(7) 秋(一)
皐月が別棟校舎の古代歴史研究室へ移った、と、僕は人づてに聞いた。
あの灯籠流しの夜以来、僕は皐月に避けられていた。
大学課程への中途編入にともない、委員会活動も免除されたとかで、図書室に行っても会うことができなかった。皐月のいる下宿屋は男子禁制で、そこでも会うことができない。
電話をかけたら一度だけつながったが、いまは勉強に集中したいの、ごめんね、と、彼女は沈んだ声でそれだけ言って、電話は切れてしまった。
皐月に一体何があったのか。
僕はなにか嫌われるようなことをしたのか。あるいは、他の男性に気持ちが移ってしまったのか。あの夜のことをいろいろ思い返しても、なにも心当たりがなかった。そう、八咫烏が現れたこと以外には。
ある日のこと、連絡事項があるというので、僕は放送室へ向かった。
扉の前の掲示板に「チーム再編成のお知らせ」と書かれた紙が貼りついていた。
今までのチームは全て解散となり、明日からは桂とも夕凪とも、別々の班になることがわかった。
ドアノブを回す気にもなれず、僕はきびすを返し、下校するため校門へと向かった。
僕は、横倒しになった自転車を駐輪場から引っ張り出した。
日没が近かった。風がすっかり涼しくなり、夏が終わったことを告げていた。僕は夕陽を照り返している校舎を一瞥した。あのへんは図書室だ。ガラス窓が鏡のように、赤い光を照り返していた。
勢いをつけてペダルを踏んで帰路についた。
今日は宿題もない。原稿書きもない。図書館に寄る予定もない。
僕は何をしたらいいのだろう。
放送当番を目前に控えたある日の放課後、僕は学校の図書室にいた。
皐月に会えるわけではなかったが、紹介用の図書を選定しなくてはならないので、定期的に通っているのだ。
本格的な秋の気配に包まれ始めたせいなのか、最近では恋愛小説を紹介してほしいとのリクエストが多い。そろそろ学校中が、卒業舞踏会のパートナー選びの話題で持ち切りになるだろう。
図書室にいる生徒たちも、心なしかカップルが多いように感じた。
自ら傷口に塩を塗るような愚行と知りつつも、僕は古いものと最近のお洒落なものとの、二冊の恋愛小説を手にして、カウンターへ向かおうとした時だった。
『――二穣睡蓮くん。校内にいるのは分かっています。至急放送室まで来てください』
いささか苛立ったような声が、備え付けのスピーカーから発せられた。声の主は夕凪だろう。
僕は二冊の本を棚へ戻し、無言で図書室を後にした。
フロアの大半の生徒が、盗み見るように僕に視線を向けていたのは知っていた。最近皐月と一緒にいないということは皆に知れ渡っている。僕のことは、腫れ物にでもさわるような扱いになっているのだ。
さて、僕は何かへまをやらかしたか。だとしても、別チームになった夕凪が、一体何の用事なのだろうか。そう考えつつ、ぼんやりとした頭で放送室の扉を開けた僕に、開口一番罵声が飛んできた。
「ばか! 皐月をいつまで放っておくつもりなの!」
鬼の形相で夕凪が立っていた。
「どういう意味だよ」
あっけにとられて、それだけ言うのが精いっぱいだ。
「どうもこうもないわよ! 彼女の勉強が忙しいからって、急に研究室入りになったからって、恋人を放っておける理屈がどこにあるっていうの! この甲斐性なし! 男が変な意地張ってどうすんのよ!」
「ちょっと待ってくれ、夕凪、僕にだって何が何だかわからないんだ」
恐ろしい剣幕で詰め寄ってくる夕凪に対し、僕はただ壁際に貼りついて弁解するしかなかった。
「あ、そうか分かったわ! 睡蓮を差し置いて、皐月だけが黙って飛び級したものだから、プライドが傷ついたとかいうやつなのね」
「なんかさっきから勝手に話が進んでるんだけど――」
「あんたは、皐月がいなくても平気なのね!」
その一言を言われて、ずっと我慢していた何かの糸が切れた。
「そんなわけあるか!」
思わず大声を出してしまった。怒気を含んでいたのが自分でもわかる。
夕凪は一瞬怯んだように見え、ひと呼吸すると、急に脱力したように椅子に座り、顔を伏せた。泣いているようにも見えた。
「――わたし、皐月に会ったわ、きのう」
今度は消え入りそうな声だ。僕も静かに椅子に腰かけた。
「僕は夏祭りからずっと会っていないんだ。電話にも出てくれない。皐月は、元気なのか」
