(10) プロムナード(下)
主催者のあいさつが終わり、体育館内の照明がふたたび明るくなると、軽食やフルーツなどが運び込まれてきた。フロアの中心に集まっていた人混みは、後方の飲食コーナーのほうへ移動をはじめた。
放送席から、夕凪が僕を手招きしていた。近づくと彼女は僕に言った。
「いい? 桂に聞いたと思うけれど、最初の曲が流れたらすぐ行って。いまならフロアの真ん中はすいているし、最初に踊ってしまって落ち着いてから、あとは二人で気楽に飲み食いしていればいいのよ。
もしもみんなが不意をつかれて、あなたたちの他にだれも踊っていない、なんてことのないよう、わたしと桂とで知り合いの何組かには教えてあるわ。ここまでお膳立てしたんだから、絶対に行きなさいね」
有無を言わさない迫力でそう言ったあと、夕凪はフロアの中央のほうに向かって、僕の背中をぽんと押した。皐月は知ってか知らずか、笑顔で夕凪に手を振っている。
照明がゆっくりとフェイドアウトしていった。代わりに体育館の中央をいくつもの光の輪が照らして、フロアを華やかに浮かび上がらせていた。
桂の声が館内に響き、舞踏会の開幕を告げた。
そのとき、おそらく誰もが予想だにしない音楽が流れ始めた。
森羅高等学校の卒業舞踏会の長い歴史にも類を見ないであろう、その曲はワルツであった。
もう引っ込みがつかない。僕は皐月の手をとって、ざわつきが収まらないフロアの中心部へ進み出た。
ロックバンドによって現代風にアレンジされているとはいえ、原曲は旧地球時代のクラシック音楽である。それすら知らない人が大半だろう。
あらかじめ知らされていた一部の友人以外は、あの音楽マニアの桂がついに常人の理解を超えた領域に達した、とでも思ったに違いない。
さきほど彼から聞かされた話が頭をよぎる。
――最初はそんなの無理だって断ったんだよ。おれ、自称イケてるディスクジョッキーの沽券にかけて、ダンスパーティーにワルツなんぞを流すわけにはいかないって。
でもさ、夕凪がさ、すごい必死でおれに頼むんだよねぇ。睡蓮と皐月のためなんだから、なんとかしてよ、ってさ。もう土下座でもしそうな勢いだったから、おれ、つい引き受けちゃったんだ。
そりゃ後悔したよ。場が白けないようなやつで、イメージに合うやつ探すの、すごく大変だったんだぞ。
まあ、こんな超レア音源持ってるのおれくらいだろうから、もう逆に自慢しちゃうけどね。
ワルツは、僕が唯一踊れるステップだ。
体育の点数をもらうために、反復練習して丸暗記したのが幸いし、まだ体がおぼえていた。
僕と皐月は、すいているフロアで曲に合わせてステップを踏んだ。ワルツの基本ステップをそのままやると移動が大きくなり、混雑したスペースで踊ると危ないというので、桂たちがわざわざ、フロアに空きがあるであろう時間を狙ってくれたのだ。
桂と夕凪の友人たちなのか、他にも何組かのカップルが踊っていた。彼らのほうが明らかに上手であるが、僕も皐月の足を踏まない程度にはできている。
視界の隅に、桂と夕凪が笑顔で手を振っているのがちらりと見えた。合図を返す余裕はとてもなかった。
皐月はずっと楽しそうに踊っていた。ドレスの裾に散りばめられた小さなガラスビーズが、照明を反射してきらきらと揺れていた。
いつのまにか、周りで踊っているペアが増えてきた。気が付くと、体育館じゅうで皆がワルツを踊っていた。リズムに合わせて館内に手拍子が鳴り響いていた。
音楽が終わって、僕たちは観衆に向けてお辞儀をした。
割れるような拍手と歓声に包まれ、それがどうやら、主に僕と皐月に向けられたものだと気づいて、驚いた僕たちは思わず顔を見合わせた。
席に戻るまでの間、方々から僕らは声をかけられ、激励の言葉を受け取った。桂と夕凪も、こちらに向けて大きく手を振ってくれていた。
その次の曲からは、最近流行のロック調の音楽が流れ始め、いわゆるダンスパーティーの雰囲気になっていった。僕たちは、後ろのほうの席に座って軽く飲食しながら、踊っているカップルを眺めていた。
