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(4) 春

 どこか遠くから、あるいは、蓋をした井戸の底から。

 海の中から、海洋哺乳類の声がするような、しないような。

 耳元に寄ってきた羽虫の音、はるか上空の渡り鳥の鳴き交わす声。

 イメージは浮かんでは消えていく。どれも少し違っている、と思う。


――女の子の泣きわめく声がする。

 

 それは、小部屋ブースの扉の外から聞こえていた。

 僕は寝床に横たわっていた。頭がぼんやりして、体が重い。ただ昼寝していたわけじゃない、ずっと長い間眠り続けていて、おそらく春がきたのだ、と思った。

 部屋の中には僕だけだ。父さんも母さんも姿が見えない。

 外の様子がおかしい。外から聞こえてくる声からすると、何かを叫んでいる女の子と、大人が何人かいるように思えた。僕は胸騒ぎがしていた。

 無理やり体を起こして、そこらへんにあった浴衣のようなものを寝巻の上に羽織り、ぼくは扉を開けた。


「そんなの嘘よ! 母さんは!? 父さんはどこ!?」

 きれいな毛並みをくしゃくしゃにして、皐月さつきは泣いてわめいていた。

 僕の父さんと母さんが、なだめるように付き添っていた。かける言葉もなく、母さんはただ皐月の頭を抱いて撫でていた。父さんは、白衣の大人の女の人となにやら話していた。

「最上階行きって、どういうことなの! そんなの――わたし、何も聞いてない!」

 床に座り込んだまま、皐月は泣き続けた。父さんはがっくりと頭を垂れていた。

 僕は何もできないまま立ち尽くしていた。


「皐月ちゃんが落ち着くまで、となりの部屋で付き添うわね。睡蓮すいれんは心配しないで」

 そう言って、皐月の肩を抱えたまま、母さんは十五号室へ入っていった。

 やがて、一時間ほど経ったころ、皐月と母さんと、白衣の女の人とで、最上階へ向かっていったと、父さんが言った。

 最上階、ってなに。

 そう聞くと父さんは、しばらく黙り込んだあと、静かに口を開いた。

 

越冬館シャンブルの最上階は、終末医療区画だ。皐月のご両親は危篤で、そこに運ばれていった。――体が冬眠に耐えられなかったんだ」


 僕は、一冊の本を手に持って、ふらふらと小部屋ブースの外に出た。父さんはじっと腕組みをしたまま、何も言わなかった。

 頭が真っ白になったまま、エレベーターホールに向かった。

 最上階ってどう行くんだろう、と思って、僕は館内の案内板を見た。エレベーターは四階の居住エリアまでしか行けないようになっている。

 いつだったか、駿馬しゅんめ兄さんが地下庭園に降りたときのように、特別な暗号か何かが必要なのかもしれない。兄さんに聞けばもしかしたら。

――いや、何やってんだ。僕が行ってどうするっていうんだよ。

 急に立ちくらみがして、僕は床に座り込んだ。冬眠から醒めていきなり歩き回ったせいで、貧血でも起こしたのかもしれない。

 壁にもたれて、僕はしばらく呆然としていた。ただ、規則的に明滅するクリスマスツリーの無数の灯りだけを眺めていた。


 エレベーターの箱が、上の階に一度上がり、また下がってきた。

 目の前の扉が開き、黒いスーツ姿の女の人が出てきた。目鼻立ちがはっきりしていて、艶のあるダークグレーの毛並みをしている。ぜんぜん飾り気がなくて、襟元には翼のマークのバッジがついていた。

