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夢の帰り道を示すなら

 化け物に体を食い千切られ感覚が暗転した。

 真っ暗な視界。世界から音が消える。

 耳の奥が妙に痛い。

 全身を悪寒が撫で上げる。

 自分の体が汗にまみれて気味が悪い。

 ここは?

 そう自問し、頭の中に死という単語が閃いた。

 すぐに真っ白な光が視界を覆った。

「はい、お疲れ様」

 ヘッドマウントディスプレイを取り払われると、蓮子があまりの眩しさに目を覆う。そうして少しずつ手をずらしていくと、目の前に岡崎夢美が立っていた。

 ここは?

 自分の体を見る。いつも通りの自分の体。何もおかしなところは無い。けれど妙に現実感が無くて、何だか自分の体が自分の物ではない様な気がした。岡崎を見上げる。

「教授」

「お疲れ様。どうだった?」

「どうって」

「即時性と直接性を極限まで誤認させた。目の前にあるものが本物としか思えなかった筈だ」

 つい今しがたの出来事を思い出す。古びれた崩れかけの御殿に入って、そこで化け物に襲われて。そう、でもあれは、ディスプレイによって見せられたヴァーチャルな感覚で。

 でもそれを本物だと思っていて。

「あれは」

「自然にそこまで錯覚するには時間が必要だが、それを無理矢理調節したんだ。君は現にあの場に居たとしか思えなかっただろう?」

 じゃあ、あれは全部錯覚で。

 気がついた瞬間、全身の力が抜けた。

「あれが、全部教授の作った感覚だったんですか?」

 椅子からずり落ちつつ、岡崎に恨みがましい目を向ける。

 すると岡崎は真剣な目で真っ向から見つめ返してきた。

「勘違いしているよ」

「え?」

「あれは全部現実だ。端的に言えば君の感覚とあの場の粒子を対応させただけだからね。あの場所にぼろ屋敷があり、化け物が居たのは現実だ。もしも君達が実際にあの場所へ行っていたら、同じ様に君は上半身を食い千切られて死んだだろうね」

 冷房が急に強くなった気がした。汗にまみれた服が冷たくて気持ちが悪い。

「じゃああの化け物は」

 教授は何も言わずに黙って見つめ返してくる。その目が何だか恐ろしくて、思わず目を逸らして俯いた。

 突然、メリーの悲鳴が聞こえた、

「ああああ!」

 驚いて隣を見ると、ディスプレイを装着したメリーが上を向き、限界まで口を上げて、叫んでいる。

 まさかあの化け物に襲われている?

「メリー!」

 ディスプレイを外せばあの場所から逃げて来られる筈だ。

 助けようと、椅子を立ち上がると、その肩を岡崎に押さえられた。その手を払うが、もう片方の手で再び押さえつけられる。その間にもメリーは死にそうな絶叫を上げている。

「何ですか? メリーを助けないと!」

「駄目だ」

「どうして!」

「実験中だからだ。大丈夫。死にはしない」

 蓮子はメリーを見る。

 メリーは尚も凄まじい絶叫を上げている。今まさに死にそうな程の、胸が痛くなる様な絶叫だった。

 実験。

 これはメリーを助ける為の実験。

 手を出したらそれを邪魔する事になる。実験の成功とメリーの苦痛、どちらを取るべきなのか。

 今すぐにでもメリーのディスプレイを取り外して、助けてあげたかった。でもそれをしたら実験は上手くいかないかもしれなくて。助けなくとも、結局メリーに命の危険は無くて。

 頭では分かっている。

 でもメリーの上げる悲鳴は確かに本物で、今まさにメリーは苦しんでいる、怖がっている。それを助けられないというのは蓮子にとって拷問に近かった。

 歯を食い縛ってメリーの様子を見続ける。

 メリーの絶叫が収まる。代わりに、息を上げながら掠れた泣き声を上げ始めた。蓮子には向こうでメリーに何が起こっているのか分からない。けれどそのあまりにも辛そうなメリーの様子を見ていると息苦しくて酷い目眩に襲われた。

