びていたのを思い出したからかもしれない。
何故だか、どうして私の好物を知っているのかと新たな嫌悪も沸いてこなかった。
理由なんてどうでも良かった。
ただ、今まで蓄積されてきた恐怖が自分の中から霧散されていくのが分かって、酷く安堵したのだけは覚えている。
現状は何も変わっていないけれど、自分の気持ちのもちようの変化だけで充分だった。
ビニール袋を全部持ち、そのまま部屋に戻った。
牛乳プリンを取り出して、久しぶりに窓の外の日差しを受けながら空腹を満たした。
その後は引きこもる前の生活状況に戻した。
窓を開けて空気を入れ替え、ベランダに出て溜まった洗濯物を干す。電話の配線を繋ぎ、コール音を最弱に設定する。それらが一通り終わると、夕飯等の買い出しにアパートを出た。
帰宅後すぐ数回の小さなコール音が鳴った後、例のごとく留守電にメッセージが残された。
『今日は美優の姿が見れて良かった。元気になったんだね。少し痩せたように見えたけど、ちゃんと食べてる?いくら好きでも、プリンばっかじゃ駄目だよ』
ストーカーを甘受し、毎日二通のメッセージを聞くことが日課になって一ヶ月半が経った。
その間変わったことと言えば、朝起きて玄関ドアを開けると牛乳プリンが届けられているようになった事だ。特に不審なところは無かったので、毎朝の私の朝ごはんへと化けた。
大きな変化など訪れなかった。
だから私は、これから先も現状維持のまま何も変わらないのだと思っていた。
私は普通に日常を繰り返し、顔も知らない男は私宛てにあたかも田島美優を良く知っている風な口振りでメッセージと牛乳プリンを贈る。
通常では理解し難い、それでも二人の平穏な関係は、私の起こした些細な変化で崩れることとなった。
月末はどの会社も忙しい。なおかつ入社二年目の私は早く帰宅することも出来ず、時計を見れば22時を過ぎてしまっていた。
帰路を若干早足で進んでいたが、ふと数日前にアパートへの近道を見つけたことを思い出した。
緑地が大部分の、遊具がまばらな公園を突っ切るというもので、少し不気味な点を除けば魅力的な道のりだった。
その道へ続く所でしばらく悩んだが、全身の疲労が早くアパートへ帰りたいと叫んでいた。
暗く人気のない様子に僅かに身震いさせ、素早く通りすぎてしまえば良いのだと自分に言い聞かせた。
電灯はチカチカと今にも消えかねない。
神経を研ぎ澄ましながら公園の半ばに差し掛かり、無意識に茂みや木々の間の暗闇に目を向けてしまう。
突如、私の体はビクリと大きく震えた。その反動で歩みが止まってしまう。
不運にも不自然に鳴り響く小さな音を聞き取ってしまったのだ。
もう一つ音が鳴って、斜め後ろの木々が連なる場所を振り返る。照明などなく、草木が生い茂り、その中は無音の黒が広がっていた。
目を凝らすが何も見当たらない。しかし“何か”が居るのは確かで、そのまま背を向けて立ち去れなくなってしまっていた。
外気は決して暑くはないのに汗が体を湿らせてゆく。
ゴクリと息を飲んで、すっかり無関心になっていたストーカーの存在を思い出した。
ああ、そうか。あいつしかいないじゃないか。
普段は気配すら感じなかったから忘れていたが、相手はいつも帰宅後すぐにアパートの電話を鳴らしていた。つまり、帰路を歩く私をどこからか毎日観察しているのだ。
実際目の当たりにすると私は冷静ではいられず、未知のものと遭遇する恐怖にかられた。今までは接触など無く、どこか遠い所から自分を見つめるだけの存在だと勝手に認識していたから大丈夫だったのだ。
人が滅多に寄り付かない廃れた深夜の公園。
こんな場所で対面したなら相手は一体どんな行動を取ってしまうのだろう。
「………誰か…いるの…?」
空気に溶けていくような声で暗闇に問いかけた。
気にせずアパートまで逃げ去れば良かったのかもしれない。
それでも冷静さを欠いていた私の頭は、ただの気のせいであれば良いと、言葉送っても何の反応もみせない望みにかけたのだ。
長く感じられた数秒の後、無音の答えに踵を返して私は走り去ろうとした。