 黒スーツの女の人は、僕の横を通り過ぎて水平エスカレーターに乗り、僕らの小部屋ブースがあるE区画へ向かった。

 装飾のない黒い服は喪服だ。

 もしかしたら皐月の親戚の人かもしれない。僕は重い体を起こして、ふらつきながらも動くベルトに乗った。

 皐月とその両親が入居していた十五号室の扉は、半分開いていた。きっとさっきの女の人がいるのだろうと思った。

 僕は、その女の人に何を聞こうか、そして自分のことをどう説明するべきかを考えながら、思い切って声をかけるべきかうじうじ悩んでいた。

 いきなり扉が開いて、黒スーツの女性が出てきた。

 手には見覚えのあるハードカバーの本を持っている。青い背景に白い鳥。冬眠前の最後に会ったとき、皐月が持っていた本だ。その本には、白い封筒らしきものが挟まれていた。

 僕が戸惑って立ち往生していると、その女性は堂々とよく通る声で言った。

「わたしは八咫烏やたがらすの者です。このことは一切他言無用です」

 うろたえる僕の横を通り過ぎ、背筋をぴんと伸ばしたまま、その女性は水平エスカレーターに乗って行って、視界から消えてしまった。

 僕はただ呆然と見送った。


 数日ののち、母さんから、皐月の両親が亡くなったと聞いた。皐月は一人っ子でほかに兄弟もなく、父方の親戚に引き取られることになったらしい。一度、それらしき人が荷物の整理にやってきていた。

 皐月が十五号室に戻ってくることはなかった。


 冬眠から目醒めても、雪解けと除雪作業の進行を待つあいだ、街の人々は越冬館シャンブルにとどまる。

 僕は、図書館に通っては本を借りてきて、外縁通路のベンチで本を読むことを毎日繰り返した。

 駿馬しゅんめ兄さんにスケートをしないかと連れ出されて、へとへとに疲れ切った日でも、日没前でさえあれば本を持ってベンチに行った。

 あれだけ楽しみだった冒険物語を読む気にもなれず、僕は主に勉強と調べもののために本を借りた。あまり一冊に集中することができずに、あちこちをつまみ食いするかのように読んでは返却していた。


 最上階とは何か。

 僕は、父さんにも母さんにも、駿馬兄さんにも聞かずに自分で調べたかった。

 越冬館シャンブルに滞在している間、僕たちが身につけているリストバンドは、位置情報発信機能、小部屋ブース自動鍵オートロック機能を基本性能で有している。

 高齢者や幼児、傷病者には、さらに体温計と心拍計の自動計測および発信機能も備わっているタイプのものが支給される。

 数値に異常が現れると、医療スタッフに自動で通知されるようになっており、もはや手遅れである場合には、眠ったまま最上階に移送される。

 最上階は死を待つものが眠る区画だ。

 冬眠は、体力が低下している者にとっては命がけの綱渡りに等しい。

 弱っている者ほど、眠りは深く冷たい領域まで一気に沈み込んでしまう。すると、春になっても眠りから目醒めることができない。それは、天に召される準備が始まったことを意味する。あらゆる蘇生措置はそれを止められない。

 それを一般的に老衰と呼ぶ。

 夏の間に老衰で亡くなる人もいるけれど、冬眠中のそれよりはずっと少ない。

 皐月の両親は、遅い結婚をして、肉体的な限界といわれる七齢目に初めての子供をもうけた。

 高齢になってからの初産というのは、両親ともに大きな身体的負担がかかる。高齢出産と育児を経験した皐月の両親は、おそらく見た目よりもずっと衰弱していたのだろう。


 明日か明後日には、越冬館シャンブルを引き払って、自宅に帰るということになった。

 その日も僕はあの窓際のベンチに座っていた。

 ガラス越しに、除雪車が忙しく走りまわっているのが見える。白く凍りついた街並みは夕陽を受けて黄金色に輝いているように見えた。

 皐月にはあれから一度も会えなかった。

 彼女はどこにいるのだろう。この建物の別の区画か、違う階にでもいるのだろうか。あるいは地下通路からよその越冬館シャンブルへ移ったのだろうか。それとも、まだ最上階でご両親に付き添っているだろうか。

 最上階のことを考えるとき、心の中になにかひんやりとしたものが忍び込んでくる気がした。

 ここにいると凍えそうだ。

 僕は本を手にして立ち上がった。窓の外の、まもなく目覚めるであろう街の風景と、誰もいないベンチを背にして、僕は歩きだした。もうすぐ、春が来る。



「――と、皆さんの記憶にもあると思いますが、わたしたちの体を寒さから保護するために、冬になると換毛が起こり、温かいふわふわの毛が生えてきます。

 しかし、それだけでは冬眠中の体温を維持できません。補助的に、地熱や太陽熱、あるいは電力などを利用した暖房システムが必要不可欠なのです。それがないとわたしたちは眠ったまま死んでしまうでしょう。

