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変化を成長と呼ぶのなら

 両脇に玉兎を侍らせた依姫はじっと目の前の畳を見つめていた。耳には微かに流水の音が聞こえてくる。地球から拐ってきた少女がシャワーを浴びている音だ。

 蓮子という名のその少女は先程お風呂を借りにやって来た。理由は分からない。軟禁している屋敷にもお風呂が、それも依姫の今居る家より余程豪華なお風呂がついている筈なのに。

 依姫はじっと畳を見つめながら、蓮子の目を思い出す。さっきお風呂を貸してくれと言った時の目を。

 じっとこちらを見つめてくる目は朝に見た視線とはまるで違っていた。朝は怯えた様子でおどおどとしていた。当たり前だ。地球から遠く離れたこの月に攫われてきたのだから。それなのにお風呂を借りに来た時は、何か固い決意を抱いている様なはっきりとした視線を向けてきた。

 そんなにお風呂に入りたかったのか。とは思えない。反攻を企てているのか。そんな無謀な事をするとも思えない。幾ら考えを巡らせても理由が分からない。こちらに対抗しようとする様な目付きは攫われた者としては当然だろうが、十やそこ等の子供が遠く離れた異国に攫われて僅か半日であんな決意めいた目をする事が出来るだろうか。

 攫ってきた二人に姉である豊姫が会いに行った事と何か関係があるのか。報告がまだ来ていないから、一体どんな話をしたのかは分からないが、あんな目をする様な話とは一体。それでどうしてお風呂を借りに来る。

 納得がいかない。

 とは言っても、それでどうするという話ではない。蓮子の目付きが理解出来なかったからと言って、それが何だ。向こうにどんな心境の変化があれ、こちらのする事は変わらない。向こうが何を思おうと、こちらをどうこう出来るとは思えない。

 ただの瑣事だ。だからあくまで暇潰しに思考を巡らせるだけ。ただ納得がいかないだけ。

 嫌な予感に似た、この心の引っ掛かりはただ暇を飽かしているだけだ。

 依姫が顔をあげる。

 襖が開いて、頬を上気させた蓮子が現れた。

「お風呂、ありがとうございました」

 弛緩した笑みを見せる蓮子は、やはりどう見ても子供。何ら気にかける事は無い。

「気にする事はありません。必要とあれば、いつでも来てください」

 そう言って依姫が笑みを見せると、何故か蓮子が緊張した様な表情を浮かべた。こちらが笑顔を見せたのに、どうしてそんな表情を浮かべるのか分からず戸惑っていると、蓮子が指をさしてきた。

「あの」

 指を向けられて依姫は思わず身を固くする。

 何だ。何があったんだ。

「その服、その、可愛いですね」

 は?

 依姫が面食らっていると、両隣の玉兎達が手を打ち鳴らした。

「ですよねー!」

 口口に玉兎が同意するのを見て、蓮子がはにかみを見せる。

「その、とっても可愛くて、センスが、良いと思います」

 何で急に?

