(9) プロムナード(上)
卒業舞踏会に女の子を誘うときは、男が花束を持って迎えに行くというのが正式であるらしい。数日前から、母さんや駿馬兄さんがいろいろ心配して、くどいくらいに色々と助言をしてくれた。
タキシードを買うという時になって、母さんは僕についてくるのだと言っていたが、照れくさかったので丁重にお断りをした。
古書整理をしたぶんの給料が振り込まれていたから、買い物をするだけのお金は持っていたのだけれど、母さんがどうしてもというので、僕はお金を受け取った。もらうだけもらって同行を拒んだことが、少し後ろめたいような気もした。
駿馬兄さんに聞いた、普段は行かないような少しお洒落な店で僕はタキシードを買った。
大きな紙袋を肩からかけ、自転車をこいで、家の前まで来たとき、目の前にダークグレーの毛色の女性が立っているのが見えた。彼女は僕を一瞥すると、背を向けて立ち去った。
ある予感がした。僕は自転車を車庫にしまいこんでから、郵便受けを見ると、僕あての封筒があった。
部屋に戻って、封筒を開けてみると、一枚のカードが入っていた。卒業舞踏会の日、正装をしてこの場所まで来るように、と、日時と場所が書かれていた。
越冬館の地下には、常緑の庭園がある。
その施設が民間人に大々的に公開されることはない。
庭園の高い天井には、いくつものまばゆい電灯が輝いていた。小さい頃、僕が本物の太陽光だと錯覚したのにも無理はない。これは人工の光でありながら、人間にいまは夏であると錯覚させるだけの性質を帯びている、似非太陽だということだった。
そこは冬季に交代で働いている者や、古代人たちのオアシスだった。
冬に働く者たちは、作業の合間、時間をみつけてはなるべくこの光を浴びて、眠気を吹き飛ばしているのだ。
ただ、それは現実的にはカフェイン剤などの投薬で事足りる、という指摘が前々からあり、真偽のほどはともかくとして、税金の無駄遣いではないのか、と、たびたび地方議会で槍玉にあげられているのだ。
僕はその日も、地下庭園の時雨部長を訪ねていた。
「――でも、僕にはわからないことがあります。
皐月の正体が僕の想像通りだったと仮定すると、それを知った彼女が一時的にふさぎ込むのはわかります。でも、いつまでも僕を避ける必要があるのでしょうか。僕がまだ頼りないとか、信用に足らないということなのでしょうか」
それまでの間、黙って僕の話に頷いていた時雨部長は、ようやく口を開いた。
「きみがあのとき、皐月くんの秘密を知ったところで、きみはどうしていた? 重大な使命を背負った彼女をなんとかして助けてやりたい、と考えたのではないか?
また、旧地球学に詳しいきみには、その資質もじゅうぶんにあった。
――ならば、きみが彼女を支えてやらない理由はどこにもないだろう」
「だったらなおさらです。なぜ彼女は僕を頼ってくれなかったのでしょうか」
時雨部長はベンチから腰を上げ、ゆっくりと池のほうに歩きだした。そして、金魚の群れが泳ぐ様子を覗きこみ、それを指し示しながら、僕のほうを振り返った。
「――きみなら、どの金魚がほしいかね」
「何ですって」
予想だにしない言葉に、僕の声は調子を外れてうわずってしまった。
「白い金魚は他とは違う。ある意味では仲間はずれだ。可哀想だときみは思うかもしれない。だからこそ欲しい、と、思うかもしれない。もっと単純に、珍しいから欲しいと思うかもしれない。
――あくまでわたしの想像だが」
時雨部長があまりにも話をはぐらかすので、僕は苛立ちを隠せなかった。
「それがどうしたんです? 一匹だけ他と違って目立っていれば、誰だって気になるでしょう。
それに僕は、アルビノだから可哀想だなんて思っていません。赤だろうが白だろうが、くれるというなら、遠慮なく欲しいやつを選びますよ、僕は」
僕がつい語気荒く言うと、時雨部長は声を出して笑った。
意味ありげな含み笑いではなく、心からの笑顔だと思った。時雨部長のこんな顔を見たのは、そう、前の初冬にここに来た時以来のような気がした。
「今のきみなら、皐月くんに会っても大丈夫だろう。さて、なぜ彼女はきみを避けていたのか。結論から言うなら、皐月くんの完全なる取り越し苦労だったのさ。
――あとは、直接彼女の口から聞きたまえ」
時雨部長は背中を向けて、庭園の奥へ歩いていってしまった。
「部長、待ってください、なぜそれがわかるのですか」
僕の言葉は、緑の木々に吸い込まれて消えていった。その後は、草刈機の音だけがずっと響いていた。
贈る相手は、どんなひとですか?