 ふとメリーの呼吸が止まる。かと思うと、再び凄まじい悲鳴が響き渡った。

 さっきよりも更に大きな悲鳴。それが研究室に響き渡る。耳の奥に突き刺さってくる。

 もう駄目だ。

 耐えられない。

「放してください!」

 蓮子は岡崎の腹に足の裏を当てて、思いっきり突き飛ばした。岡崎はびくともしない。だが反動で蓮子が椅子ごと傾いで、後ろに倒れた。岡崎から開放された蓮子は急いでメリーに縋りつく。

「だから止めなさい! 死にはしないって言ってるでしょ!」

 死ぬだとか死なないだとかそんな問題じゃない。

 メリーがこんなに苦しんでいるのに助けない訳にはいかない。

 急いでディスプレイを外そうとすると、突然メリーの悲鳴が止まった。ほとんど同時に蓮子の手がディスプレイに触れ、気が付くと蓮子の周りが夜になっていた。

 当たりを見回すと、両側が深い森に囲まれた一本道だった。何処だか分からない。一瞬、また岡崎の装置の所為かと思ったが、すぐに違うと分かった。どうして違うと分かったのか、はっきりと言葉には出来ないが、ここは境界の向こうの不思議な世界に違いない。

 だとすれば何処かにメリーが居る筈だ。

「メリー!」

 叫びながら辺りを見回す。一本道の前を見て、後ろを見ると、道の先に月に映える鮮やかなウェーブ掛かった後ろ髪が見えた。メリーの後ろ姿に相違ない。

「メリー!」

 急いでメリーの元へ駆け出すと、ふとメリーの前に誰かが居る事に気がついた。月に映える金色の髪。それを隠す様な白いナイトキャップ。紫色の服を着たその女性は酷くメリーと似通っていた。まるで親子、いや、メリーをそのまま成長させた様な容姿。

 それが何なのかは分からない。ただその女性は酷く不吉に見える。

 ドッペルゲンガーを思い出す。見たら死ぬと言われる己の分身。

 蓮子の目には、女性がメリーのドッペルゲンガーに思えた。

 メリーを夢の世界に引きずり込まれてしまう存在に思えた。

 一緒に居れば、メリーが危ない。

 そう思った時には、蓮子は強く大地を踏みしめる。一刻も早く女性とメリーを引き離す為に。

「メリー!」

 蓮子の叫びはしかし、メリーに届かなかった様で、メリーは蓮子を振り向きもせず、女性と向かい合ったまま、微動だにしない。

 代わりに女性が蓮子の存在に気がついた。

「あら」

 気が付かれた。

 背中に怖気が走った。あまりにもメリーと似通いすぎている、メリーのドッペルゲンガー。それが自分に気がついた。思わず足が萎えそうになったが、蓮子は恐れを押し込めて必死の思いでメリー達の下へと走る。