ガクガク笑う足を叱咤し、一歩を踏み出そうとしたところで草が擦れる大きな音が響いた。
咄嗟に後ろを振り返る。
何かを確認する間もなく私の体は地面へ叩きつけられ、衝撃の痛みに呻き声を上げた。
体を動かそうとしたが自由がきかない。早まる鼓動に支配される中で、自分の上に覆い被さり、私を拘束する主を怯えた瞳に写した。
深くフードをかぶり、影の中に潜む顔は薄気味悪い笑みを浮かべていた。頬がこけ、肉付きが少なく骨ばった顎は無精髭で覆われている。
興奮しているのか、息が荒い。
何より、私を見下ろすギラギラと人間のものでないように鈍く光る瞳にゾッとした。
「…欲しい……欲しい……」
ニタリと歪む口からは、男の欲望が言葉になって何度も何度も吐き出された。
それを注がれる私の体はいっそう震えが増し、全身をつつむ恐怖と狂気は正常な思考を奪ってゆく。
気が付いた時は私の胸元の素肌が外気に晒されていた。
無理矢理破られたブラウスのボタンは殆んど無くなり、男のガサついた手が素肌を虫のように這う。熱をどんどん奪われて、生暖かい舌が鎖骨を舐めたときは、たまらずか細い悲鳴を上げてしまった。
私は滲む視界で男の顔を一心不乱に見返していた。
すると光るものが目に止まり、必死にそちらの方へと目を向ける。
一瞬、頭の中が真っ白になった。
楽しそうに私を見下ろす男の手に、ナイフが握りしめられていたからだ。
茫然と、光沢するナイフの動きを目で追った。
逆手に持ち変えると、男が両手でナイフを持つ手に力を込めるのが分かった。
指一本動かない私は、馬乗りになる男の動作を静かに眺める。
金縛りにあったように、体の自由も心の自由もどこかに置き忘れてきてしまったらしい。
ナイフが下ろされ、風を切る音がする。
死ぬ間際は懐かしいものが走馬灯のように過ぎるというけれど、馬鹿みたいに大好物の可愛らしいパッケージしか浮かんでこなかった。
衝撃に耐えるため固く閉じられていた目を開ける。
訪れる筈だった最悪の結末はなかなかやってこず、軽くなった体を見れば先ほどの男はいない。
夢だったのだろうか?
しかし近くで喧騒し合う音が聞こえ、愚かな考えはすぐに打ち消した。
上体を起こし音の方へ視線を向けると、先ほどのフードの男にもう一人別の男が掴みかかっていた。ナイフを探せば、手の届かない場所に落ちている。
鈍い音が鳴り、男たちへと視線を戻す。
フードの男の体は地面へと投げ出され、ピクリとも動かなくなっていた。その上で、もう一人の男は肩で息をしながら確かめるようにフードの男の背中を蹴った。
気を失っているようだが、フードの男は苦痛に息を漏らす。
それを見届けると、私は急速に体の力を抜いた。
助かった。
溢れ出そうになる涙をこらえ、己の幸運を噛みしめた。
はだけた胸元にかろうじて纏っていたブラウスをかき集める。ギュッと手を強く握り俯いていると、地を踏む音が耳に入ってきた。
ハッとなって顔を上げる。
助けてくれた男が携帯片手に立ち去ろうとしていた。
未だ上手く動かない体に鞭打って、慌てて男を追った。
「待って……!」
男の服を掴み歩みを止めさせる。その時ふと見た男の手の甲に、ナイフで付けられたであろう一筋の切り傷があるのを発見した。
「助けてくださってありがとうございました。……手、怪我してしまったんですね…。他は何ともないですか?」
「…いや、たまたま通りかかっただけだから。この傷も大したことはないし気にしなくていい。警察には俺から連絡しておきます。今度からは気をつけて下さいね」
それだけ言って、またどこかへ行こうとする男の手を強引に引いた。
「お礼にもならないですが、手当てをさせてください」
「…大丈夫ですから…。それより自分の心配をした方がいい」
冷静を装いながらも必死に私の手から逃れようとする男の顔を真っ直ぐに見つめた。
男はどんどん居心地悪そうになる。それでも、逃がす気は毛頭なかった。
「通り魔にやられたその傷で、また牛乳プリンを持ってくる気ですか?」
驚愕に見開かれる男の瞳が私を捉える。
留守電で聞いた声色と変わらない柔らかさで話す青年に、無性に泣きたくなった。