「ねえ、少し早目に出ない? 話したいことがあるの」
皐月が僕に耳打ちをした。時計を見ると、そろそろ日没が近い時間だった。僕は会場を出る前に、桂と夕凪にあいさつをしようと思ったが、ディスクジョッキーの席に二人の姿はなかった。
フロアで桂と夕凪が踊っている姿が見えた。音楽は自動演奏に切り替えたのだろう。
僕と皐月は、黙って体育館を後にした。
校門の前に、翠の車が待っていた。
僕たちは一緒に乗り込んだ。何も言わなくても車は発進した。
最初に口を開いたのは皐月だ。
「翠さん、彼にすべて明かしても良いですか」
「もちろんです。婚約者として承認された睡蓮さまには、きちんと説明しなくてはいけません。皐月さまが直接話されますか?」
「そうします」
膝に乗せた可愛らしいピンク色の花束とは対照的に、何かの決意を秘めた皐月の瞳は、凛として輝いていた。翠はまっすぐ前を見て運転しながら言った。
「わかりました。ではわたくしからは一つだけ。睡蓮さま、もしも今後、いずれかの組織の者に、古の名を明かすよう求められたなら、『因幡一族の亜麻兎』であるとお名乗りください」
車は夕陽に照らされた街を走り、見覚えのある並木道に入った。ここは越冬館へ至る道だ。ただし、僕が普段から使っている南口ではなく、反対側の北口のほうに来ていた。
僕と皐月は車を降りた。翠は車をどこかへ走らせて行ってしまった。
回転扉をくぐり館内に入ると、皐月は水平エスカレーターの動くベルトには乗らず、目立たない細い通路に入った。
僕も古書室へ通うようになってからその存在を知ったのだが、越冬館の端の四か所には、主に地下の職員やその関係者だけが使う業務用のエレベーターがあるのだ。
慣れた様子でそのエレベーターに乗り込み、皐月の細い指がパスワードを入力した。僕らの乗った箱は下に降りていった。
到着したフロアは、皐月によると地下作業員の居住区画だということだった。
通路の床にはきれいなカーペットが敷かれている。地下にあるという違いだけで、越冬館の一般居住区画と似たような雰囲気だ。まだ光を放ってはいなかったが、立派なクリスマスツリーも置かれていた。
通路にはいくつもの扉が並んでいた。皐月はそのうちの一つを開き、僕を招き入れた。
僕らが部屋の中に入ると、自動的に照明が点き、室内を照らした。
ぱっと見ただけでも、ダイニングキッチンとリビングルーム、ベッドルームがあるようだ。それらは一般の越冬用の小部屋よりも大きくて立派なつくりだった。
リビングには、大画面のテレビがあり、僕がこれまで見たことがない小型記録媒体と、その再生機器らしい箱型の機械が数種類あった。共通のディスプレイとしてテレビ画面を使っているためか、たくさんの接続ケーブルが床をうねうねと這っていた。
「わたしのこと、だいたい知っているのよね」
そう言いながら、ケーブルのうちのひとつを皐月はディスプレイにつないだ。大画面が一瞬真っ白に光り、古代言語で書かれた目次が表示された。
――これは、旧地球時代の映像記録だ。
時雨部長からレポートをするように言われた、例の秘密文書を読んだときに気づいていた。あの書物には、どうも文脈がおかしい部分が何か所もあるのだ。
これほどの重要文書なのに、筆力や構成力に難がある者に筆を任せたというのだろうか?――まずは、それが僕の抱いていた違和感だった。
所詮お役所仕事ならそんなものだろうか? 最初はそうも考えた。
しかし違ったのだ。あの書物は秘密文書でありながら、既に検閲されていたのだから。大方、情報部のお偉い方が、都合の悪い部分を削除して、適当に中身を継ぎ合せたのだろう。
時雨部長が若い頃に読んだというものは、僕が読んだ本の「検閲前の原本」であるか、あるいは「対の書」であるかの、どちらかである。
いずれにせよ、時雨部長の読んだバージョンでは、「八咫烏」の記述があったということだ。
僕が読んだ版で「八咫烏」に対応しそうな語句は「麒麟」である。概要はこうだ。