 もう少しで二人の下まで辿り着くという時に、女性が口角を釣り上げて笑った。

「この子の友達かしら」

 蓮子にはその笑みが悪意の塊にしか見えなかった。今すぐメリーを殺して分身の自分が本物に成り代わるのだと、そう言っている気がしてならなかった。

「とっても綺麗な月夜ね」

 女性が何か言っている。

 それが蓮子の耳にはメリーの死刑宣告にしか聞こえない。

 気が付くと口から絶叫が迸る。

 そうして大地を蹴っていた。

「こんばん」

 女性が何か言っている間に、蓮子の頭突きが女性の腹に突き刺さり、女性はわんこそば! と呻いて地面に転がった。

 そんなものには見向きもせずに、蓮子は呼びかけながらメリーに肩を強く揺さぶる。

「メリー!」

 叫びながら何度も揺さぶっていると、メリーが視線を上げて蓮子を見つめた。

「蓮子?」

「メリー! 大丈夫?」

「え? あ!」

 メリーが気がついた様子で辺りを見回した。蓮子も同じ様に周りを見ると、そこはさっきまで居た研究室だった。

 古びた御殿でも深い夜の森でも無い。

 元の世界に帰ってきていた。

 それに気がついて、蓮子の肩から力が抜ける。

「良かった」

 蓮子は装置を外してメリーを抱きしめる。

「良かった! メリー、大丈夫だった?」

 抱きしめられたメリーはしばらくぼんやりと研究室と蓮子の事を見つめてから、やがて不思議そうに呟いた。

「蓮子、食べられたんじゃなかったの?」

「私は大丈夫だよ。それよりメリー、何だかずっと叫んだり悲鳴を上げたり、本当に大丈夫? 何処か痛かったりしない?」

 メリーは自分の体を見回してから頷いた。

「私も大丈夫。ただ蓮子が食べられちゃって錯乱して、それであの家主さんに追われて結局食べられちゃって」

 どうやらメリーは蓮子と同じ末路を辿ったらしい。けれどそれはあくまで感覚の中だけの話で、実際には生きている。

 何にせよ良かったと、蓮子はメリーをもう一度強く抱きしめた。温もりが、今そこにメリーが居る事を強く意識させてくれる。

 そうして二人で抱きしめあっていると、背後から岡崎の声が響いた。

「ふむ、ちょっとずれが大きすぎるなぁ」

 蓮子とメリーがそちらを見ると、岡崎とちゆりがスクリーンに映し出された波形と数字の羅列を見つめていた。その一つ一つの意味は分からなかったが、それ等が今しがたの自分達を数値で表した事であろうというのは何となく分かった。

 その無機質な画面に、蓮子は怒りが湧く。

 メリーはあんなに苦しんで叫んでいたのに、それを止めもせずにデータを集め、それを冷徹に分析している。それが酷く冒涜的な事に思えた。自分達の事を実験動物にしか思っていない。

 分かっていた。確かに分かっていて実験を了承した。最初から岡崎は自分の理論の為に手伝うと言っていた。向こうからすればこちらは実験の為の道具でしか無い事は分かっていた。それでもやっぱり感情では納得出来ない。

 メリーの、あの悲鳴を思い浮かべると、涙が零れてくる。

 気が付くと、岡崎に罵声を浴びせていた。

「何で! 何でそんなに冷静で居られるのよ! さっきのメリーの悲鳴を聞いていたんでしょ! どうしてそれでそんな冷徹に」

 すると岡崎は振り返って笑った。

「言っただろう。死ぬ事は無いと。精神の方にもあまり強い刺激がいかない様に防護を」

「そういう事を言ってるんじゃない!」

 蓮子が叫ぶと、岡崎は不思議そうに蓮子の事を見つめながら呟いた。

「もう少し賢いと思っていたが」

 その言葉が更に蓮子へ油を注ぐ。

「じゃあ、教授は分かったんですか? メリーの病気の治し方を!」

「いや、残念ながらまだだね」

「あんなに! あんなにメリーを苦しめて! それで結局分からなかったんですか? じゃあ次はどうするんですか! 次はどうやってメリーを苦しめるんですか! 苦しめて苦しめて、そんな事を続けていたらいずれメリーは。でも教授は何とも思わないんですよね! だって私達は実験動物でしか無いんだから!」