 訳が分からなかった。

 だが悪い気はしなくて、思わずはにかみ返す。

「これは姉に仕立ててもらったんです」

「そうなんですか! 豊姫さんですよね?」

「そうです」

 丁度良い。さっき何を話していたのか聞いてみよう。

「そう言えば、お姉様ともう会ったんですよね。一体どんな話を」

 依姫の言葉を遮って蓮子が興奮気味に口走る。

「豊姫さんもセンスが良いんですね! 羨ましいです。私もそういう服が欲しいなぁ」

 聞いちゃいねえ。

 玉兎達も益益調子を上げる。

「マジ依姫様も豊姫様もセンス良いっすよ!」

「憧れちゃいますよ!」

 もう真面目な話が出来る雰囲気ではなくなった。

 蓮子の褒め殺しが更に続く。

「二人共綺麗ですよね! 私、お二人に会ってびっくりしちゃいました」

「ああ、そう」

 気の抜けた返事をしつつ、依姫が頬が緩みそうになるのを必死で抑えつける。

「しかも月の使者のリーダーなんですよね! まだ若いのに! 才色兼備で羨ましい!」

「まあ、その、ありがとう。別に若くないけど」

 依姫が口をもごもごとさせる。

「リーダーになれたのって何か理由とかあるんですか?」

 依姫が答える前に、玉兎達が答え始めた。

「そりゃあ豊姫様も依姫様も才能の塊みたいなところがあるからねぇ」

「特にお二人の能力が凄いんだよ」

「能力?」

「そう! 依姫様は八百万の神神をその身に呼び込めるし、豊姫様は色んな場所と場所を繋げる事が出来るの」

「そうなんですか! 凄い!」

 蓮子がはしゃぐ様に手を打ち鳴らした。ところがすぐに消沈して「でも」と言葉を濁らせた。依姫も玉兎達もその豹変ぶりを不思議がる。

「怖くないですか?」

 一瞬部屋の中が静まり返った。

 それを打ち破る様に。すぐさま玉兎が声を上げる。

「そんな事無いよ! お二人共優しいし」

 他の玉達も「そうそう」と言いながら頷いている。

 何処か必死に見えた。

 本当にそう思ってんのか?

 依姫が玉兎達に目を向けたのに、誰一人として目を合わせようとはしなかった。

「そうじゃなくて、良く分からないですけど、お二人は凄い能力を持っているんですよね?」

 蓮子が言葉を選ぶ様にゆっくりと話す。目だけは、あの決意した様な目付きで、しっかりと依姫を見つめている。

「少なくとも地球では、どんな技術でも暴走する可能性があって、それを抑える為に幾ら対策を張り巡らしても、絶対はありません。大きな事故の起こる事があります」

 蓮子が言い淀む様に口を閉ざし、また開く。目だけは決して逸らさない。

「依姫さんの能力は制御が利かなくなる事は無いんですか? もしもそうなったら怖くないんですか?」

 また部屋の中が静まった。誰もが固唾を飲んで依姫を見つめている。依姫にはその視線を向けられるのがおかしくて、思わず笑いそうになった。蓮子ならばいざ知らず、玉兎達までもが依姫の能力が暴走する可能性を危惧している。

 安堵させてやる為に依姫は胸を張って言った。

「あり得ません。制御が出来なくなるなんて」

「そうなんですか?」

「はい、地球の人間ならともかく、私達が能力を制御出来なくなるなんてあり得ません。自分の身に宿った力が暴走する。その原因が何だかあなた方は知っていますか?」

 依姫の問いに、蓮子も玉兎達も首を横に振る。

 それに対して殊更自信のある笑みを浮かべて周りを見渡す。

「それは思い悩んだ時です」

 蓮子が目を見張った。

「何かに対して心奪われ、酷く思い悩めば確かに能力の制御が利かなくなる。能力は感情と密接に関わっていますから。けれど私達月人に限ればそれはあり得ない。何故か。私達月人はそんなにも強い悩みは持ちません。思い悩む様な精神構造を持っていれば、必ず囚われる事象がある。即ち生と死。それに対する執着。それは私達にとって穢れであり、穢れを持てば私達は早死してしまうのですから」

「でも、感情を持たないなんてそんなの」

「感情を持っていないとは言っていませんよ。生死に関しても、勿論私達だって生きたいと思いますし、死にたくないと思います。ほんの微かにですが思い悩んでいます。ですがそれはあくまで微か」

 蓮子が納得のいかない表情をしているので、依姫が言葉を重ねる。

「私達だって感情を持っています。感情の上下で能力が揺らぐのですから確かに私達の能力も不安定に波打っている。しかし無視できる程度の波なのです。私達は大きな波、つまり穢れを持ちませんから」