 冬季に、各家庭がそれぞれの家で過ごすことは、エネルギー効率法に違反し、また凍死などの危険が大きいので、原則で禁止されています」


 まるで退屈な授業だった。

 中学校に進んだといっても、小学校と同じ敷地内に校舎があるので、たいして新鮮な気分にはならなかった。

 ただ、クラスが再編成されたので、いたずらっ子だった藤見とは別の学級になったことが変わったといえば変わった。

 この自然科学の授業が終われば昼休みだ。空腹感もあり、授業には身が入らなかった。

 ふと教室の窓の外を見ると、散りかけて葉っぱだらけになった桜の木が見えた。

 朝からずっと良い天気で、日差しは教室の中のほうまで暖かさを運んできた。

 僕は知らないうちにうとうとしてしまった。頬杖で支えられていた僕の頭が、がくりと大きくバランスを崩したところを、先生は見逃してくれなかった。


「――というわけです。さて、二穣にじょう睡蓮すいれんくん。先生は今、この『新地球』の公転周期が、およそ何日だと言ったでしょうか」


 しまった。先生の話をまったく聞いていなかった。

 教室のあちこちから、くすくすと笑う声が聞こえた。僕は頭をぽりぽりと掻きながら答えた。

「およそ――ええと……公転周期は3285日です。『旧地球』の暦換算だと、だいたい九年です」

 おおう、と、教室中から感嘆の声が上がった。

 慌てて手元の教科書に目を落とすと「公転周期はおよそ3300日である」と書かれていた。本当はこう答えるべきだったのだろう。

 目論見がはずれた先生は、ため息をついて言った。

「睡蓮くん、自宅学習を熱心にするのもけっこうですが、睡眠時間は充分に確保しなさい」

 今度は誰も笑わなかった。

 そのあとは普通の授業に戻った。僕の眠気はすっかり吹き飛んでしまった。

 目の前に開いてある「旧地球の自然と歴史」という資料集は、少しは面白かったけれど、僕にとってはほとんど復習に過ぎなかった。

 先生がボードに何かを書いている間、僕は資料集を二、三ページめくってみた。旧地球人と現在の地球人との、年齢換算表が載っていた。


 旧地球では、公転周期の365日を一年と数え、そのたびに人間の年齢を一歳加算していた。

 それに対して、現在の新地球での年齢の数え方は、季節が一巡して一齢いちれいと数える。

 日数をベースにして計算すると、新地球人の一齢は旧地球人の九歳ぶんに相当するが、単純に九で割ると年齢を換算できるわけではない。古代にはなかった冬眠というサイクルが発生しているせいだ。

 僕はいま、三齢目の春を迎えているから、旧地球人でいう十四歳前後に相当するらしい。次の冬眠の準備をするころには十八歳くらい。一齢上の駿馬兄さんは、現在二十歳くらいにあたる。

 皐月の両親は八齢目の冬眠と言っていたから、旧地球の年齢では六十歳代の後半から七十歳といったところだ。本来はそれほど死亡率の高い年齢ではないはずだった。


 終業のチャイムが鳴り、午前の授業が終わった。

 教室のあちこちで、女子が机をくっつけて弁当を広げ始めた。男子の半数くらいは売店にパンを買いに行ったらしく、残った者はその場で昼食を食べ始めた。

 僕は、机の上に弁当箱を出したまま、突然両親を失った皐月の悲しみのことを思った。

 教室の外の晴れた空も、校庭ではしゃぐ小学生たちの姿も、目には見えているけれど、どこか遠い世界のことのように思えた。

 クラスメイトたちが楽しそうに笑い合っていても、僕と彼らの間には透明の壁があるような気がした。僕の視界にないどこかで、音もなく雪が降っているように思えて仕方がない。