 岡崎が鼻白んで眉をしかめる。

「何を急に。実験動物? 私は、いや、待てよ」

 岡崎が何かに気がついて、慌ててスクリーンに映し出す情報を切り替え出した。

 蓮子は尚もその背に罵声を浴びせる。

「あいつ等みたいに! サナトリウムの医者達みたいに! 教授もメリーの事を実験動物にしか思ってないんだ! だから……」

 そこで蓮子の言葉が途切れた。岡崎が全く自分の言葉に耳を貸していない事に気がついたからだ。教授は目を見開きながら、次次と情報の切り替わるスクリーンを見つめている。

 そして目まぐるしく切り替わっていくスクリーンが止まった。

「あった!」

 叫んだ岡崎はそこに映しだされた情報を操作し始める。それもまた数字とグラフの羅列で蓮子には何だか分からない。

「何を?」

 何をしているのか分からず、蓮子は岡崎に問いかける。

 その言葉も無視して、岡崎はスクリーンを操作し、二つのデータを比較する。そのただならぬ気配に蓮子は息を飲んで何を言えなくなった。

 それからしばらく経って、岡崎が成程ねと呟いた。その言葉に、蓮子が反応する。

「何か分かったんですか?」

 蓮子の問いかけに、岡崎は振り返り、そして蓮子とメリーを交互に見てから、口元に笑みを浮かべた。

「面白いね」

「だから何が! 何が分かったんですか!」

 岡崎はそこでようやっと蓮子の問いかけに気がついた様子で、蓮子と目を合わせると、笑みを消して答えた。

「いいや、何も」

「は?」

「現時点じゃ、何も分からない。情報が足りないからね」

「でも、今のは」

「ん。ただ、実験中のメリー君のデータが途中からがらりと変わっていてね。恐らくその、向こう側の世界とやらを見ていたんだろう? そのデータが面白いなと」

「それだけ、ですか?」

 岡崎が笑みを返す。

 それを肯定だと受け取った蓮子は苛立ちと共に質問を重ねた。

「じゃあ、どうすればメリーは治るのかは」

 岡崎は一瞬目を閉じてから、いたずらっぽく笑った。

「そうだな、君達二人をもっと危機的な状況に追い込んでみようか? 殺人鬼の居る館に放置したり」

 その言葉で堰が切れた。

 蓮子が机を思いっきり叩く。

 研究室の中が静まり返る。

 静まり返った研究室の中、蓮子は大きく足音を立てながらメリーの傍に寄ってその手を取り、そのまま出口へと向かった。

 その背に岡崎が問いかける。

「実験を放棄するのかい?」

 蓮子が足を止め振り返り、無表情のまま冷たい声で答えた。

「はい。良く分かりましたから」

「何が?」

「結局他人じゃどうしようも出来ないって事です。あなたには任せられない。他の研究者や医者は役に立たない。友達だって心配するだけ。後は私がやるしかない」

 すると岡崎がくつくつと笑った。

「そうは言っても、恐らく君の考えている原因は間違っているよ」

 蓮子が驚いて目を見開く。

「それなのにどうにか出来ると本気で思っているのかい?」

 岡崎の言葉に、蓮子は胸が苦しくなって、顔を歪めて苦悩する。

「でも」

 それでも誰かに任せるなんていう選択肢は無い。自分だけがメリーを理解してあげられるのだから。

「少なくとも私はメリーに不思議な目がある事を知っている。幻覚や妄想や精神異常にしたがる他の奴等とは違う」

 そこでまた岡崎がくつくつと笑う。

 蓮子はこれ以上何を言っても無駄だと判断して、出口へ向かおうとする。

 その背に岡崎がまた声を掛けた。

「ねえ、蓮子さん」

 そのさっきまでとは違う、優しげな言葉に蓮子は思わず足を止める。

「これは科学者としてではなく、一人間としての質問。あなたは人間の力って何だと思う?」

「知能」

 蓮子が即答する。

「そうね。私は手先の器用さ、脳の大きさ、そして数だと思う」

「それがどうしたんですか?」

「三人集まれば文殊の知恵と言うでしょう? 人間の力が知恵だというのなら、あなたは他の者達よりも賢いの? もしも他の者達に解決出来ないというのに、それを一人で解決するなら、他の者達よりもずっとずっと賢くなくちゃいけないわ。そうでしょう?」

「それは」

 蓮子は一瞬口ごもったが、答えを返す。

「少なくとも、メリーの目に関して言えば、私が誰よりも」

「そう。盲目的なのね」

 蓮子が顔を赤くして岡崎を睨む。岡崎はそれを笑みで受け流して、蓮子に最後の忠告を与えた。

「全能感を持つのは結構。でも結局あなた達はただの小さな子供。幾ら賢くても、どんなに不思議な力があってもね。それを忘れちゃいけないわ。今だけが人生の全てだと考えていたら、きっと後で後悔する。私が言いたいのはそれだけ」