 蓮子が初めて目を逸らして下を向いた。

 月人の偉大さに感銘を受けたのかなと依姫は満足気に息を吐く。

 しばらくして、蓮子が顔を上げた。目付きが変わっていた。何処か遠くを見つめている様な目をしていた。

「それは正確ですか?」

「え?」

「月人は本当にそういった大きな感情の変化は起こらないんですか? 間違いありませんか?」

 どうしたんだろう急にと訝しみつつ、依姫は訂正する。

「地球の人間に比べてそういった感情を抱きづらいと言った方が良いかもしれません。生に対する執着、死に対する執着。勿論我我も持たない訳ではない。が、度が過ぎる事は極稀」

「じゃあ、今まで居たんですね?」

「ええ、居ましたが」

 依姫は微かな違和感を覚える。何だか蓮子の様子がさっきと違う。引っかかる。いや、それとは別の部分で更に引っかかりを覚える。何か胸がざわめいている。

 だが所詮は瑣事だ。気にする事は無い。

「そうですね。居ました。輝夜姫の話を今日の朝にしましたね。その輝夜姫に恋をした者が居ました。身の程知らずの恋をして、当然相手にされるはずも無く身を焦がし、穢れて堕落してしまいました。それも一人二人でなく大勢」

 依姫は思い出す。輝夜姫に魅せられて堕ちていった者達を。傍から見れば愚かであったが、ある意味で仕方の無い事であった。輝夜姫も依姫や豊姫と同じ様に他者には無い力を持っていた。人を誑かす能力。気を抜けば同性ですら魅入られてしまうあの妖艶さは、決して美貌のみで得られるものではない。

「堕落した者の中には特別な能力を持っていた者も居ました。その者達は例外無く能力が暴走しました。半分は助かりましたが、もう半分は間に合わずに自分の能力によって殺されました。恋は生に対する欲求。最もたる穢れの感情です」

「穢れの……感情。それがあると能力が暴走するんですね?」

「ええ、その通りです。やけに興味がおありの様ですね」

「あ、いえ」

 蓮子が頭を振って俯いた。歯切れが悪い。様子がおかしい。

 どうしたのだろうと訝しんでいると、突然襖が開いた。玉兎が二人入ってくる。

「依姫様、豊姫様から。地球へ迎えに行く様に、と」

 依姫が思わず声を上げる。

「見つかったのか!」

「はい。その様です」

「分かった。すぐに行く」

 立ち上がった依姫が蓮子を見下ろすと、蓮子が喫驚した様な表情で報告しに来た玉兎の事を見つめていた。驚いているというより、まるで恐れている様だった。

「どうしました?」

 依姫が問うと、蓮子が首を捻じ曲げて依姫を見る。その目を見て依姫はぞっと悪寒を覚えた。蓮子の見開かれた目には負の感情がありありと浮かんでいた。怨みや怒り、悲しみや苦しみ、そう言った感情が混ぜ合わさった様な目をしている。

 何故そんな目をする。

 依姫が困惑していると玉兎が背後に立った。

「きっと嬉しいんですよ」

 蓮子の目を見ていない玉兎がのんきにのたまう。

「豊姫様が、マエリベリー様が月人である事を告げたそうです。友達が月人だったんですから誇らしいんでしょう。それに月に連れてくれば会う事も出来て」

 蓮子の目はそう言っていない。

 まるで体の内の全存在を負の感情に変換した様な暗く淀んだ目をしている。

 何なんだ、この子は。

 ここに至ってようやく依姫の頭に明確な警戒が湧いてきた。

 ただの子供である筈なのに、触れれば砕け散ってしまいそうな弱弱しい存在なのに、それとはそぐわない別の一面を持っている。

 一体この子は。

 依姫はすっと体を脱力させて、その身に太玉命をおろした。神事を司り、卜を行う神だ。それを意味づけし、調節する。太玉命を降ろした依姫は今、相手の正体を暴ける様になった。さっきから感じている蓮子に対する違和感の正体を探る為に、依姫が蓮子を見つめる。

