(8) 秋(二)
古書の整理を始めてからというもの、毎日が忙しかった。
学校では放送部員としての仕事をこなし、放課後は毎日、越冬館の古書室へ立ち寄った。自宅ではもちろん予習復習を欠かさず、そうしているうちに眠くてたまらなくなるので、寝床に入ると三分とたたずに眠りに落ちてしまう。
それでも朝の目覚めは案外爽やかで、僕は奇跡的に風邪ひとつひかずに過ごしていた。
秋の風が徐々に冷たさを増し、明らかに昼が短くなっていた。
僕が、三色まだら模様の、みっともない冬毛姿になる日も遠くない。
ある日のこと、いつも通りに古書室へ出勤すると、机の上に新しい茶封筒が置いてあった。封筒の表面には、「至急」と赤いマジックペンで書いてある。
中には古い書物。といっても、ホチキスで束ねられたその紙の束はだいぶ薄い。本というにはあまりに薄っぺらいものだ。表紙には、「2XXX年 X月X日 旧地球国連会議 仏首相」とだけ書かれている。
ああ、これはきっと古い議事録だな。僕はそう思った。
もう一枚、手書きのメモが添付されている。
『現代日本語文に訳し、A5版用紙へ縦書き印刷し提出すること。期限:三日後(厳守) 時雨』
目録の作成も難航しているというのに、また新しい仕事が来てしまったので、僕は大きくため息をついた。文句を言いたいところだが、そんな暇があったら少しでも仕事を進めたほうが建設的である。僕はフランス語の辞書を傍らに置き、パソコンに向かった。
部屋にあった辞書のなかでもとくにそれは古く、紙の質も劣化していた。編纂された年代も相当古いのか、まさに古文中の古文で書かれている。しかも、すこし勢いよくページをめくると破けてしまう。僕に永遠の時間があるとしたら、これを全て現代語に書き直し、新しい紙に刷ってきれいに表紙をつけてやりたいものだと思う。
書物は劣化していずれ塵になる。
それだけではない。言葉そのものも長い年月の間に廃れ、風化していく。この古書室にずっと通い続けていると、年老いた書物たちの瀕死の呼吸が聞こえるような、奇妙な感覚がしてくるのだ。僕が手を差し伸べることで、風を入れることで、彼らがすこしでも息を吹き返してくれたら。
僕のやっている仕事はただの事務作業ではない。地下庭園の手入れにも似ているような気がした。
わたしの大事なひと 睡蓮へ
お元気ですか。何も言わなくてごめんなさい。
夕凪から、あなたはまだ新しい恋人を作っていないと聞きました。
もしも、あなたがわたしのことをきらいになっていて、これがわたしの片思いになっているとしたら、そのほうがどんなに楽だろうと思うこともあります。
どうしてこうなってしまったのかを、うまく説明するには、まだ気持ちの整理と、覚悟ができません。
もうすこしだけ待ってほしい。夏祭りの後からそう思っているうちに、すっかり風が冷たい季節になってしまいました。わたしは弱い、わがままな人間だと思います。
あなたは毎日、忙しくがんばっていると聞きました。わたしも自分のやるべきことをしようと思います。
お体は大事にしてくださいね。 皐月
夕凪を経由してやってきたその手紙を、昼の放送室で、僕は何度も読み返していた。
すっかり寒くなり、朝夕に自転車をこぐ時には厚めのコートが必要になってきた。
僕も、校内のみんなも換毛が始まっていた。
頭髪が徐々に抜け落ちて、冬の毛と入り混じってしまう中途半端な見た目を嫌い、ニットキャップやウィッグを装着して登校する者が多かった。教室や廊下は、抜けた髪の毛がたくさん落ちていて、床の隅にあつまっていくつもの毛玉を形成していた。
窓から校庭のほうを見ると、一組のカップルが制服のままダンスの練習をしていた。卒業舞踏会に参加するためなのだろう。ところが、どうも息が合わないようである。
少し見ているうちに、責任の一端はどうやら僕にあるように思えてきた。
いま校内放送で流している音楽は、センチメンタルなスローバラードだ。卒業舞踏会は舞踏会とはいっても、実際にはほとんどロックなどの若者になじみのある音楽に合わせて踊るのであって、ソシアルダンスではないし、チークダンスはそもそも練習の必要がない。
だとしたら、練習用の音楽もアップテンポのものが望ましいのである。
そこへちょうど、桂が入ってきた。忘れものを取りに、たまたま寄ったらしい。
僕は、校庭のカップルを指さし「何かいい曲ないかな?」と訊ねた。
「よし、ちょっと貸して」
桂はそう言って、まだ曲の途中だったバラードを、違和感のないタイミングでフェイドアウトし、軽快なポップロックのラブソングに切り替えた。
校庭のカップルはだんぜん調子が良くなり、息の合ったダンスを見せはじめていた。
「相変わらずさすがだな。サンキュー」
「お安い御用さ。ところでおまえ、ちょっと元気になったみたいだな」
桂とはチームが変わって以来、それほど会話をしていないはずだが。
僕がそこまで周囲に気を遣わせていたということなのだろうか。近頃は自分のことで精いっぱいになっていたのかもしれない。反省すべきだと思った。