 蓮子にはその言葉の意味が分からなかった。だからと言って聞き返す訳にもいかず、顔を赤らめたまま、ありがとうございましたと憎憎しげに言い残して、メリーを連れて去っていった。

 ドアの閉まる音を聞いた岡崎は微笑みを浮かべて呟いた。

「可愛らしいわね」

 ちゆりが眉根を寄せて抗議する。

「そうですか? 何だか自分一人で何でも出来ると思っていそうで生意気だぜ」

「そこが可愛いんじゃない。昔のあなたもあんなだったわね」

 そんな事無いぜと反論するちゆりに、岡崎は笑う。その笑いはすぐに収まって、岡崎は寂しそうに呟いた。

「でも残酷だわ」

「何がなんだぜ?」

「今回の件。あの二人にとっては残酷な話」

 まるで全て見透かしているかの様な岡崎の言葉に、ちゆりは何も言えずに疑わしげな視線だけを返した。

「ちゆり、賭けましょうか? あのメリーという子は今日か明日にでもこの世界から消える」

「え!」

「私の予測が正しければね」


 夕闇の中を蓮子とメリーは大学を出て二人して帰路についた。特に何か目的がある訳も無く、何処へ寄るでも無く、二人は静かに町の中を歩いている。

 しばらくは岡崎との会話に苛立っていた蓮子だが、やがて頭が冷えてくるとそわそわとメリーの様子を窺いだし、やがて謝罪の言葉を呟いた。

「ごめんね、メリー」

「何が?」

「だって、勝手に連れて行って、それで変な実験に参加させて、結局喧嘩別れになって」

 最初からこんな結果になるのであれば、連れていかなければ良かった。

 メリーが苦しんでいるあの時にちゃんと助けてあげられなかった。

 もしかしたらあのまま研究室に残った方がメリーを助けられる可能性が高いかもしれない。

 でもそれ等の可能性は全部蓮子自身が踏みにじった。当事者のメリーに何の相談もせずに勝手に。

 怒っているのかもしれない。

 そんな不安な思いで、メリーの言葉を待っていると、やがてメリーは立ち止まって蓮子に微笑みを向けた。

「気にしてないわよ」

 メリーの優しげな微笑みに、慰められているんだと感じて、蓮子は益益罪悪感を覚えて俯いた。それを見たメリーが蓮子の手を強く握る。

「ありがとう、蓮子」

 思わぬ言葉に蓮子が驚いて顔を上げる。

「ありがとう、蓮子。私の為に」

「でも」

「蓮子が全部私の為にしてくれてるって分かってる。だから嬉しい」

 メリーに見つめられて、蓮子は胸が詰まる思いだった。本当は当事者のメリーの方が深刻に悩んでいる筈なのに、落ち込んでいる自分を励ましてくれている。そんな思いやりが嬉しくて、申し訳なくて、情けなくて、そして決意した。メリーを守らなくちゃいけない。メリーの笑顔を手放したくない。

「メリー」

 岡崎に言われた事を思い出す。一人では何も出来ないと言われた事を。そうかもしれない。こんな子供一人では力不足なのかもしれない。でも他に誰も頼れる人が居ないのなら、結局自分がやらなくちゃいけない。自分が守らなくちゃいけない。