 暴き出す。

 暴いた瞬間、強烈な感情に突き動かされて、思わず目を逸らした。

 激しく胸が動悸していた。荒く息を吐きながら、胸を押さえていると、玉兎の一人が心配そうに声をかけてきた。それに「なんでもない」と答えて蓮子を見る。神の出て行った身で蓮子を見つめても、何にもおかしなところは無い。

 たださっき、蓮子の本質を垣間見て酷い感情に襲われた。端的に言えば惚れてしまった。言い知れぬ魅力を感じて、一気に心が奪われそうになった。まるで質量のある魅力を体に叩きつけられた様な錯覚を感じた。慌てて目を逸らしたものの、未だに胸は激しく鼓動し、顔が火照っている。

 何だ今のは。

 覚えが無いわけではない。以前にも同じ様な魅力を持った者が居た。先程名前が出てきた輝夜姫を遠目に見た時だ。まさしく同じ様な感覚に襲われた事がある。だが目の前に居る蓮子は輝夜姫では無い。地球から連れてきたただの人間の筈だ。それなのに、そのただの人間がどうしてあの輝夜姫と同じ能力を持っている? しかもその能力をベールの下に隠している。自分の正体を隠そうとでもいうかの様に。

 まさかこの子が輝夜姫?

 依姫は蓮子を見つめ、頭を振る。

 あり得ない。輝夜姫は地球の幻想郷に居る。監視を置いているから、動きがあればすぐに伝わるだろう。ここに居る訳が無い。容姿も違う。太玉命で正体を暴いた上での事だから、変装でのごまかしは効かない。蓮子は明らかに輝夜姫とは別人だ。だが同じ能力を持っている。何故だ。

 一気に警戒心が引き上がり、睨む様に蓮子を見つめていると、傍の玉兎が横合いから肩を叩いてきた。

「あの、依姫様」

 はっとして依姫は刀の柄にかけていた手を緩める。

 蓮子の異常さは気になった。

 蓮子が何者なのかは分からない。

 それも気になるが。姉からのお願いであれば、優先すべきはそちらだ。地球で見つかった月人を連れ戻さなければならない。

 どうせ蓮子は月から逃げられないのだから、戻ってきてから調べれば良い。

 依姫は最後に一度蓮子の負の感情の篭った目を見つめてから、部屋の外へと出て行った。


 屋敷を出た蓮子が空を見上げる。随分長い事屋敷に居た様で、夜空には星が浮かんでいた。星空を見上げながらも、蓮子の意識は全く別の方角を向いている。心の内はただひたすらにメリーで埋め尽くされている。

 メリーが月に連れ戻される。それを想像するだけで、全身に悪寒が走り冷や汗が流れでて、胸が苦しくなって視界が揺れる。胸の辺りを掻き回されてぐちゃぐちゃにされた様な不快感がある。

 メリーを助けなくちゃいけない。

 月に連れ戻そうとする月人達を止めなくちゃいけない。

 だが自分にはどうする事も出来無い。月の者達を止める事も地球に戻ってメリーを助ける事も出来そうにない。悔しかったが、どうにも出来無いものは仕方が無い。そう自分をなだめつつ、益益高まる気持ち悪さに堪えながら、必死で依姫から得た情報に思考を巡らせる。

 能力の暴走は感情と関わりがあると言っていた。それが本当だとすれば、メリーが暴走している原因も何か強い感情を抱いたからという事になる。だが蓮子の見る限り、メリーが思い悩んでいる風には見えなかった。メリーは普段通りのメリーだった。

 もしも自分が気がついていないだけだったら、メリーの心の内に激しい感情が渦巻いていて、その所為で能力が暴走してしまっているのならば、どうにかしないといけない。ただ地球の方法じゃ駄目だ。地球でそれを解決しようとしたら、きっと薬か手術で感情を殺されてしまう。手術や薬に頼らずに、メリーの友達として力になってあげたいけれど、今までずっとメリーの心の内に気がついてあげられなかった自分に何が出来るだろう。