 まずい兆候だ。

 そう思った次の瞬間に、強烈な眠気が襲ってきた。床だろうが地面だろうが、横になればすぐに熟睡できそうだった。

 僕はかろうじて意識を保ちながら、保健室へ向かった。


 保健室の校医さんは、僕の顔を見るとすぐに、強力な液体カフェイン剤を一本くれて、学校が終わったら心療病院に行きなさい、と言った。

 また母親のところに連絡が行って心配させるかと思うと気が重かったが、放っておくと延々眠り続けてしまうらしいので、仕方なかった。

 僕は、冬眠後遺症であると診断されていた。

 思春期の、僕たちの世代では時々ある症例らしい。

 原因ははっきりしていないが、感受性の強い時期に越冬館シャンブルで何か大きなストレスを経験すると、冬眠状態から完全に脱出できずに、春になっても低体温や異常な眠気などの症状が出るのだそうだ。


 放課後、おとなしく行きつけの病院に向かった。

 いつも通りの心理テストと問診を行い、血圧脈拍やら体温やらの測定をひととおり行った。

 医者の話では、この病気は悪化するということはほとんどなくて、夏が近づくと自然に治ってしまうので心配ないのだそうだ。

 ただ、学校で意識もなくなるくらい深く眠り込んでしまっては大変だし、対症療法でもしないと心も塞いでしまって精神衛生上よくない、という面があった。

 夜遅くの勉強や読書はほどほどにして、なるべく日光を浴びて運動をよくするように、と、前から散々言われている注意事項をまた繰り返された。カフェインの錠剤も処方してもらった。


 中学校に進んでから僕の興味は、旧地球学と、古代日本文学に傾いていった。

 旧地球の主要言語であったといわれる英語の勉強も面白そうではあったが、進路選択次第では一部の高校でも勉強できるらしいので、後回しにすることにした。

 僕は暇さえあれば本を読んだ。おかげさまで、数学以外のペーパーテストの成績は良かったけれど、初夏近くになるまで冬眠後遺症を引きずっていた僕は、母や駿馬兄さんを大いに心配させていた。

 高校は、県内トップレベルの森羅しんら高等学校を受験することにした。

 あまり勉強ばかりしているのは良くないのではないかと、母さんは不安そうにしていたけれど、僕は面白くてやっていることなので、それは余計なお世話であった。

 むしろ、駿馬兄さんに半強制的にやらされるスポーツのほうがずっとしんどいと思っていたくらいだ。

 でも、そうやって無理にでも外出して体を動かしたのは、結果的には良かったのだ。それがなければ僕は部屋に引きこもってばかりだったし、冬眠後遺症はもっと長引いていただろうから。


 その後、僕は高校受験に成功し、合格発表の会場で、あの皐月に似た女の子を見かけた。


 越冬館シャンブルで会ったときは、ふわふわでしましまの冬毛だったから、肩までの黒髪という姿はずいぶん印象が変わっていたけれど、あの琥珀のような瞳は忘れはしない。きっと皐月に間違いないという確信が僕にはあった。

 高校は少し遠かったけれども、自宅から通学することにした。入学祝いに、両親から電気モーター付き自転車を買ってもらった。

 皐月には会えるだろうか。もしも会ったらどう声をかけたらよいだろうか。

 それとも、僕のことなんて忘れているだろうか。


 明日から高校生活が始まるという夜に、僕は持ち物をつめこんだ鞄を机のわきに置き、制服をクローゼットの取っ手に引っかけて、すぐ着て出られるように準備万端にしていた。

 そして、いつかしたように窓の外の灯りを眺めていた。

 これからきっと何かが変わる。次の冬眠に入るころにはきっと、僕の人生はまったく別のものになっているような気がする。それでも不思議と怖さは感じない。

 僕は窓を開けた。初夏のさわやかな外気が部屋に流れ込んでくる。

 顔を出してあたりを見回した。当たり前だが雪など見えない。そりゃそうだろう。僕はおかしくて一人で笑ってしまった。

 僕の頭の片隅の、どこかで雪が降っているような感覚は、すっかりなくなっていた。カフェイン剤はもう必要ない。

 もうすぐ夏も盛りだ。ぼくは希望で胸が高鳴るのを感じていた。

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