 メリーを理解してあげられるのは自分しか居ない。

 自分とメリーは不思議な目を持つ者同士、たった二人の共犯者。

 メリーを助けるのは自分だ。

 例え命を掛けてでも。

「私がメリーを守る。絶対に。私が助けてみせるから」

「蓮子」

 蓮子はメリーと向き合ってそう言った。

 メリーが潤んだ目で見つめてくる。

 じっと見つめ合っていると、やがてメリーが胸に飛び込んできた。

「信じる」

「メリー」

「だってね、蓮子の目、時間と今居る場所が分かるでしょ?」

「うん」

「だからね、例え向こうの世界に行ったとしても、蓮子の事を思っていれば、きっと戻ってこれる気がするの」

 言葉は楽観的だが、その体は震えている。やっぱり自分が向こうの世界に消えてしまうのは怖いのだろうと、蓮子は少しでも励ましたくてメリーの事を強く抱きしめた。

 何よりも大切な存在を絶対に失いたくない。

「ねえ、蓮子」

 メリーが胸に埋めていた顔を上げて、息の掛かる程近くで見つめてくる。

「私ね」

「うん」

 その時メリーの体がするりと抜けた。抱きしめていた腕が空振り態勢を崩す。

 一体何だと蓮子は驚いて、どうしたんだろうと辺りを見回した。

 けれど夕闇に染まる路地の何処を探してもメリーの姿が見えない。

「メリー?」

 そもそも今、どうやって腕の中から逃れた?

 強く抱きしめていたのに。抜け出る瞬間さえ分からなかった。

「メリー?」

 そうして今居るのは路地の一本道。両側に聳える塀が向こうまで続き、曲がり角も隠れる場所も見当たらない。

「メリー!」

 メリーへ呼びかけた言葉が木霊となって辺りに響く。けれど幾ら見回しても、メリーは見つからない。影も形も見当たらない。

 胸の内から悪寒が走った。

 また消えた。

 向こう側の世界へ。

 そうとしか思えなかった。

 何処かに境界が無いだろうかと辺りを見回す。けれど蓮子の目でそれを見つける事は出来ない。気が付くと体中が冷や汗をかいていた。

 メリーの目はどんどん暴走し始めていた。

 向こう側へ行く頻度がどんどんと多くなり。

 向こう側へ行く時間もどんどんと長くなり。

 またメリーは向こうの世界へと行ってしまったのか?

 この前は一週間も消えて。

 なら今回は?

 今回は一体いつまで向こう側に?

 そもそも帰ってくるの?

「メリー!」

 どうすれば良い?

 どうすれば。

 絶望的な気分に思わず地面に崩れ落ちた。

 胸が締め付けられて息苦しい。気が付くと涙が溢れてくる。ついさっき守ると誓ったのに、もうこの手からすり抜けてしまった。

「メリー!」

 思いっきり叫んでも何もならない。

 境界の向こう側に行ったのであれば、境界さえ見つけられれば追えるけれど、メリーが居ない今、境界を探す事は出来ない。境界を見つけられないと、メリーを探す事が。

 どうする事も出来ない。

 気ばかりが焦る。

 絶望感が募っていく。

 めげそうになるのを、必死で首を振って意識を保つ。

 駄目だ。

 混乱してちゃ駄目だ。

 守るって決めたんだから。

 絶対に。

 絶対に見つけ出すんだ。

 せめて何か手掛かりを探そうと思考を彷徨わせる。何か取っ掛かりでもあれば。

 思い出すのは、あの古びた御殿だ。あそこには異常な化け物が居た。あれが何なのかは分からないけれど、心に焼き付いて離れない。あんな化け物がこの世界に居る訳が無いのに、岡崎はあの化け物が現実の世界に居たと言っていた。だとすれば、あの化け物が何かの手掛かりにならないだろうか。例えばあの御殿は現実と幻想の境目が曖昧になっていて、向こう側の世界の化け物が這い出て来れたとか。

 もう御殿位しか可能性が残されていない。考えてもメリーを追う手立ては思いつかないのならば藁だとしても縋る価値はある。例え見つけられなくても。

 蓮子は空を見上げる。星と月が見えた。蓮子の不思議な目は、時間と空間における自分の立ち位置を教えてくれる。ただそれだけ。地球の上のほんの一点に印を付けるだけの能力。けれどメリーはこの能力が目印になると言ってくれた。ならば自分は少しでもメリーへ近づいて、よりはっきりと自分という目印を見つけやすくする必要がある。