 今の自分に出来るのは、月の治療を探り出す事だ。

 依姫の話を聞いた限りでは能力が暴走した者は治療されて半分が助かったらしい。それをメリーにも施してもらえれば。

 そう考えると、メリーが月へ連れてこられるのは都合が良いけれど。

 その瞬間、蓮子は胃の腑がこみ上げてきて、口元を押さえた。メリーが月に来ると考えただけで、凄まじい拒絶反応が起こる。それを必死で我慢しながら、蓮子は考えを進める。

 とにかく依姫から情報を引き出すのは上手くいった。警戒されたり、秘密にされたり、もっと難しいだろうと思っていたけれど、予想に反してあっさりと聞き出せた。

 蓮子は吐き気を堪えながら、にんまりと笑う。

 順調だ。

 このまま頑張れば、メリーを助けてあげられる。

 必要なのは治療方法だ。まずはどんな治療なのかを確かめて、可能なら月の者達には頼らずに自分達で治してしまえれば良い。何処でその治療が行われているのかも、何処でその方法が調べられるのかも分からない。闇雲に歩いても良いけれど、それよりは知っていそうな人に聞くのが良いだろう。依姫と豊姫の顔が思い浮かぶ。

 依姫は行ってしまったので、聞くとすれば豊姫だ。あるいは兎達も知っているだろうか。

 あれこれ考えながら歩いていると、道の向こうから人影が歩いてくる事に気が付いた。

都合の良い事に、やってくるのは玉兎達を伴った豊姫だった。蓮子は吐き気に耐えつつ、努めて笑顔を作って豊姫へと近づいていく。

 ついている。

 まさか早速目当ての人物に会えるとは。

 どうやって聞き出そうかなんて分からないけど。

 上手く誘導出来るか分からないけれど。

 さっきは出来た。相手がぺらぺらと喋ってくれた。

 上手くいくかは分からないけれど。

 自分に出来る事が分からないのなら、目の前にある壁を乗り越えていくしかない。

 頭が痛くて気持ち悪いけれど。

 それでも目の前にある壁がはっきり見える。

 乗り越えればその先には幸せな世界が待っている。メリーを治してあげられる。

「蓮子ちゃん、こんにちは。どうしたの?」

 蓮子は立ち止まって平静を振る舞いながら答えを返す。

「依姫さんとお話をしてきました」

「あら、何の?」

「月の事を。私、月の事何にも知らないので」

 感心ねと言いながら、豊姫が歩み寄ってくる。不審に思われた様子は無い。蓮子は緊張で詰まっていた息を小さく吐き出す。

「どう? 月の事、少しは分かった?」

「はい。色色と教えてもらえました」

「そう、良かったわ。分からない事があったら私にもどんどん聞いてね」

 何だか良い流れだ。このまま能力の話をして、暴走の話に繋げて、治療方法を聞き出せば良い。

 蓮子が会話の流れを考えていると、先に豊姫が口を開いた。

「それで、どう、蓮子ちゃん?」

「え?」

「メリーちゃんの能力が暴走した原因は分かった?」

「いえ、は?」

 蓮子の頭が真っ白になる。

 豊姫にメリーの能力が暴走していると教えた覚えは無い。いや月に来てから一度だって口にした覚えがない。

 それなのにどうして?

「そう、原因はまだ分からないのね。結局根本的な原因が分からないと、一時しのぎにしかならないから、早く判明させないと」

「どうして、それを」

「それ? それって何の事?」

「メリーの能力の暴走を、どうして知ってるんですか?」

「どうしてって、だって話してたじゃない、さっき」

 さっき?

