(2) 初冬(二)
「いやあ待たせたねぇ。いよいよ本題だ」
そう言いつつ、駿馬兄さんはエレベーターに乗った。ぼくもはぐれないように乗り込んだ。
エレベーターに乗っているのがぼくたち二人だけであることを確認すると、階数を押すためのボタンを、なにやらでたらめに叩きはじめた。
エレベーターの行き先表示が、地下を示すBになって、ぼくらの乗った箱が下へと降りはじめた。地下は駐車場だと思っていたけれど、何をしにいくのだろうか。下降が止まり、扉が開いた。
目の前には、コンクリートで囲まれたまっすぐな通路が伸びていた。青白く頼りない電灯の光が壁と床を照らしていた。ほかに何も見えなかった。
「こっちだ」
駿馬兄さんは、通路をまっすぐ進んでいく。ぼくたちの足音だけがこつこつと反響していた。
「おまえさ」
じっと前を見たまま兄さんが言う。
「時雨さんのこと、からかって遊んでただろう」
ざわっと背中が寒くなった気がした。どうして知っているんだろう。
「やりたかったわけじゃないよ」
「まあ、そうだろうな」
兄さんは表情を変えていない。怒っているような気配もなかったけれど、その静けさがぼくはかえって怖かった。
「学校から連絡があったんだよ。たぶん主犯格は別なんだろうけど、誤解を生まないためにも、家庭で指導してください、ってね」
誤解? 指導?
言っている意味がよくわからないまま、ぼくは歩いていた。前のほうに頑丈そうな扉が見えてきた。
「母さんに事情をきいて、それならおれのほうが適任だろうと思ってさ」
ぼくらは大きな金属製の扉の前に到着した。
扉の横の壁に1から9までの数字の書かれたキーが並んでいた。兄さんは素早い手つきで迷わずキーナンバーを打ち込んだ。
「――憶えたって意味ないぞ、この番号、毎日変わるから」
そう言いながら、兄さんは最後に白いキーを押した。扉の上に緑のランプが点灯した。
兄さんがドアノブを回した。重くきしむ音がして扉が開いた。
そこで僕が目にしたのは、光が降り注ぐ庭園だった。
学校の体育館以上の広さがありそうなその庭には、樹木が青々と茂り、地面は芝生に覆われていた。整えられた花壇には、赤やピンク色のきれいな花が咲き誇っていた。土と緑のにおいがした。
ぼくたちが歩いてきたコンクリートの道は、足元だけでまだ先に続いていた。道は庭園をまっぷたつに分けるようにして、そのままずっと奥まで伸びていた。
駿馬兄さんは、コンクリートの道から外れて芝生の上を歩き出した。
後をついていくと、かざり石で囲まれた池があった。石のかげには苔らしきものも生えている。近くにあった木製のベンチに、兄さんは腰かけた。ぼくも並んで座った。
上のほうを見ると、太陽の光かと思っていた光源は人工のライトだった。それにしては、本物の太陽光に似ている気がした。
「兄さん、ここは何なの?」
「常緑の庭だよ。ここだけはさ、真冬でもずっとこのままなんだ」
「ぼくは知らなかったよ」
「そりゃ、小学校では教えないだろうな。そもそも、おおっぴらにしていないしな」
兄さんが、いつのまにかぼくの全然知らない世界の人になっていたみたいで、なんだか少し不安だった。
ぼくは兄さんのほうを見られず、ずっと池のほうを見ていた。ときどき水面にちいさな波が立つ。魚でもいるのだろうか。
「おまえ、時雨さんって、どういう人だって思ってる?」
「どういうって――ええと、夏の間は、通学路で誘導してくれたり、ごみを拾ってくれていたりして、普通のやさしいおじさんだと思ってた。でも、冬になっても冬の毛に生え換わらないから、なんかおかしいって噂になってさ。クラスの誰が言いだしたのかわからないけど、あれは――遺伝病だって」
ふうん、と小さな相槌を打って、兄さんは人工灯が輝く天井を見上げるように、背あてにもたれかかった。
「――病気、か。それがなんで、おまえたちの笑いの種になったんだ?」
「ぼくたちは、顔はげ病って呼んでた。顔はげ病だと、顔はげの子どもが産まれるから、結婚もできないし、まともな仕事にも就けないんだって。だから、地下作業員になるしかないんだって」
「時雨さんは、社会の落ちこぼれだということか?」
「うん……。ぼくのまわりのみんなは、そんな感じで言ってた」
「おまえはどう思うんだ」
ぼくは、クラスのみんなが騒いでいたからそう思っていただけで、自分で考えたことなんてなかった。だから、兄さんの問いに答えるには少し時間がかかってしまった。
「――もし自分が顔はげ病だったら、みんなにそんな風にからかわれたり、地下作業しか仕事がないんだって思う。それは悲しいと思う」
「なるほどな」
兄さんは深く息をついて、まわりをゆっくりと見回した。
どこかからモーターが回るような音がする。なにかあるのかと思ってぼくも見てみたが、変わったことはなかった。強いて言うなら、小さな白い花をつけた低木を見つけただけだ。
