2・ケニア
どうしよぉぉぉ!!!
ドアを開けるか開けないか。これだけの判断を、もう30分近く悩んでいる。
あんな恥ずかしい思いをしたのは初めてで「もう2度と行ってやるものか!」と憤慨した私だったが、1週間経ってもあの味を忘れることはできなかった。
会社でコーヒーを入れても、ただの苦い汁くらいにしか思えなくなっちゃったし。
家で真似してみようと、ちょっと遠くのコーヒー専門店まで行って焙煎機を買おうとしたり。結局、高くて止めちゃったけどね。
でも、それだけ衝撃だったのだ。
たかがコーヒー1杯の為にそこまでやるか! と、少し前の私ならバカにしただろうけど。
じゃあ店に入って注文すればいいじゃんって感じなのだが、それはやっぱり恥ずかしい。
あの男の顔をまともに見れない気がする。
と言うことで現状に至るわけだが......
「うぅー......どうしよう」
いざ開けようと思うと緊張する。なんだこれ中学生の初恋か!
はぁ............
カランカラン
入ってしまった。もういいのだ、どうにでもなれ。コーヒー飲んだら帰るし。
「いらっしゃいませー」
早々と出てきたのは、また例の問題発言男だった。
「お好きな席へお座りください」
男はなんでもない風に、普通の客として対応している。
......そうだよね。
なにをバカなこと考えていたんだろう。
ここはお店だ。毎日お客さんは来るし、あんな美味しいコーヒーを出すんだから人気店だろう。
いちいち顔なんて覚えてないよね。
自信過剰だったことを反省。
だがちょっとだけ、複雑な気持ちだ。あんなことを言って笑ってたのに、そんなすぐ忘れられるとか......
私ってそんなに陰薄いとは思えないけど。
「こちらメニューでございます」
テーブルの端に置かれた表に手を伸ばす。
ふむ、どうしようか。
一応表を見てみるのだが、やっぱり私には分からなかった。
こないだ飲んだやつでもいいけど、どうせなら違うのも試してみたい。
うーん......
「......ケニアで」
なんか適当に頼んでしまった。
だって分からないんだもん! どうせどれも美味しいだろうし。
「かしこまりました。少々お待ちください」
ニコッと笑って下がっていく。
本当に覚えて無さそうだな。
まぁ、これで良かったのかも知れない。その方が私もこの店に来やすいし。
あの女に言わせれば、いい物件を逃した的な感じなのかな。
この間の合コンの時、私に話しかけてきた人がいたんだけど、その人の誘いを断ったらスッゴい問い詰められたっけ。
たんに好みじゃなかっただけなんだけどな。
好き嫌いするから恋愛出来ないのよって言うけど、そりゃするでしょ!
私をなんだと思ってるのよもう。
「そう言えば、あいつに勧められて来てみたけどあいつはここに来たのかな?」
いつもなに考えてるか分からないもんなー。
身の回りのことあんまり話さないし。
会社では話したりするけど、一緒に外出っていうのはしないし。
もう本当によく分からない同僚だ。
ふと周りを見渡すと、今日は結構人がいるのが分かった。
休日だし、皆日頃の疲れを癒すために静かなところに集まるのだと思う。とすればここは絶好の穴場だろう。
「お待たせしました」
あ、来た。
見上げると、相変わらずニコニコしている男。く、くそ......カッコいいなぁ。
見られながら飲むのはなんか恥ずかしいので、立ち去るのを待つことにした。
......のだが、いっこうに立ち去る気配がない。
ならもういいや。カップに手を伸ばす。
「っ!?」
さ、酸味が凄い!! 思わず渋い顔をしてしまった。
「くくく!」
男は爆笑。
知ってて見てたのか。確信犯か。性悪め!!
「あれ? でもフルーツみたいな感じもする」
なんだろう。
かなりの酸味だから、ちょっとずつじゃないとダメかなって思ったけど。手が進む。
これをあと引く旨さと言うのだろうか。
「どうですか?」
いつのまにか笑いやんだ男が聞いてきた。
「美味しいです。なんか、ベリー? みたいな香りがしますね」
「そうなんですよ。いや、いい味覚をしています。ちなみに、ヨーロッパでも人気がある高級銘柄なんですよ」
「へ~」
ではごゆっくり、男は満足したのかキッチンへと戻って行った。
うん、やっぱりいい。一口目はちょっとビックリしたけど。
どういれたらこんな深みが出るのか不思議だ。市販のものとは、味も匂いもコクも全部格が違う。
それと今さらなんだけど、さっき高級銘柄って言ってたよね?
お金、大丈夫かな......
「ただいまー」
あれから結構な時間、お店に滞在してしまい、出たのが6時半くらいだった。行ったのが5時くらいだっけな......その間ずっと1人......
まぁ深く考えないようにしよう。
薄めのジャンバーをフックにかける。まだ冬の寒さが少し残っているので、上着を着ていかないと冷えてしまうのだ。
ちなみにこのアパート、外見は凄い綺麗だけど築30年くらいのかなりのボロ。
このワンルームだって、ペンキ塗り直してあるだけだしね。生活に支障ないからいいんだけど。
さてと、と椅子に座る。
まとめなければいけない書類があるのだ。本当はあのお店でやるつもりだったんだけど、飲むのに集中しちゃったから。
「面倒くさいな~」と、バックの中をあさる。
「...あれ?」
だが書類らしきものは見当たらない。
中身を全部出してみる。
「ない............忘れて来た?」
ヤバい......あのお店って、閉まるの何時だろうか。明日までに出さなきゃいけないんだけど!?
もうやだ......
「はぁはぁ......」
お店の前まで来た。けど、思った通り、ドアには close がかけられていた。
「そんな......明日どうしよう」
いっそ、風邪で寝込んだことにしてしまおうか。いや、あの女がみまいに来る可能性があるな。
くそ......
その時、後ろから聞いたことのある声がかかった。
「探し物はこれですか?」
「あ」
あの男だ。
しかも手には私の書類。
「そ、それをどこで......」
「君が店を出たあと、親切なお客さんが持ってきてくれました」
ほっと安堵する。良かった良かった!
ありがとうございます、と書類を受け取る。
「気を付けないと。お金だったら取られているかもしれませんよ」
「う......すみません......」
お説教された。
「じゃ、俺はこれで」
ニコッと笑い、バイクにまたがる。
そこでなにを思ったのか、私は口を開いてしまった。
「あの」
「ん?」
男は不思議そうにこちらを向く。
「また、来ます」
そこで私は恥ずかしくなって立ち去ってしまった。
「ふぅ」
家に帰ってお風呂に入った。
全速力で駆けたので、汗をかいたのだ。
ふと、テーブルの書類に目がいく。また今さらなんだけど、私が来るのを待っててくれたのかななんて。
よく調べたら、あのお店の閉店時間は7時だった。私が取りに行ったのが8時くらいだったから、1時間もあそこにいたことになる。
それはおかしいな。
何か目的があったのかな?
って考えると、書類しか思い浮かばない。渡してすぐ帰ろうとしていたし。
それを思うと、胸がキュンとしてしまい夜あんまり眠れなかった。