「ほら、依姫のところで話していたでしょ?」

「聞いてたんですか?」

「聞いてはいないけど、でも知ってるわよ」

 依姫との会話を思い返す。

 おかしい。

 何度思い返してもメリーの能力が暴走しているなんて言った覚えが無い。

「依姫さんとそんな話をした覚えは無いのですが」

「あら、そうだった? まあ良いじゃない。それより、ささ、この牛車に乗って」

 何処にあったのか。豊姫の背後に突然牛車が現れた。

 乗れと言われたものの、乗る必要性は無い。泊まっている屋敷はすぐそこだ。

 それよりも豊姫が知り得ない事を知っている方が重要だ。

 蓮子が豊姫を睨んでいると、豊姫が思い出した様子でぽんと手を打つ。

「ごめんなさい。伝え忘れてた。実はね、あなたの住む場所を移したのよ。今日から別の場所に泊まってもらうの」

「どうしてですか?」

 別に構わないけど。

「うーん、私としては出来るだけ気楽にしてもらいたいんだけどねぇ」

 そう言って、豊姫が背後を振り返って指をさした。その先に今日の朝までは無かった建造物が聳えていた。

 蓮子の思考が一瞬止まる。

 巨大なロケット、いやミサイルだった。

「いつの間にかあんなの作られちゃって」

 全身に脂汗が浮いた。

 間違いない。作ったのはちゆりだろう。脱出の為にICMBを作ると言っていた。そして自分はそれに同意した。だから文句は言えない。言えないけど。

 それにしたってでかすぎるでしょ!

 蓮子は叫びたくなった。

 聳え立つICBMは明らかに周囲から丸見えで、数キロ先からでも見る事が出来そうだ。

「流石にあれは、ねえ?」

 豊姫が困った様に蓮子を見る。蓮子は仕方なく頷いた。確かにあんなのを作られたら言い訳はきかない。大人しく従わざるを得ない。逃亡を企てていたのだから、ここで下手な受け答えをしたら何をされるか分からない。玉兎に促されて簾を押しのけ牛車に入る。中は外から見たよりもずっと大きかった。後から豊姫も入ってきて、牛車が持ち上げられ、牛を模した乗り物に繋がれる。

 対面に座った豊姫の笑顔を見つめながら、どうしたものかと考える。流石に警戒されただろう。ミサイルなんか作ってしまったんだから。っていうか、どうやって半日であんな巨大なミサイルを作ったんだ、あの人は。

「何か思い悩んでいるみたいね」

 豊姫がにこにこと笑いながら見つめてくる。

「あまり深刻に悩まない方が良いわ」

「はあ」

 その悩みの一端、っていうか半分位はあなた達の所為なんですけど。と言いたかったけど言わないでおいた。

「月で悩んでいるとね、寿命が縮むわよ」

「穢れですか?」

「そう」

 何だか自然に穢れの話になった。

 これはこのまま上手く話せばメリーの治療方法を聞き出せるんじゃ。

 そんな期待をしていると、豊姫があっさりと言った。

「そう、メリーちゃんの能力の暴走にも関わっている穢れ。穢れさえ無くなれば一先ずは暴走が収まるけど、でもやっぱり原因を突き止めないと、また穢れを溜める事になる」

 豊姫の話は蓮子の望む方へ向かっている。メリーの病気を治す方向へ。けれどさっきからずっと豊姫に先を行かれている。主導権は明らかに豊姫が持っている。真っ暗な道を引き連れ回されている様な気分になる。そちらに目的地があると分かっていても、何だか怖い。

「穢れを捨て去るのは簡単よ。羽衣を身に付ければ良い。メリーちゃんを一時的に治すにはそれで十分。穢れは消え去るの」

 羽衣、それがメリーの病気を治せる装置。

 朗報だった。

 何かを強く思う心がメリーを苦しめているとして、それを地球で治すには感情を無理矢理殺す手術や薬に頼らなくちゃいけない。そんな酷い治療を受けて感情を殺されてしまったら、メリーがメリーで無くなってしまう。

 けれど月の治療方法は違う。ただ羽衣を着せてあげれば、メリーが治るだなんて、何て優しい方法だろう。

 メリーの病気が治るという希望に蓮子の顔がほころんだ。

 それを見て、豊姫も笑みを深くする。

「月は良い所よ。地球なんかよりよっぽど良い所。食べ物も文化も自然環境も人間関係も技術も何もかも地球よりずっと良い。メリーちゃんの能力の暴走も治るし、穢れが無くなればずっと長く生きられる。良い事尽くめね」