「なんか、すまなかったな」
「いや、おれは何も。――あっそうだ。おれの特選ダンスナンバー集でよければ、これからも勝手に使っていいよ。場所教えておくから」
「ありがたい話だけど、いいのかな」
「平気だよ。だってこれ少し前に編集したやつで、実は微妙に古いんだよねぇ。最新の必殺おれコレクションは完成間近。まだ内緒だぞ。ついでにおまえもダンスの練習やっとけよ。どうせ、迎えに行くんだろう? 彼女のことをさ」
一瞬何のことかと思った。僕にはそれができるのだろうか。卒業舞踏会に皐月を誘い、彼女を迎えに行くなんてことが。
しかし、桂があまりにも当然だという言い方をしていて、何のくもりもない表情をしていたので、つい答えてしまった。
「ああ、もちろんだ」
その日の帰り道、僕は皐月に渡すためのメッセージカードを買いに行った。
『内容を簡潔にまとめ、レポートを提出せよ。(本体持出厳禁) 期限:やる気次第 時雨まで』
机の上に置かれていた一冊の本の表紙に、そう書いてある付箋紙が貼りつけてあった。
古いフランス語の議事録の現代和訳が、一昨日やっと終わったばかりである。本来ならうんざりするべきところだが、僕はその手書きのメモの文字に、恣意的ではない何かを感じとっていた。
その本のタイトルは『新地球人の始祖・氏族と役割について』である。保管状態が良かったためか、かなりきれいな冊子だ。目次と本文を読んだ限りでは、書かれた時代も割と新しい。これなら辞書首っ引きでなくてもなんとかなりそうだ。
僕は、閉館ぎりぎりの時間まで粘って読み込んだ。その作業は一日では終わらなかった。翌日も、翌々日も、僕はその本を読み、考察を続けていた。
はるか昔、新地球へ降り立った僕たちの祖先は数十人いた。全員が旧地球でいうところのモンゴロイドで、なおかつ日本人であった。
そのうちの男女九組の夫婦が子を残したという。
新地球の歴史の黎明期、人々はとにかく全滅を回避し、一人でも多く生き延びることが至上命題であった。
それまでの間、恒星間飛行を可能にするまでに発展し続けた科学技術は、一瞬の停滞ののち、急激に廃れた。人手が少ない上に、みなが生きるのに必死で、原子炉を建造しよう、とか、宇宙へ探査機を飛ばそう、などと言っている場合ではなかったのだ。
それから何世代かを経て、人々がこの惑星の環境になんとか適応し始めたころには、男系男子の血統を軸とした九つの氏族が形成されつつあった。
氏族の長という大役を背負うのは、必ず氏族長家の嫡男である。仮に男子が途絶えた場合には、傍系から養子をとってでも男子に継承させることになっていた。
氏族長には重要な役割が与えられていた。それは、旧地球から持ち込んだ古代科学技術について記されたデータや研究成果――たとえば、恒星間航行技術や、核エネルギーの制御法、遺伝子操作の技術、超高度医療術など、の知識の管理保守である。
古代科学技術は旧地球自体の貴重な遺産であり、パンドラの箱でもある。
それらの重要性から、事実上、中央政府の情報部所属の《麒麟》という組織が監視している。管理を任された氏族長といえども、勝手に公開したり、自己流でさらに研究を進めたりするのは禁忌であり、厳しい制裁の対象となるのだ。
氏族長となる者は、家族にもそのことを漏らしてはならないというのが原則である。古のスパイと呼ばれた人々が、自分の妻にさえも本当の職業を言わなかった、というのと同じである。
ちなみに、僕の姓は二穣であるから、穣一族に属することになる。
今もどこかで暮らしている穣一族の氏族長は、旧地球時代に人間超えを果たしたという、人工知能についての研究成果を保持しているだろう。
「どうだね、なかなか勉強になっただろう」
僕のまとめたレポートに目を通しながら、時雨部長は言った。いつもの地下庭園の、池のほとりのベンチに、僕と並んで腰掛けていた。
「僕はてっきり、部長がそろそろ八咫烏のことを教えてくれたのかと思っていたのですが――」
その書物には、八咫烏の名前は一切出てこなかった。勝手に勘違いしていたとはいえ、期待が裏切られたとの思いから、僕は少し落胆していた。
「おや、それはおかしいな。わたしは教えるつもりで、これを読ませたのだがね」
「どういうことですか」
僕の読解力が足りなかったのか? それとも、ほぼ現代文だからと油断して、なにか重要な語句を見落としてしまったのか。
戸惑う僕に対し、時雨部長は悠然と構え、意味ありげな笑みを浮かべていた。
「原本はいま持ってきているかね? ――どれ、貸してみたまえ。これはね、わたしの若い頃、一部公務員だけに配布された部外秘資料なんだよ。久しぶりに資料室で見つけたから持ちだしてきたんだが」
時雨部長の口調は抑揚のない棒読みだ。
まるで、舞台の上で台本を片手に、劇中劇でもしているかのようだ。わざとらしく大げさな動作でページをめくりながら、部長はとぼけた様子で言った。
「おや? わたしの記憶違いだろうかね? 間違いなく、このタイトルの冊子だったはずなんだが」
――タイトルが同じで、中身がちがう本?
