(6) 灯籠流し
灯籠流しは、夏の終わりの祭りで行われる恒例行事である。
打ち上げ花火ほどの派手さはないけれど、数百から千個以上といわれる数の灯籠が揺らめきながら川を下っていくさまは、趣があって見事なものだ。
灯籠に描かれる柄は、赤や青や黄色などの華やかな色が使われる。しかし、その絵柄の意味を知る者は案外少ない。
赤い横縞模様と青地に白い星がぎっしりと並んだのは星条旗で、アメリカ合衆国の旗。赤地に白十字は永世中立国スイス。青白赤と縦に三分割されているのはフランスの旗で、トリコロールと呼ばれていた。青地に白抜きされた二つの赤十字が重ねられているのは、三カ国の旗のデザインを融合させたユニオンジャックで、イギリスの旗だ。
「へえー、この模様って古代国家の旗のデザインなの? 知らなかったぁ。誰かがテキトーにデザインしたんだと思ってた」
放課後の放送室。桂は暑さで溶けかかったチョコレートバーを左手に、右手の絵筆で和紙に青い絵の具を塗っていた。
「さすがは旧地球史のカリスマといったところね」
額の汗をぬぐいながら夕凪が言う。彼女は彩色の終わった和紙を棚の上に並べている。
「その変な通り名、やめてくれ。事実とだいぶ違う」
僕は一人だけ翌日の放送のための原稿を書いていた。しかしこれが本来の業務である。
灯籠の作成は、各町内会や小学校、高校などで行われる。僕らの森羅高等学校にも百だか二百だったかの数が努力目標として定められていて、各委員会や部活動で手分けして作業をすることになっていた。
僕らの放送部は部室も狭いというのに、なぜか彩色担当にされてしまった。他には骨組みを組み立てる工程や、彩色済みの和紙を本体に張り付ける工程などがあった。まあ、どれも場所をとる大変な作業であることには違いない。
夏も真っ盛りで、エアコンが装備されている放送室でさえ暑かった。ただ座って筆を走らせているだけの僕ですら、油断すれば原稿用紙に汗のしずくを落としてしまいそうだ。
コンコン、と、扉をノックする音がした。
ガラス窓から廊下をみると、皐月が来ていた。
「睡蓮。彼女が来ているわ」
夕凪が言うよりも早く、僕は立ち上がっていた。
「ああ、しまった! 今日は一緒に図書館に寄るって、約束していたんだった……」
今まで皐月との約束は一度も忘れたことなどない。今日に限って、昼の放送のローテーションが急に変更になったり、灯籠塗りの仕事がやってきたりで、午前中からずっと駆けずり回っていたので、頭から抜けてしまったのだ。
動揺を隠せない僕に、夕凪は笑みを浮かべながら言う。
「あら、結構じゃない? そんなら早く帰んなさい」
「で、でも灯籠の色塗りは……」
「心配すんな。お前のぶんは明日まで残しておくから」
小動物でも追い払うようにして、桂はしっしっと手を振った。
「すまん! 恩に着る!」
僕は、書きかけの原稿を鞄に詰め込み、桂と夕凪の二人に何度も頭を下げながら放送室を出た。
いつのまにか、僕と皐月は学校内でも有名なカップルになっていた。最初は冷やかされることもあったが、そのうち周りにもカップルがだんだん増えてきて、僕たちのことをいちいち気にする人もいなくなった。
僕たちのうちのどちらかが、お付き合いして下さい、とかはっきり言ったわけではなかった。自然に一緒にいる時間が多くなり、それが普通になった。
あいつらはカップル確定だよ、と誰かが言い始め、僕も皐月も特に異論はなかったので、現在に至るというわけだ。
「睡蓮くん、わたしたちって、恋人同士なのかな」
「そうだと思うよ」
越冬館に続く並木道を、僕と皐月は寄り添って歩いていた。
さっきまで厳しく照りつけていた太陽は傾いて、いくぶん威力が弱まった気がするものの、暑さが和らいだようには感じなかった。歩きながら木陰に入ると、心なしか涼しい風を感じた。
「だってほら、古代日本文学だと、『僕と付き合ってください』『はい、よろしくお願いします』ってするじゃない。わたし、お付き合いを始めるときって、てっきりそういうのがあると思ってたんだけど」
「実は僕も同じこと考えてた。んで、こないだ桂に聞いてみたんだ。そしたらさ、今時そんな肩肘張ったような手順を踏むやついないから心配すんな、だってさ」
「そうなの? ちょっとがっかり」
口ではそう言いつつも、皐月は楽しそうに笑っていた。
本当は、古風と言われても告白の儀式をやりたかったのかな、と思い、僕と皐月とでそういうことをしていると想像すると、急に照れくさくなって、僕も笑ってしまった。
