プロローグ
県立森羅高等学校の合格発表の会場で、僕は、自分の受験票を手に握りしめていた。
さっきから何度目になるか分からないが、腕時計をちらりと見た。あと三分ほどで、合格者の受験番号を記した掲示板の幕が取り払われる。
まだ午前中だったが、すでに初夏の強い日差しが照りつけていた。つばのついた帽子をかぶってくるべきだった、と僕は少し後悔した。
学園の正門前にあたるこの場所には、大勢の受験者とその保護者などが訪れ、皆そのときを待っていた。
自宅にいながら合否情報を得る手段はあるというのに、わざわざ汗水垂らしてやって来て、自分の目で結果を確認したいという古風な人間は案外多いものだ。
人混みの端のほうから、不意にわあっと歓声が上がった。
掲示板の様子にさっきと変わりはない。僕は何が起こっているのかを見ようと、背伸びをした。僕はそれほど身長が高いほうでもなく、けっこう後ろのほうに並んでいたので、事態が把握できない。
「係の人が来たんだ。いよいよ除幕だぞ」
僕の隣にいた駿馬兄さんが、まぶしそうに眼を細めながら言った。兄さんといっても実際には母方の従兄弟である。僕よりも少し背が高い。
掲示板の両脇に、背広を着用した男性が一人ずつ立っているのがかろうじて見えた。
二人は、時計を見ながら幕に手をかけ、お互い身振りで合図を送り合っている。二人ともがうなずいた直後に、大きな幕は一気に取り払われた。
大きなどよめきが起こり、人の波が一斉に前のほうへ押し寄せた。
僕は掲示板を見た。合格者の受験番号が書かれているはずなのだが、文字が小さくて全然見えない。
人に押されたとき位置がずれてしまった眼鏡を、指で持ち上げて直したが、そんなことで番号が見えるようにはならない。帽子だけじゃなく、双眼鏡でも持ってくるべきだったのだ。
僕は人混みにもまれ、いつのまにか駿馬兄さんと離れてしまっていた。
掲示板に近いほうでは、歓声を上げて喜びあっている人たちがいる一方で、黙ってその場から去っていく人もいた。少しずつ人は減っていき、混雑は少しずつましになっていった。
僕は人波をかき分け、ようやく番号が確認できる位置にたどりついた。とっくに暗記していたけれど、手の中の紙片の番号をちらりと見てから、掲示板を見た。もう一度、紙と掲示板を交互に見る。
「――どうだ?」
泳ぐようにして、やっと僕のとなりにたどり着いた駿馬兄さんが聞いてきた。
僕は親指を立てて笑ってみせた。
駿馬兄さんは、僕の持っている紙片と掲示板とを見比べてから、喜びを隠しきれない様子で両腕を突き上げた。
「やったじゃん!」
兄さんは、背後から僕の首を腕で抱えるようにしながら、僕の頭を手でわしゃわしゃとやりはじめた。
「おれは正直ヤバいかと思ってたぞ! 本当によく頑張った!」
僕は照れくさくて振りほどきたかったけれど、周囲を見ると、女の子の友達同士が抱き合って泣いて喜んでいたり、胴上げをしている一団もいるくらいだったので、今日は許すことにした。
ふと、人混みが消えかかった掲示板のほうを見ると、水色のセーラー服姿の女子がひとり、じっと番号を見ている。こちら側からは後ろ姿で、顔までは見えなかった。
近くに友達や家族らしき人は誰もいない。
いまどきセーラー服を制服にしているのは、隣の学区の南中学だけだ。
その制服姿で、たったひとりで合格発表を見にくるなんて、僕にはちょっとした違和感があり、彼女から目を逸らせずにいた。僕も含め、会場に集まっている人々は、ほとんど私服なのだ。
「よくやった、頑張ったな、睡蓮!」
そうやって、僕の名を呼んで喜ぶ兄さんの声が大きかったせいか、彼女はこちらを振り向いた。
肩のところで切りそろえられた黒髪が、さらりと揺れた。彼女の大きな瞳が陽光を受けて、明るい茶色に見えた。
目が合った、と思った瞬間、視界が突然ぼやけて白くなった。兄さんの悪ふざけがすぎて、眼鏡が外れてしまったのだ。
僕は、片耳のほうだけでかろうじてぶら下がっている眼鏡をかけ直したが、既に彼女は目の前から消えていた。
僕は彼女を知っている、かもしれない。
まさか、こんな時にこんな場所で会うなんて。――いや、違う。こんな場所だから、だ。
人混みの中、彼女がどこかにいないかと僕は目で探したが、見つからなかった。
「よし、お祝いにうまいもんでも食うか! いくぞ睡蓮」
駿馬兄さんに促されて、僕は駐車場に向かって歩いた。
何が食いたい? と、兄さんは訊ねてきたが、僕は頭ではまったく違うことを考えていた。そのせいで、母さんに報告の電話をすることをすっかり忘れていたくらいだった。
じりじりと熱さを感じるほどの陽射しを受けながらも、心には一陣の木枯らしが吹き抜けた。彼女に初めて会ったあのとき、僕はまだ小さい子供で、彼女にどう接したらいいのかわからなかったのだ。
いまならわかるのか、と聞かれたら、それも自信がないけれど。
僕が彼女と知り合ったのは、小学校を卒業したての頃だった。あれは街が雪に覆われはじめた、長い冬の始まりのことだった。