――男系男子の血統からなる氏族の長は、秘密情報を受け継ぎ守っている。それを監視しているのが情報部の麒麟である。
では、検閲されてしまった「八咫烏」についての記述があったとしたら、何が書かれていたのか。
たとえば、こう考えると、説明がつきやすいのではないか。
――女系女子の血統からなる氏族の長は、秘密情報を受け継ぎ守っている。それを監視しているのが情報部の八咫烏である。
皐月は女系一族の氏族長である。
この考えを地下庭園で時雨部長に話したとき、否定をされなかった。つまり、そういうことだった。
女系一族は姓名で判別できない。おそらくは男系一族よりも更に知られざる存在として、歴史の陰に埋もれながら、世に出すことのできない何かを守ってきたのだろう。
皐月は幼い頃から、他はともかくとして国語の勉強だけはするように、と母親からしつけられていた。
母親は、おそらく自分の寿命が長くはないことを知っていて、生きているうちに娘に古代日本語を教えたかったのかもしれない。
わざと難しい本を、皐月の眠気が強まる冬眠直前に買い与え、最後の手紙をそれに挟んだのも母親だ。万が一の場合には八咫烏が持ち去る可能性まで予測し、どちらに転んでも皐月が混乱しないように準備していたのだ。
僕と皐月は、リビングのソファーに並んで座り、目の前のディスプレイに映し出される映像を見ていた。
「これが、きみの一族が守ってきた記録なのか」
皐月はうなずいた。
「守るっていうのは、ただ倉庫にしまって保管しておくことじゃないの。
たとえば、古い磁気記録媒体は、長い時間がたつと記録そのものが揮発してしまう。その前に、新しい形式で、新しい媒体に記録しなおすのよ。必要があれば、より原始的な媒体に変換する。――たとえば、文章に起こして紙に印刷するってことね。
古い言語で記述された文献やテキストデータも山ほどあるの。それは可能な限り現代語訳にして、次の代に引き継いでいくんですって。わたしの母さんもおばあさんも、そうして生きてきたんだって。
わたしたちの先祖が、旧地球からこっちの世界に持ち込めたのは、ごく一部の生命の遺伝子と、わずかな物資と、圧縮された多くの情報だった。
男系一族が管理しているのは、どれも封印された旧技術に関係するものだけれど、女系一族が持っているのは、いわばただの昔の思い出なのよ。科学的価値なんてほとんどないの」
皐月の言葉を聞きながら、僕は目の前の映像をみていた。
青空の下、高層ビルが立ち並ぶ街の中で、群衆が広い道路を占拠していた。
黄色人種、白色人種、黒色人種……。資料映像でしか見たことのない、旧地球のさまざまな人類たちが、横断幕やプラカードを掲げ、歩きながら何かを叫んでいる。
書かれている文字も、話し言葉も、それらはいずれも古代言語で、ほとんどは英語であるようだ。
すぐに判読できるものは少なかったが、そのうちのいくつかは「友を見捨てるのか?」「リーダーは臆病な逃亡者だ」「真実を明らかにしろ」……などと書かれていた。
これがいわゆるデモ行進っていうやつか、と僕は考えていた。
場面が切り替わり、デモ行進の参加者たちは、広い敷地で塀に囲まれた立派な建物を取り囲んでいた。
『真実を明かせ! 我々を見捨てるな!』とのシュプレヒコールが繰り返され、そのうちに、塀を乗り越えようとする者や、なにかを敷地の中に投げ込む者が現れ始めた。
投擲したもののうちの一つが火を噴いた直後、群衆の頭上に白煙が上がった。人々は目や口をふさぎ逃げ惑った。動けずにうずくまる者や、地面に倒れこむ者もいる。
また場面が変わり、数人の男女が後ろ手に縛られ、銃を突きつけられて、兵士らしき人間にどこかへ連行されている様子が映し出されていた。
画面が一度暗転し、ふたたび明るくなった。
そこに映っているものは古代の宇宙船だった。恒星間飛行を可能とした機体のうちのひとつだ。それは地上の発射台に固定されていて、あとは飛び立つだけのように思われた。
宇宙船の機体から、小さな爆炎があがった。