 確かに月は良い所だと思う。地球に固執するのでなければ、月に住むのだって良いかもしれない。ここでメリーと二人で暮らせば。

 その瞬間、今まで以上の吐き気に襲われて蓮子は慌てて口を抑えて俯いた。

 駄目だ。どうしてか分からないけれどメリーが月に来る事を想像すると気持ちが悪くなる。

「大丈夫、蓮子ちゃん?」

 豊姫が体を寄せて覗きこんできた。大丈夫だと頷いてみせてから気分を整える。気持ちの悪さは抜けないが、衝動的な吐き気はおさまった。顔を上げると、豊姫の笑顔が目の前にあった。

「ふーん、どんな悩み事かしら」

 豊姫が呟くと、牛車の外の玉兎がそれに答えた。

「いえ、というより強迫観念みたいですよ」

「そうなの。穢れね」

 穢れ?

「あなたの中には穢れがあります。月で暮らすのにそれは無用。いえ、邪魔な物。新しい住居に行く前に穢れを取ってしまいましょう」

「穢れを取る?」

 月で暮らすつもりは無いけれど。

「先程言ったでしょう? 羽衣を着るんです」

「ああ、成程」

 牛車が向きを変える。羽衣を着せに行き先を変える様だ。思わず蓮子は拳を握る。

 何から何まで好都合だ。まさかこんなにあっさりメリーを治す方法が判明して、しかもその道具の在処まで分かるなんて。

 何だか心が沸いた。メリーを助けてあげられる。それがもう目前に迫っている。羽衣を手に入れて、メリーに着せればそれで解決する。速く羽衣の場所へ着かないかなと、わくわくとしながら窓の外を見る。牛車ののろのろとした歩みが歯痒い。速く進んで欲しい。速く辿り着いて欲しい。ずっと悩んでいた事がこれで解決するんだ。

 そう考えて、蓮子は気持ち悪さも忘れて笑顔になった。

 しかし次の瞬間、その笑みが凍る。

 笑顔が固まって、体が震えだした。

 蓮子はふと思い出してしまった。竹取物語のあらすじを。

 確か竹取物語の最後に羽衣が出てきた筈だ。地上に残した人人に未練を抱くかぐや姫に使者が羽衣を渡していた。そしてそれを着たかぐや姫は。

 総毛立って、蓮子は牛車の外へ飛び出そうとした。

 けれど豊姫の手に掴まれて、足を滑らせ床に叩きつけられる。

 まずい。

 必死で豊姫の手を振りほどこうとするが予想外に強い力で振りほどけない。

 まずい。速く逃げないと。

 牛車が止まり、簾が上がって玉兎達が覗きこんでくる。

 大勢の敵達に囲まれて、蓮子は半狂乱になって暴れだした。

 嫌だ! 放して!

 竹取物語の最後でかぐや姫は羽衣を着た。その結果、かぐや姫は地上に残した人人を思う心を失ってしまった。

 その意味に蓮子はようやっと思い至ったのだ。つまり羽衣は人を思う気持ちを消し去る道具なんだ。だから他人との関わりが原因の穢れが消えるんだ。羽衣を着れば、着る前の自分が消え去って、穢れの無い思い悩む事の無い自分に改造されるんだ。結局感情を無理やり捻じ曲げられるのなら、そんなの地球で行われる手術と何ら変わりない。

 そしてそのおぞましい施術がメリーと自分に向けられている。

 必死で暴れるが玉兎達に抑えこまれてもう腕を振り上げる事も出来なくなる。

「蓮子ちゃん、どうしたの? 少しの辛抱だからおとなしくしていて?」

 豊姫の笑みが横へとずれ、代わりに玉兎が覗きこんでくる。兎の目は異常に赤かった。

 止めて! お願いだから止めて!

 私の心をいじらないで!