「つまり、時雨さんは気の毒でかわいそうな人だ、と。それがお前の考えだな」
「う、うん、まあ」
兄さんの話はなんだか少し難しい。いまの質問に正解はあったのだろうか。
「そろそろかな」
茂みの奥のほうを兄さんはじっと見ている。さっきから聞こえているモーターのような音は近づいてるような気がした。そうだ、この音は聴いたことがある。
「回転鋸の音?」
「あたり」
木々のすき間から、雑草が刈られて勢いよく飛ばされている様子が見えた。誰かが庭の手入れをしているんだ。草刈機を操っている人影は近づいてくる。顔に毛が生えていないその人をぼくは知っていた。
「時雨おじさんだ!」
地下で働いているという噂は本当だったのだ。時雨おじさんは草刈機を持ったままこちらを見た。ぼくたちに気づいたようだ。
駿馬兄さんは立ち上がり、時雨おじさんのほうを向いて深く一礼をした。
モーターの音が止まった。次に聞こえたのは駿馬兄さんの声だった。
「お疲れ様です、時雨部長」
部長さん。
ぼくにはよくわからなかったが、たぶん会社とかのけっこう偉い人だ。テレビドラマなんかで出てくるし、父さんの話にも時々部長がどうしたとか出てくる。ちなみに父さんは課長らしい。
「おお、駿馬くんかね。きょうも自主研修とは熱心だね」
時雨おじさんがにこやかに言った。ぼくはもう何が何だかわからなかった。
「いえいえ。きょうは半分遊びにきたようなものです。こいつは、いとこの睡蓮っていうんですが、社会科見学でもさせようと思いまして。許可はとってあります」
「ああ。きみは睡蓮くんというのか。いつも見ていたよ。なかなか利発そうな子じゃないか」
時雨おじさんは、夏の間に通学路で見せてくれたような笑みを浮かべている。
「とんでもありません、先日も失礼をしたみたいで」
先日の失礼というのが何であるかは、さすがにぼくにも理解できた。
「ごめんなさい」
ぼくはぺこりと頭を下げた。
「ふうむ。睡蓮くん、きみが謝っているのは、どうしてなのかな」
「時雨おじさんは、ぼくたちに親切にしてくれていたのに、ぼくたちがばかにしたからです」
「でも、きみはあのとき本当は歌っていなかったろう。違うかね」
「歌うふりをしました。そうしないと仲間はずれにされると思ったからです」
ぼくは自分のことしか考えていない卑怯者だったんだ、と気がついた。自分が小さいものに感じられて、どこかに隠れてしまいたかった。
「ははは、頭がいい子だな。きみの賢さは、大人になってからきっと役に立つぞ」
時雨おじさんは豪快に笑いながら、ぼくの頭に手をあてて、ぽんぽんと軽く叩いてくれた。
「部長、それでは、長いものに巻かれるだけの大人になってしまうんじゃありませんか」
焦った様子で横槍を入れた駿馬兄さんに対して、時雨おじさんはにやにやと笑っていた。そしてぼくに言った。
「睡蓮くん。きみのいとこの兄さんはやさしくて、まじめすぎるんだ。まじめでまっすぐなことと、賢く立ち回れることは、どちらも長所なんだよ。きみは大人になったら、その頭のよさを、自分の身を守ることだけじゃなくて、人のためや社会のために役立てなくてはならない。勉強ってのはそのためにするもんだ」
「はいっ」
ぼくにはまだ分からないところもあったけれど、きっと時雨おじさんはもう怒っていなくて、ぼくを励ましてくれているんだ、と思って、うれしくなった。
「そうだ部長。こいつ、部長のことを病気でかわいそうだって思ってるみたいなんです」
「なるほど、小学生の頃はそんなもんだろう。よし、睡蓮くん。この池の中を見てみるといい」
ぼくはしゃがんで、池の中をのぞきこんだ。よくみると赤い小さな魚がたくさんいる。ひらひらと尾を振りながら、追いかけ合うように連れ立って泳いでいた。
「すげえ、本物の金魚だ!」
金魚なんて、テレビや図鑑でしか見たことがなかった。冬の管理がたいへんなので、家庭ではふつう飼育できない。
一瞬、白いものがちらりと見えた。それは群れにまぎれ、岩影に隠れてすぐ見えなくなってしまった。
「なんか違うやつが一匹いる」
「見つけたかい。それもおなじ種類の金魚だ」
「でも、みんな赤いのにそいつだけ白いよ」
時雨さんは、ぼくの横にしゃがみこんで、水面を見ながら僕に話してくれた。
「――わたしは、その白いやつと同じようなものなんだ」
病気ではない。障害というわけでもない。
その白い金魚は、アルビノと言って、生まれつき色素が全部抜けたものだ。人間にだってアルビノはいる。わたしはアルビノではないから、正確な説明とはいえないが、たとえ話と思って聞いてほしい。
白い金魚は、みんなとはちょっと変わった形質が遺伝して、たまたま表面化したものなんだ。そういう意味で、わたしとそいつはよく似ている。
わたしのように、冬になっても毛が生え換わらない者は、非換毛型遺伝形質、と呼ばれている。もっと簡単に、古代人と言ったりもする。
なぜ古代人というかって?