「元気なわけないでしょう」
「僕のこと何か言っていたのか」
「いいえ何も――彼女のほうからはね。
わたし、皐月に聞いたのよ。もしかして、他にすきなひとでもできたの? って。
そしたら、はっきり首を横に振って――ただ泣いてた。わたしがあんたの名を言いかけたとき、彼女、すごく思いつめた目をしてた。言ったらあの子の心がつぶれてしまうんじゃないかと思って、わたし言えなかった。けっきょく、肝心なことは何も聞けなかったのよ」
それを聞いて僕にはなぜか、あの早春の越冬館の十五号室の前で、冬毛をくしゃくしゃにしながら泣いていた少女の姿が思い出された。
目の前ではもう一人の女の子が大粒の涙を流しながら、僕に訴えている。
「教えて睡蓮、わたしに何ができる? あんたと皐月はまだ好き同士なのに、どうして離れなくてはいけないの? こんなのおかしいわよ!」
「何ができるかって、それば僕が一番知りたい――」
いや。
僕にわからなくてどうするんだ。
急に立ち上がったので椅子が大きくバランスを崩したのがわかった。
僕の頭の中をなつかしい風景が逆回転で巡る。それは常緑の庭と金魚。古代人。テンキーを素早く押す指先。図書館で待たされた僕の前に現れた駿馬兄さん。その前に一体どこへ行っていた? 彼はなぜ地下へ降りることができた?
がたり、と、後ろへ倒れた椅子が音を立てた。脚のキャスターが空回りしていた。
「大丈夫? 睡蓮、顔色が――」
「行ってくる」
「え?」
「職員室だ」
後ろで夕凪が何か言っていたが、僕はいてもたってもいられず、放送室を飛び出していた。
僕はいつか通った細いコンクリートの通路を歩いていた。
少し進んだ先に頑丈な金属製の扉があった。あのときは小さな子供だったせいか、ずいぶん巨大な扉だと思ったけれど、いまとなってはそれほどとも感じない。僕は、キーを叩いて日替わり番号を入力した。 扉は開き、その先には緑豊かな箱庭が広がっていた。
「時間通りだね、睡蓮くん」
いつか座った池のほとりのベンチで、その人は待っていてくれた。
「お久しぶりです、時雨部長」
僕は一礼をした。座るようにすすめてくれたので、僕は時雨部長と並んでベンチに腰掛けた。
「職業実習の申請と同時に、面会のアポイントをとってくるとはね。君は手際が良いな」
そう言いながら笑顔を浮かべている時雨部長は、古代人の特性のとおり、前の晩秋に会ったときと比べても、ほとんど歳をとっていないように見えた。白髪が少し増えた気がしないでもないが。
「それで、君の用件は何だね? まさか、本当にただの研修に来たってわけじゃないんだろう」
「単刀直入にお伺いします。八咫烏とは何でしょうか」
時雨部長は大きく息を吐いた。そして腕組みをして、低く重い声で言った。
「どこまで知っている?」
「今回の早春、僕の知り合いの女の子の両親が亡くなったとき、部屋にやってきて遺言書を持っていきました。そのとき、僕とその彼女に、八咫烏と名乗りました。
その女の子は皐月といって、いまは僕の恋人です。
しかし先日、八咫烏は再び現れて、彼女に遺言を返すと言いました。僕は彼女の家族ではなかったので、追い返されてしまいました。それ以来、僕は皐月と連絡がとれません」
「――そうか」
時雨部長は立ち上がり、後ろに手を組んだまま、僕に背を向けてゆっくり池のほうへ歩いた。そしてこう言った。
「もうひとつ。君はどうしてそのことを、わたしに訊ねるのかな」
「正直なところ、手あたり次第、知識の豊富そうな方を当たろうと思いました。それに、八咫烏は、部長と同じ公務員です」
「なぜそう思う?」
「八咫烏は、最上階に出入りしているからです。
それに、皐月の下宿先を知っていた。春から何の連絡もとっていなかったのに、です。
最初は福祉関係の地方職員かと考えましたが、違うと思います。あそこの下宿先はめったなことでは個人情報を漏らしませんし、仮に問い合わせがあったとしたら本人に言います。ところが、八咫烏に関しては、訪問することを皐月も知らなかった様子でした。
そんなことができるのは、もっと上層の――そう、例えば、中央政府の情報部絡みとか」
時雨部長は振り向き、にやりと笑った。
「まあ、九十五点だ。そこまで推理できるなら、きみは自分の恋人が何者なのかを考えたことがあるか?」
――皐月が何者か、だって?