 宵闇の近づく空から目を離し、蓮子は駅へ向かって駈け出した。


 京都大学の最寄り駅から四駅、そこから十分程住宅街を歩くと、竹林という名の森がある。その森は人工的に作られた森ではなく、昔のままの自然がそのまま残された場所で、立ち入りを禁止されている。禁止されているとはいえ、警備が居る訳でも無いので自由に出入り出来るし、実際この夏の時期であれば肝試しと称して内部に入り込む輩は後を絶たない。森の奥には古い和風の建屋があると噂されている。しかしその建屋に辿り着けた者は居ない。ただ古い文献にその建屋の事が書かれているにも関わらず実際に森へ入ると見つからない事で、噂がひとり歩きしている。曰く幽霊屋敷。曰く隠された実験場。曰く輝夜姫の隠れ家。

 文献ではその場所を竹林と記しているが、既に枯れてしまったのか、森に竹は存在しない。だから竹があるから竹林なのではなく、竹林という地名の森なのだろうと冗談交じりに言われ、本当にそう呼ばれる様になった。

 また森に入った者の中に消息を断つ者が居る。行方不明になり、それがしばらくすると出てきて、失踪していた間の記憶は無いだとか、別の場所に居ただとか、あるいは支離滅裂な事を言って、日常に戻る。皆、夢か幻か精神異常とみなされている。まるで神隠しの様であるから、この森の名を俗に神隠しの竹林と言う。

 その神隠しの竹林を前にして、蓮子は何故だか寒気を覚えた。夜を迎えたとはいえ、今は夏。酷く蒸し暑い。だというのに心臓が握り締められる様に寒かった。

 目の前には森を囲うロープ、ロープには進入禁止の看板がぶら下がっている。それを乗り越えて中に入ると、先には街灯の光が届かない深い闇。ライトで照らすと闇の中に光の道筋が出来上がる。それ以外は何も見えない。ライトが照らす事でむしろ闇が濃くなった様な気がした。

 蓮子は息を飲み肩を怒らせると森の中を歩き出す。辺り一面真っ暗の、何処から何が出てくるかも分からない闇の中、草が生い茂り足元すら覚束ない森の中を歩いて行く。やけに静かな森の中。まるで時が氷ついてしまったかの様。蓮子は恐ろしさを覚えて、空を見上げた。森の木木の合間から星星が見える。今の自分の場所と時間が分かる。ここは地球の上。まだ異世界じゃない。怖がる事なんか何もない。光で照らした先を目印に進んでいく。光は必ず直進する。ライトがある限り自分は真っ直ぐ歩いていける。帰る時も同じだ。ライトがある限り自分は迷う事が無い。そう考えて勇気を奮い起こしながら進んでいった。

 しばらく進んでいく内に、嫌な事に気がついた。本当に森は静かだった。自分の足音と息遣いしか聞こえない。最初の内は何とも思っていなかったが、良く考えればありえない筈だ。こんな深い森なのに、生き物の潜む音が全く聞こえないなんて。その事に気がついた瞬間、一気に鳥肌が経った。明らかに異常だ。この森はおかしい。ふとこの森の名を思い出す。神隠しの竹林。もしや自分は既にこの迷いの森に取り込まれてしまったのだろうか。

 慌てて夜空を見上げる。木木の合間から見える星を見て、愕然とした。自分の位置がずれていた。真っ直ぐ歩いていた筈なのに、いつの間にか横へと逸れている。誤差だとは思えない。まるで直角にでも曲がった様な場所に居る。息を飲み、本来進むべき筈の方向へライトを向ける。深い森の中に光の道筋が出来る。その周りには色濃い闇が手招いている。

 帰りたかった。

 今すぐにでもこの森から帰りたかった。

 けれどメリーの手掛かりがあるかもしれない以上それは出来ない。もしもこの森が異常であるならばそれは好都合なのだ。そんな不思議な場所であるならば、向こう側の世界との切っ掛けを得られるかもしれない。