と、花屋の女性店員が訊ねるので、僕はとっさに、幼なじみです、と答えた。
そのあと約束の時間に受け取りに言ったら、鮮やかなピンク色が主体の花束に、銀色の天使のモチーフが添えられて、赤とゴールドのリボンで巻かれた、いかにもメルヘンチックなブーケが出来上がっていた。
僕が恥ずかしがって尻込みしていると、その女性店員は、きょうは卒業舞踏会で、男性は皆さんがそのような感じの花束をお持ちになっておりますから、まったくおかしくありません、と笑顔で言った。
メルヘン調の花束を片手に、僕は差出人不明のカードが指定した場所に到着した。
時間の三分前だったが、そこには既に八咫烏の女が待っていた。彼女は僕を見るなり近づいてきて、その手に持っていたブランドマーク付きの大きな紙袋を僕によこした。
「二穣睡蓮さま。これを貴方さまの手で、皐月さまへお渡し下さい。そのあと、すぐにお迎えに参りますので」
そう言うとすぐに、八咫烏は立ち去ってしまった。
念のため、不審物ではないか袋の中を確認した。
中身は高級ブランドのパーティードレスである。もしも発信器や盗聴器が仕込まれていたとしても、広げて念入りに調べないと分からないので、ひとまず持っていくことにした。
皐月にカードで伝えた場所は、下宿屋の前だった。僕は十分前に到着していた。
空は晴れていたが、天気予報で聞いたよりも、気温は低いように思えた。風が落ち葉を巻き上げて、視界の端で小さな渦を巻いていた。
彼女は来るだろうか。ピンクのブーケとブランドの紙袋を手にしたまま、タキシードを着た僕はただ突っ立っていた。着飾ったカップルを乗せた車が目の前を通り過ぎて行った。
さっきから何度目になるか分からないが、僕は腕時計を見た。五分前だ。
足下に転がってきた木の実を何気なく見ていたとき、不意に下宿屋の扉が開いた。制服姿の皐月がそこにいた。
前に会ったときは夏で、僕はなんとなく黒髪の彼女を想像していたが、彼女はふわふわした白と金茶の冬毛姿にすっかり変わっていた。
「ごめん、待ったでしょう」
皐月が言った。
「僕のほうこそ、待たせてしまった」
あの夏祭りの夜にここで別れたのが、つい昨日のことのような気もするし、はるか昔のことのようにも思えた。
僕は花束を皐月に差し出した。
「一緒にプロムナードを歩いてほしい」
皐月はそれを受け取ると、黙ってうなずいた。
あまりにもあっさりと事が運んだので、僕は逆に不安になって訊ねた。
「……あの、本当にいいのかな? 僕なんてこんな、三色まだら模様になってしまったんだよ。地の色も皐月みたいな真っ白ならまだ良かったけど、なんだかくすんだ灰色だし――」
皐月は僕の頭に手を伸ばし、長めの毛を指で撫でながら言った。
「この毛色、古い言葉で亜麻色っていうんじゃない? わたしは好きよ」
そうして皐月は笑った。やっぱり何も変わっていない、少女のような無垢な笑顔だった。
僕は彼女の手をとって、晩秋の道を一緒に歩いた。僕がタキシードなのに皐月は制服姿だからちょっと不釣合いな感じだった。僕はさっき八咫烏から受け取った紙袋のことを思い出し、皐月に手渡した。
「わあ、素敵なドレスね」
喜ぶ皐月に対し、僕は少し不安があった。
「これ、八咫烏がくれたんだよ。信用できるのかな?」
「あら、翠さんが持ってきてくれたの?――ああ、ダークグレーの毛並みの彼女、翠さんっていうの。信用して大丈夫よ。彼女が言ってたプレゼントって、このことだったのね」
無邪気に喜んでいる皐月を見て、僕はすっかり気が抜けてしまった。
「なんだよ。僕はてっきり、八咫烏に軟禁されて、ぼほ強制的に研究室に缶詰にされているとばかり思って、ずっと心配していたのにさ」
皐月はいたずらっぽく微笑んでいた。
「あらまあ。でも半分当たっているわ。わたしは睡蓮ほど出来がよくないから、かなり厳しく指導されたのよ」
そうして久しぶりの会話を楽しんでいるうちに、僕たちの横に一台の車が停まった。まるでタクシーのように、自動的に後部座席の扉が開いた。
「乗りましょう」
先に皐月が乗り込んだ。訝しむ僕の手を引き、だいじょうぶよ、と彼女は言った。
僕が乗り込むと扉が閉まり、車は走り出した。
「睡蓮さまと皐月さま。お迎えにあがりました」
運転手は八咫烏の女だった。皐月の話では、名を翠と言ったか。涼しい顔で、背筋をぴんと伸ばして車を走らせているが、聞きたいことが山ほどあった。
「あの、僕にはいろいろと疑問も残っているんですが」
「時間があまりございません。睡蓮さまには、連絡事項のみお伝えしましょう」