僕にはさっぱり何のことか分からなかった。返答に窮したのが丸わかりだったようで、時雨部長は豪快に笑った。
「まあ、そういうものだ。太古の昔から、女性は謎だらけだ」
時雨部長は池のほとりに立っていた。僕も並んで立ち、水面を見た。数十匹の赤い金魚に混じって、一匹だけ白い個体が元気に泳いでいた。
「きみは彼女と添い遂げる覚悟があるのかね?――それが定まらないうちは、聞かないほうがまだましだったと後悔する羽目になる」
僕は皐月を失いたくない。それははっきりしている。
しかし、結婚のことなんてまだ考えていなかった。僕はまだ高校生だ。そういういことは、まず進路を決めてからだと思っていたのだから。
戸惑う僕を見透かすように、時雨部長は言った。
「今日のところは、帰りたまえ」
「しかし――」
「どのみち、誰にでもただで教えられるような話ではない。
きみはしばらくここへ通って、図書館の古書室の整理をしたまえ。明日からでもすぐに始めなさい。事務員にはわたしから連絡しておこう。そう忙しい仕事ではないさ。少しだが給料も出る。
余った時間を利用して、古い資料を読んでみたまえ、勉強になる。学校の勉強も怠ってはいけない、わかったね」
そこまで言うと時雨部長は、脚立と大きな剪定鋏を持って、振り向きもせず庭園の奥へ消えていった。
――なあに、わたしはあの日にきみに全てを話す気などさらさら無かったのさ。
彼女と結婚する気があるのか、と質問したのは、答えを聞くためじゃない。彼女のことを想ったきみが、どれだけ真剣な表情をするものか、それを確認したかっただけで、答えがどちらだって同じことだったんだよ。
そう時雨部長から聞いたのは、もっとだいぶ後の話になるのだが。
翌日、図書館へ立ち寄り、カウンターで僕の名前を言うと、受付の人が奥の部屋へ案内してくれた。そして僕に、古書室と書かれたタグがついた鍵と、茶封筒をくれた。
「作業指示書はこの封筒に入っています。必要なものは全てこの部屋のなかにあるはずですが、不明な点は内線二十二番に問い合わせてください。鍵はあなたに預けますので、明日からは直接ここへ来て作業を始めて頂いて結構です」
それだけ言うと、女性事務員は自分の業務へ戻っていってしまった。
彼女の後姿を見送ったあと、僕はもらった鍵を使い部屋の中へ入った。
部屋の中央に机がひとつあり、少し古い型のパソコンとプリンターが置いてあった。
四方の壁はすべて本棚だ。そのほかにも床に段ボール箱がいくつも積み重なっていた。どれもこれも古い本ばかりで、おそらく個人で製本したであろう、お粗末な冊子も少なくない。中には装丁すらされていない、ただの紙の束のようなものもあった。
僕はとりあえず椅子に腰かけ、茶封筒の中身を見た。
『古書のリスト作成業務 例を示すので、書庫内の全ての書籍を形式に従いリストアップすること』
『概要欄のみ、空欄にしても構わない』
『装丁のないもの、手製表紙の破損しているものは、製本機を使って体裁を整えナンバリングすること』
もう一枚の紙は、おそらく前任者の誰かが作りかけたリストだった。
本のタイトル、著者名、ジャンル、頁数、記述言語、概要、という項目からなっている。なるほど、これに従って目録を完成させれば良いわけか。
やることは単純のように思えた。しかし僕はこの仕事を甘く見ていたのだ。
本棚に収められている順番にやろうと思い、一番上段のすみっこの本を何の気なしに手にとった。古書という時点で想定済みだったが、中身は全て古文体で書かれてある。僕はだいぶ勉強したほうだと思うのだが、それでも辞書がないと正確に解読する自信がない。
ついでに、箱の中の書物も拾い上げて見た。
僕は一瞬、自分の目がおかしくなったのかと思った。顔を近づけて確認した。古代日本語の書物ではない。最初は英語かと思ったが、どうも見覚えのないスペルが多すぎる。これは厄介なことになってしまった。
最初に探すべきは辞書だ。僕は、部屋中にあるそれらしい分厚い本をかき集めた。
英和辞典はもちろんのこと、フランス語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語、中国語などの辞書を、机の上にひととおり積み上げた。辞書の和訳自体が古代日本語で書かれているので、古語辞典も手放せなかった。
概要が空欄でも良い、とはこういうことか。これではとても本文をじっくり読むどころではない。言語を特定してジャンル分けするので手いっぱいである。
こうして、僕とおそるべき古書群との闘いが始まったのだ。