この街の越冬館の一階は、夏の間も開放されている。
僕と皐月は時々、越冬館の中の図書館を訪れた。ふたりが初めて出会った、あの図書館だ。
実際には図書館通いはただの口実で、僕たちは一緒に公園を歩いたり、カフェに立ち寄って話をすることのほうが楽しみになっていた。
しかし、今日は別だった。僕は、テーブルに取り付いて明日の原稿を書いていた。その間、皐月は探し物をするのだと言って、図書館内をうろうろしていた。
僕がようやく原稿を書きあがったとき、皐月が一冊の本を抱えて戻ってきた。
青の中に、翼の長い一羽の白い鳥がデザインされた表紙の本だ。
その本のカバーは見覚えがあった。僕は何も言えず、ゆっくりと視線を上げると、皐月は儚げに微笑んでいた。そうして隣に静かに腰かけた。
「この本ね、捜していたの」
それは皐月が、冬眠の前の最後に抱えていた本だ。そして"八咫烏"と名乗る女性が十五号室から持ち去った本。
黙っている僕に気を使ってか、皐月は一人でしゃべり始めた。
「もう、情けない顔しないでよ。その感じだと、睡蓮くんも憶えていたのね。
母さんが最後に買ってくれた本だったのよ。母さん、ほかのお勉強はほどほどで良いから、国語だけは一番をとりなさい、っていつも言ってた。
でも、あのときのわたしには難しくて、ぜんぜん読書が進まなかった。 結局、読みかけのままだったのに、春に目覚めたら部屋のどこにもないんだもの」
だめだ。僕は隠し事や嘘をつくのは苦手だった。黙っていたことを怒られても仕方ない。
僕は意を決して皐月に本当のことを伝える覚悟を決めた。
「皐月、実はきみに言っていなかったことがある」
「――もしかして、八咫烏のこと?」
案外、あっさりと答えが返ってきた。僕は拍子抜けした。
「知っていたのか」
皐月の瞳は穏やかだった。あのときのように、僕の胸にまで刺さってくるような悲痛な叫びはもうなかった。しかし、こうなるまでに彼女は一体どれだけ泣いたことだろう。
「うん。わたしね、最上階で会ったの。ダークグレーの艶のある毛並みの女の人だった。
これと同じ本を持っていて、それには母さんからの最後の手紙が挟まれていた。八咫烏はわたしに言ったの。大きな事情があって、この手紙はわたしがもっと大人になってからでないと見せられない、って。
そして、小部屋の前で、睡蓮くんという男の子に鉢合わせしてしまった、とも言っていたわ」
僕は、十五号室の前での出来事を思い出していた。
毅然と振る舞っていた八咫烏の女性と、うろたえる僕。今思うと、まるでこっちに後ろ暗いところがあるかのようだった。
「それで結局、本と手紙はどうなったんだい」
「手紙は見せられないけれど、本だけは返しましょうか、って言われて。でも、どうせなら母さんが手紙を本に挟んだ形のまま受け取りたいって思ったから、そう伝えたの」
彼女の言い方からすると、八咫烏は、どうやら皐月の親戚や知り合いではない。いや、知らない遠い親戚という可能性もあるけれど。
なんだか奇妙な話だと僕は思った。
「その手紙はいつ受け取れるんだろうな。――そもそも、八咫烏は信用できるのかな」
「うん、たぶん。母さんが冬眠前に言っていたの。もしも春になって、八咫烏っていうのが来たら、言うことをよく聞きなさい、ってね」
「一体何者なんだろうか」
「わたしにもはっきりは分からない。それ以来一度も会っていないし。どうやら公務員らしいってことくらいしか。――たぶん、わたしみたいな孤児の一時的な後見人とかじゃないのかな?」
「ふーん、そうかもしれないな……」
そういう役割の人がいても確かにおかしくはない。冬眠明けに幼い子供を残して老衰死する親というのは少なくないからだ。縁起がよくないので存在が公にされていないとしても不思議ではない。
だとしたら、子供に見せられない手紙とは、財産相続についての遺言書あたりだろうか。それにしても、親からの最後の手紙かもしれないものが、娘の手にすぐに渡らなかったのだから、少し寂しい話だな、と僕は思った。
夏祭りの開幕を告げる号砲の音が街に響く。
僕は音のした方向を見上げた。陽が没した空は下のほうにわずかに夕焼けが残っているだけで、すっかり夜のとばりが降りていた。いつのまにかずいぶん昼が短くなった。
下宿屋の玄関から皐月が出てきた。あざやかな花模様の浴衣を着ている。髪は涼し気に頭の高い位置で束ねられていた。
「ごめん、待ったでしょう。もう花火が始まっちゃったかな?」