 玉兎の赤い目に見つめられた蓮子は次の瞬間意識を失った。蓮子を床に寝かせてから、玉兎達が外へ出る。豊姫が寝かされた蓮子の髪を書き上げながら微笑みを浮かべる。

「大丈夫、すぐに穢れを消してあげるから」

 牛車がゆっくりと進みだした。


 狭い部屋だった。

 ちゆりが仏頂面で壁にもたれかかっている。

 ICBMの建造がばれた後、ちゆりは即座に掴まって連行され、何処かの屋敷の何もない狭い部屋に押し込められた。それからちゆりは部屋の中でじっとしていた。観念した訳ではない。逃げるにしても蓮子を確保してからだと、色色方策を練りつつも蓮子が連れて来られるのを待っていた。果たして玉兎に連れられた蓮子がやって来た。

「あ、ちゆりさんも捕まってたんですね」

「うん、ICBM作ってるのがばれちゃったんだぜ」

「そうなんですか。随分狭い部屋ですね」

「そうなんだよ。もうちょっと良い部屋にしてくれって言ったんだけど」

「残念ですね」

 微笑みを浮かべた蓮子がちゆりの隣に座る。

 ちゆりが頭を掻きつつ苦笑した。

「参ったね。このまま処刑されたら困るな」

「そうですね」

「まあ、脱出の方法はもう練ってあるから安心してよ」

「分かりました」

 にこにこと応じる蓮子に、ちゆりが申し訳無さそうな顔を向ける。

「怒ってる?」

「え? 何でですか?」

「だって素っ気ないから。つっこみもしないし。失敗したのを怒ってるのかなって」

「別に怒る程じゃないと思いますよ」

 蓮子は不思議そうに首を傾げた。ちゆりはその表情を見て困惑した。さっきまであんなにメリーが来る事を恐れていたのに。皮肉を言っているのかと思ったが、蓮子の表情は嘘を言っている様には見えない。どうして良いのか分からず、機嫌を取る為にメリーの話題を上げる。

「メリーちゃんの事だけど、教授にしっかりと頼んでおいたよ。教授に任せておけば安心だから」

「分かりました」

 蓮子が頷いて、それから首を横に振った。

「でもどちらでも良いですよ」

「どういう事だぜ?」

「良く考えたら、別にメリーがこっちに来ても問題無いなって思って。月もそんなに悪いところじゃないですし」

 ちゆりが驚いて目を見開く。

 朝に言っていた事と全く正反対の意見だ。冗談かと思ったが、蓮子は明らかに本心からそう言っていた。

「もしかして月の連中に何かされたのか?」

「いえ? どうしてですか?」

「それとも何か変な事を言われた?」

「お話はしましたけど、そんな。どうしたんですか?」

「だって」

「間違った事は言っていませんよね? 月は想像していたよりも良い所です。穢れが無ければ寿命も伸びるから、地球よりも過ごしやすいかもしれません。それに、実はメリーって月の人間だったんです。だからきっと厚遇してもらえる筈。悪い事はありません」

「確かにそうかもしれないけど、おかしいぜ」

「間違ってますか?」

「あってるかもしれない。でも間違ってる。だってあまりにも君らしくない。今日の朝に別れた時と別人みたいだぜ」

「そうですか? 自分では良く分かりませんけど」

 ちゆりの不審がどんどん募っていく。けれど蓮子が演技をしている様には見えないし、怯えている様子も無い。それに月が良い所だと思うのだって、蓮子の言葉としてそぐわないとは思うものの、決して頭ごなしに否定出来る意見では無い。ただ違和感だけが浮き上がっている。そしてその原因が分からないから、恐ろしい。

「本当に何にもなかったの?」

「ええ、特に酷い事はされてないです。むしろ良くしてもらった位で」

 納得出来無いちゆりに、蓮子は「きっと気の所為ですよ」と言って晴れやかに笑った。

 少女の華やいだ笑みに、ちゆりはぞっと寒気を感じた。

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