バックミラー越しに見る翠の目元は、少し笑っているように見えた。
「あなたさまは、皐月さまの婚約者として、八咫烏より正式に承認されました。中央地区越冬館統括部長の時雨さまより、推薦状を頂いております。
資格審査のため、あなたが提出された古文フランス語の翻訳文は、それは見事な出来映えでございました。あれは、旧地球時代最後の平和演説であったと評されているものです。ご存じないようでしたが」
寝耳に水の事実に、口を半開きにしたまま呆然とする僕の手を握り、皐月がささやいた。
「とても頑張ってくれたんですってね。本当にありがとう」
翠が運転する車は、ある高級マンションの前で停車した。
指示された番号の部屋に行くと、そこは看板のない美容室になっており、皐月のドレスの着付けと毛並みの手入れをしてくれていた。
いまだに現実から取り残され気味の僕の目の前に、雑誌が二冊と温かいハーブティーが運ばれてきた。なんだか夢の中にでもいるような気がした。
卒業舞踏会は学校の体育館で開催される。
僕は皐月の手を引いて、体育館へ続く渡り廊下を歩いた。
他の生徒たちは僕たちの姿を見ると、驚いた様子で隣の友人になにやら耳打ちをしたり、感嘆の声を上げたりしていた。
体育館に入ると、まだ舞踏会は始まっておらず、参加者の生徒たちはドリンクなどを手にとってそれぞれ歓談していた。男女ペアになっている生徒が多かったが、一人ものや、男女混成グループで参加している者も少なくなかった。
僕は館内を見回した。ディスクジョッキーを探していたのだ。
「おおい、睡蓮、皐月!」
体育館の隅っこのほうから声がした。机に囲まれた席があり、そこで桂が立ち上がって大きく手を振っている。あそこが放送席らしい。
僕もすぐ手を振り返し、皐月を連れてそこへ向かった。僕らの通り道ではざわめきが起こり、明らかに人々の視線が集まってくるのを感じた。
桂が座っていた机の上には、音楽と照明のオペレーションのための操作卓が設置されていた。桂の手書きと思われるラベルのついた記録媒体も、小型の運搬ケースごと置かれていた。まもなく始まるパーティーのため、音楽データの最終チェックでもしていたのだろうか。
机の下には、大きなボトル入りの炭酸飲料が数本用意されていた。
「やあ桂、なんか僕たち、変な噂でも流れているのかな?」
ちらりと後ろを振り返りながら僕が訊ねると、桂は渋い顔をして答えた。
「……あー。実はさ。皐月が急に研究室入りして、それから二人は破局したって噂になっていたんだけど、裏では睡蓮が必死に勤労学生やってただろ? しかもなぜか、双方ともガリ勉しているばっかりで、新しい恋人を作る気配もない。
そのうちに、睡蓮が身を削って頑張っているのは、実は二人は既に婚約済みで、結婚資金を貯めているんじゃないかって説を誰かが言いだしてさぁ。でも、それもそれでみんな半信半疑で。
結局、論争の決着はつかず、二人が卒業舞踏会に出てくるかどうか、って、昼飯代賭けてる奴らも実は多いんだよねぇ。君らはじぶんで思っているよりも学校中の有名人さ」
僕が古書室に入り浸っているうちに、そんな妙な話になっていたなんて。呆れるのを通り越し、僕はおかしくて仕方なかった。
「おまえ、のんきに笑っている場合じゃないぞ。夕凪が無茶を言うもんだから、おれは例のやつをずっと探し回っていたんだからな――」
僕はその後、桂の苦労話を延々と聞かされる羽目になった。そのうちに、遅れて夕凪がやってきて、皐月と手を取り合って喜びあっていたが、二人一緒に少し離れたテーブルのほうへ行ってしまった。
「そういや、睡蓮は卒業後の進路決めたんだって?」
足元の炭酸飲料を手元のコップに補給しながら、桂が言った。
「ああ。古代外国語研究室への進級が決まった。ただし、当面は越冬館付きの勤労学生としてね」
「それって、いまとあまり変わらないじゃん」
僕と桂は笑った。桂は予備のコップに炭酸飲料を注ぎ、僕にくれた。
「――というわけで、お互いの将来に乾杯!」と、桂が言って、僕たちはカップを合わせた。
そうしているうちに、いよいよ舞踏会の開始時刻となった。
体育館の照明はやや暗く落とされて、ステージがスポットライトに照らされた。
夕凪によるアナウンスが、主催者会の代表者のあいさつが始まることを告げた。ざわついていた会場全体が、彼女のよく澄んだ声を聞いて静まっていくようだった。
僕のそばには、いつのまにか皐月が戻ってきていた。いよいよ、卒業舞踏会がはじまる。