何かがわかりかけている。時雨部長は僕に何を伝えようとしているのか。
「きみは優秀だ。このレポートも合格点だよ。この冊子の内容がそのまままとめてあるんだからね。しかし、それだけかね? 他に気づいたことは無かったのかな?」
時雨部長は、僕が持ってきたときと同じように、茶封筒にレポートと冊子を入れ、手渡して返してくれた。僕は半ば放心状態でそれを受け取った。
この本を読み解いているときに気にかかっていたこと。わずかな、しかし拭いきれない違和感がずっと僕のまわりに付きまとっていたこと。頭の中で結論が形を成してゆく。
「すみません、今日はこれで失礼します」
僕は一礼して庭園を去った。もう一度、古書室に戻ってこの文書を読むために。
僕の目の前で、夕凪は心底あきれ返ったような表情をしていた。
「あなたね、皐月に恥をかかせるつもり?」
「だって、本当にできないんだよ……」
ある日の放課後、僕は夕凪にダンスの練習につきあってもらっていた。
借りてきた小型音楽プレイヤーを窓際に置いて鳴らしながら、放送室の前の狭い廊下で、僕は悪戦苦闘していた。自慢じゃないが、僕にはリズム感というものがまったくない。
何度目かに夕凪に足を踏まれたとき、とうとう彼女の我慢が限界に達したのだ。
「ジルバが駄目っていうんなら、もう即興で踊る以外仕方がないわ。ほら、音楽に合わせて、単純なステップを繰り返すだけでいいのよ。一拍目で左足を引いて――」
「そ、それが、音楽を聞いても、どこが一拍めなのか、全然分からないんだ」
ぎこちなく、影踏み遊びでもしているような僕の足さばきを見て、もはや手遅れ、とでも言うように、夕凪はがっくりと頭を垂れた。
「ああ――天はニ物を与えないって、このことね」
額に手を当てながら、ああでもない、こうでもない、と独り言をつぶやいている夕凪とは、まったく別の心配を僕は抱えていた。
「なあ夕凪。――皐月、本当に来るかな」
先日、夕凪を通じてメッセージカードを渡したのはいいが、ろくに連絡がとれていないことに変わりはなかった。
「来るわよ! あの子、絶対に来るわ。わたしが保証する」
夕凪の力強い言葉とまっすぐな眼光を見ていると、信じようという気持ちがわいてくる。
目下の心配は、僕のダンスがあまりにもお粗末だということと、いよいよ体のほうにも冬の毛があらわれてきて、三色まだら模様がはっきり見えてきたということだけだ。
ふと、思いついたように夕凪が顔を上げた。
「睡蓮、あんたさっき、ダンスというダンスはなにひとつ踊れないって言ったわよね? 体育のペアダンスの授業あったでしょ、あれどうしたの? 点数落としたの?」
「ああ――」
確かに、授業で少しダンスは習った。
けれど、元からリズム感のなかった僕は、音楽に合わせて踊るというよりも、機械的に動きを丸暗記して、反復練習をして、最低点がもらえる程度になんとか乗り切ったというだけのことだった。使われる練習曲が毎回同じなのも幸いした。
僕の話を聞いた夕凪の表情が急に明るくなった。何か思いついたらしい。
彼女は、ある提案を話してくれた。僕にはそれが、到底無理なことのように思えた。
「そんな前例、過去の卒業舞踏会でも聞いたことがないぞ」
うろたえ尻込みする僕に対し、夕凪は自信たっぷりに言い切った。
「――大丈夫よ。わたしたちには、桂がいるもの」