爆発は連鎖し、またたく間に機体のすべてを覆い尽くした。すこし遅れて、赤色灯をともした緊急車両らしきものが、たくさん走っていくのが見えた。
画面が変わり、迷彩服を着て銃で武装した精悍な男が、大きく画面に映し出された。
何か喋っていたが、日本語でも英語でもなく、とても聞き取れない。もしも古代日本語の字幕があらわれなかったら、その意味はまったく分からなかっただろう。
『――母なる大地を打ち棄て、この世の理に背き、真実を隠ぺいし続ける異教徒たちよ。我々は罰を与えつづけるだろう。ただちに全てを明らかにするか、さもなくば、地球上のすべての友人たちを箱舟に乗せると約束しろ。お前らの神に誓うのだ』
また場面が変わった。
今度は、古代日本のドキュメンタリーか、報道番組かの映像のようだった。
立派な肩書きの、教授であるという男が登場して、「地球はこの先も、最低五百年以上の間は、人類が生存可能な環境を維持できるだろう」という趣旨の説明を長々としていた。
インタビュアーが教授に「五百年の間に、人類全員が地球から脱出できると思うか」と訊ねた。すると教授は、「まだ先の長い話であるから、次世代を信じて任せればよい話である」と答えた。
その次に、顔も声も特殊処理されて、個人が判別できない人物が現れた。しいていえば男性であろう。
彼はインタビュアーに対し、こう語った。
『――国内外の政財界の主要人物は、既に地球からの脱出計画を進行させています。来年には少なくとも、五つの恒星船が飛び立つことになるでしょう。
乗員は、あらかじめ選別された人間で、医者や科学者や船外作業員などの他は、一般人といっても実質は政府関係者だらけですよ。Xデーは再来年十二月、とだけ言っておきましょう。
――え、なぜこっそり逃げるのか、ですって?
そりゃ、地球はあと百年ともたないからであって、その短い時間に世界中の人間を空に飛ばすようなこと、無理だからに決まっているでしょう。
近い未来、地球の環境は急激に悪化します。急転直下と言っていいレベルです。巷の噂は八割がた真実で、むしろもっと悪いと思いますよ。
だからといって、本当のことを言ってしまうと、世界中を絶望と混乱が支配するだけです。考えてみてください。自分たちで人工衛星の一基もまともに上げられないような途上国や、無国家勢力に限って、原始的な破壊武器は山ほど持っているわけですよ。
――どれだけ残酷なことが起こるか、あなたにだって想像できますよね?』
皐月はそこで、録画映像を停止して、ふつうのテレビ番組に戻した。
夕方のニュース番組が映し出され、ちょうど地方議会のニュースが終わったところだった。そのあとは、女性キャスターが明日の天気予報を伝えていた。
リビングの重苦しい空気は、流行のコマーシャルソングが流れてきても、部屋の照明を明るくしてみても、拭い去ることができなかった。
「きみが受け継いだのは、こういうものだったのか」
胸の中に濁ったなにかが詰まっているような気がして、僕は大きく息を吐いた。隣の皐月の顔は青白く見えた。
「そう。――女系一族が守り続けているのは、どれも負の遺産よ。政府にとっては都合が悪いものだけれど、葬り去るわけにもいかなかった。古代の記録はどれも貴重だから。
いまの映像よりも、もっと残酷なものもたくさんあって、わたしひとりでは、とても全部を見られなかった。
打ち上げの直前に破壊された船、戦いの末に武力で乗っ取られ、そして自爆した船。非武装で抗議する者たちを、爆風で薙ぎ払いながら飛び立っていった船もあったわ。
この新地球の、わたしたちの祖先は、果敢に未踏の宇宙へ飛び立った勇者ではなかったの。本当のことを言わないまま、旧地球の多くの友人たちを見捨てて、われ先にと逃げ出した、卑怯者たちだったのよ。
そのくせ、夏の終わりになると、罪滅ぼしのために、ああしてたくさんの灯籠を川に流すんだわ――」
皐月は声を上げて泣き出した。
無理もない、彼女はこれをたった一人で抱えていたのだから。
僕は、ただ彼女の肩を抱いて、ずっと寄り添ってやることしかできなかった。