ずっとずっと昔、人間は冬でも顔がはげていたんだよ。
旧地球人は、だれも冬眠なんかしなかった。だれも冬の毛に生え変わらなかった。小学校の授業で、ちょっとは聞いたことがあるんじゃないのかな?
わたしたち古代人は、冬毛が生えないというだけではない。厳冬期でもなぜか冬眠しないんだ。
冬眠しない、というよりは、眠りが極端に浅い、と言ったほうがいいかもしれない。
少しの物音でも目が醒めてしまうし、ときどき腹が減って何かを食べたくなる。食べ物があった上で、その気になればしばらく起きていられる。
ふつうの人間が冬に起きているためには、特別な体調管理と、何種類もの薬が必要になる。すこしのカフェイン剤だけで、夏とおなじように一日中働けるのは、わたしたちだけなんだ。
はるか昔より、古代人は一定数生まれ続けた。
そして、街のみんなが越冬館で眠っている間に、地下に潜ったり発電所にこもったりして、みんなのところに電気や水が無事に届いているかどうか見守り続けている。
古代人は地下でしか働けない、という噂はあながち嘘ではないけれど、それは自分の役割を果たしているだけで、かわいそうなことではないんだ。
結婚して子どもをつくることもできる。子供も古代人に生まれる可能性は比較的高いと言われているけれど、そうでなくても時々古代人は生まれるもんだ。
それに、わたしたちみたいなのは、ふつうの人間よりも長生きなんだ。
冬の間起きているのにおかしな話かもしれないが、実際にそうなんだよ。皆と違うという不便はあるが、そんなに悪い人生ではないと思うがね。
その日の夜は、自宅で過ごす最後の夜になった。
ぼくは小学校時代をずっと過ごした自分の部屋で、しばらくの間窓の外を見ていた。ここから見る景色ともしばらくお別れだ。次に戻ってくるとき、ぼくは中学生になっている。
きょうは色々なことがあった。
図書館では、国語ではぜったい勝てないと思う女子に会った。あの子が同じクラスにいてほしいような、いてほしくないような、変な気持ちだ。
越冬館の地下では時雨おじさんに会った。しかもなんか偉い人みたいだった。少し難しい話も聞いて、全部は理解できなかったけれど、昔の人はみんな時雨おじさんみたいだったというのには驚いた。
金魚をたくさん見た。時雨おじさんは、友達には内緒にしてくれって言っていた。
そういえば、駿馬兄さんと時雨おじさんは、知り合いだったのだろうか。
地下の庭ってなんのためにあるんだろう。どうしてみんなに教えないんだろう。
不思議なことはたくさんあった。
大人は時々、大人同士でないとわからない話をする。ぼくも中学校でもっと勉強をして、大人になったら、全部わかるようになるのだろうか。難しい本も読めるようになるだろうか。
いつから大人になるんだろう。もしかして、冬眠から醒めて春になったら、ぼくたちはみんな揃って大人になるのかな。
窓の外から見える灯りは、ここ何日かでだんだん減ってきている。
向かいの一家はきのう越冬館へ入ったらしい。ぼくら全員がいなくなったら、この街は真っ暗になって、夜空の星がきっときれいに見えるんだろうな。
ちらちらと雪が降ってきた。急に寒気を感じて、ぼくは灯りを消して布団に入って丸まった。
それからすぐに眠ってしまった。