 蓮子は震える足を叱咤して歩き出す。ライトを持って前に前に。空の星を眺めながら決して横へ逸れずに真っ直ぐと。

 やはりこの森は異常だった。気を抜くとすぐにでも脇へ逸れてしまう。それを星を見ながら補正して直進していく。動物の気配は一向に感じない。自分の足音だけが響いている。この先にあの御殿がある事を考えると不安で堪らなかった。神隠しの噂を思い出す。あの御殿の化け物を思い出す。もしかしたらこの先に待ち受けている運命はあの研究室で味わったヴァーチャルな体験と同じ様に化け物に食い千切られる死かもしれない。でもメリーの事を考えると、退く事なんて出来る訳が無かった。

 先へ先へ。

 森の中を進んでいくと、やがて木木の切れ目が現れた。その先にはあの御殿も見える。ようやく目的地が見えてきた。

 だがそこで蓮子の足が止まった。

 御殿の隣に不思議な建造物が立っていた。言葉で表すのは簡単だ。それは巨大な筍だった。御殿の隣にスペースシャトルを思わせる位に巨大な筍が突き立っていた。その筍には全長の半分程の大きさの入口がついていて、大勢の人影達が何やら筍と御殿の間を行ったり来たりしている。どうやら御殿にある物を、筍の中へと運び入れているらしい。

 何なの、あれ。

 実に奇妙な光景だった。

 木の傍にしゃがみこんで眺めていると、御殿から現れた人影が凄まじいものを引き摺っているのが見えて、蓮子の口から小さな悲鳴が漏れる。

 人影達が、あの男の顔と百足の体を持った化け物に縄を掛けて引き摺っていた。化け物はまるで死んだ様に大人しく地面に伏して引き摺られている。

 理解の出来ない光景だ。だからこそ怖かった。見つかれば何をされるか分からない。捕まってあの化け物と同じ様に筍の中に納められてしまうかもしれない。

 逃げ去りたかったが、もしかしたらメリーへ繋がる手掛かりになるかもしれない。そう考えるとここで逃げれば千載一遇の好機を逃す気もして。

 どうしようと悩んでいると、頭上でかちりと不吉な音が鳴った。

 心臓が止まる。

 明らかに人為的に鳴らされた音が頭上から鳴った。

 それの意味するところは。

 恐る恐る振り仰ぐと、目の前に銃剣が突き付けられていた。銃剣を持つ人影が冷たい声を出す。

「妙な真似はするな」

 蓮子の喉が鳴った。

「手を上げろ」

 冷や汗を流しながらゆっくりと手を上げる。

「立て」

 目眩で倒れそうになるのを堪えながら立ち上がる。

 銃剣を突きつけているのは兎だった。

 成人程の背丈を持つ二足歩行の兎が銃剣を構えて見下ろしてきている。ブレザーにネクタイ、スカートを履き、頭にはヘルメット。まるで人間の様な格好だった。

 更に兎の後ろから声が聞こえてくる。

「何かあったの?」

「ああ、人間を見つけた」

「人間!」

 そうしてもう二匹兎が加わる。

 銃剣を突き付けられたまま巨大な兎に囲まれて、蓮子は気の遠くなる心地がした。

「子供か。どうする?」

「邪魔になるのはまずいだろう」

 兎の会話に蓮子の口から悲鳴の様な息が漏れた。

 殺される。

 そういう会話をしている。

 恐ろしさで震えていると、兎の一匹が手を伸ばしてきた。何をされるのか分からず、恐怖で歯の根が鳴る。がちがちと鳴る。そして兎の手が蓮子の頭に触れると、凄まじい吐き気が襲ってきた。だが怖くて動けず、えづく事すら出来ずに、吐き気の波に襲われていると、兎が言った。

「宇佐見蓮子か」

 蓮子の目が見開かれる。

 どうして名前が分かったの?

 更に別の兎が呟いた。

「宇佐見?」

 どうして名前を確認しあってるの?

 また別の兎が呟いた。

「うさ耳?」

 なんて?

 その瞬間、比喩でなく、足元の地面が消失した。

 地面の無くなる感覚に驚いた時には、重力に引かれ、森や兎を置いて隙間の中へと落ちていった。

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