「いや、さっきのは号砲。打ち上げ花火には、まだゆっくり歩いても間に合うよ」
「そっか、良かった」
皐月は僕に並んで歩きながら、服の裾を引っ張ってきた。手をつなぎたいという合図だ。最初は照れくさくて慣れなかったが、今ではそれが自然になっていた。
祭りの会場は、街のはずれを流れる大きな川のほとりだった。
たくさんの屋台や出店が並び、その周囲は集まった人々で賑わっていた。僕たちは出店の周りの混雑を避け、少し離れた土手に一緒に座った。
「見て。灯籠流しだわ」
皐月が指をさす川の上流から、無数の灯籠が流れてきた。赤や青や黄色の、色とりどりの模様に彩色され、ひとつずつがろうそくの灯を抱えながら水面を揺れて漂っている。あの中には僕たちが作ったものもある。
「どうして古代国家の旗を灯籠にして流すのかしら」
「古い友達を忘れないためだよ」
僕は皐月の手を握りながら静かに答えた。
いまからずっと昔、旧地球世界でのこと。
その大地である惑星の寿命が永遠ではないことは、だれもが知っていた。
人類は、第二の地球を探し求めていた。科学技術が発達したいくつかの国家は、競い合うようにして宇宙へ無人探索船を放った。そのうちのある一つの船が、人類が居住できる可能性を有したひとつの惑星を画像にとらえた。
それぞれの古代国家が、単独あるいは共同開発をして、数多くの宇宙移民船が建造された。そうして、人類は未踏の宇宙へと果敢に飛び立ったのだ。
当時、日本と最も友好的な国家のひとつであったアメリカ合衆国の船は、長い旅の途中まで順調に飛行していたが、トラブルが相次ぎ航路を離脱したという。その後の消息は知られていない。
他にも、友である各国家の船が先行し、あるいは追随し飛んでいたはずなのだが、いずれも行方不明となっていた。
航行システムだけが正常に機能しているものの、生命維持機能が停止し、幽霊船としてただ飛び続ける船や、目的の星にたどりつきながらも、大気圏再突入に失敗し燃え尽きた船もあったという。
過酷な旅を生き抜いて、幸運にも「新地球」へ無事に着陸できたのは、ただ一隻の日本の移民船だけだったそうだ。
この惑星へ根付いた僕らの祖先は、旅の途中で倒れていった友人たちを忘れないためにも、祖国の日本文化だけではなく、他国の文化も尊重して後世に伝えていこうと決意した。
例えば、クリスマスツリーを飾るのは古代北欧諸国の風習であった。ほかにも、英語をはじめとした外国語は生活の中に残っているのだ。
灯籠流しも、その意識の名残りであると言われている。
上流から流れてきた灯籠の群れが僕らの目の前に差し掛かったころ、空に大輪の花火が開いた。
単発で打ち上げられていた花火は、徐々に数を増し、まもなく盛大なスターマインとなった。あたりは大きな歓声に包まれた。隣の皐月はすっかり花火に見とれている。
まもなく季節は一気に秋へ向かうだろう。
冬が来て、次に越冬館に入るときには、僕と皐月はどうなっているのだろうか。また同じ見晴らしのいいベンチに座って、一緒に語らいながら静かに過ごすことができるだろうか。
花火に照らされた皐月の横顔と、灯籠の光とを見ながら、僕はそんなことを思っていた。
帰り道、僕は皐月を送っていった。
いつものように手をつなぎ、並んで歩いている僕たちの前に、長い髪を後ろで束ねた、スーツ姿の女性が現れた。そこはもう皐月の帰る下宿屋の前だった。
僕はその女性を知っている気がした。胸元には、翼のマークのバッジが光っていた。
――八咫烏だ。
僕は緊張し、皐月とつないだ手に力をこめた。
「広河皐月さん。お約束の時が参りましたので、これをお渡しします」
八咫烏は、青い背景に鳥の絵がついた本を持っていた。間に白い封筒が挟んであった。
皐月は動揺した様子でこちらを見たが、僕がうなずくと、両手でその本を受け取った。
「そして、少々説明させていただくことがあります。
――そちらの男性は、ご主人ですか? もしくは婚約者の方でしょうか」
「え、あの、まだそんな……」
言いよどむ皐月。彼女は助けを求めるかのように、僕のほうを一瞬見たが、八咫烏の女が僕たちの間に割って入り、引き離されてしまった。
「ご家族の方でないのでしたら、お引き取り願います」
有無を言わさず、八咫烏は皐月の手を引いて、下宿屋へ入っていった。皐月は振り向きざまに、力のない笑顔で僕に「だいじょうぶ、おやすみ」と言った。
後には僕一人が残された。下宿屋の門灯が音もなく消えた。