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第八十二話「約束」

「すまない。加勢したい気持ちは山々なのだが、魔力不足とは違う疲弊が蓄積されてしまってな」


 天蓋の付いた立派なベッドに身を委ね、リーゼアリスはさも残念そうに神保たち三人に視線を送る。

 瞳の下には澱んだクマができており、普段より頬がこけていた。

 肉付きの良い艶やかな腕を伸ばし、神保の頬を愛らしく撫でたが、その愛撫的接触にも普段の力を感じさせない。

 隣の部屋ではエーリンが眠り、キル・ブラザーズなども別室にて休養をとっている。

 肉体に負荷をかけすぎたために、意識が戻らないメイド戦士たちも複数いた。


 そのような状態のために、帝王自らが足を運ぶという事項に、反対する声も多かったのだが。

 この惨状に終止符を打つ。という神保の強い意思と覚悟により、一人また一人と、神保の決定に異議を唱えるものはいなくなっていった。


 王宮内の方々の意見を治めるのに思ったより時間がかかってしまい、神保たちが出発の準備を整えたころには、もう夕日は沈み、外は真っ暗になっていた。



 満天の星を見つめ、萌がうっとりと目を細める。

 慎ましげな月光を浴び、新緑の絨毯は天の川のように煌びやかに輝いていた。

 昼間ゴクウが寝転んでいた箇所の芝生だけがベタリと潰れており、若干の無風流を感じさせたが。

 玲瓏な月明かりの下では、些細なことは気にならないものだ。


「綺麗ね……」

「神保、月が綺麗だよ」

「……うん」

「あらあら。随分詩的な言葉ですこと」


 神保は一瞬『萌の方が綺麗だよ』などと言いかけたが、喉から声が出る前に必死にその言葉を飲み込んだ。

 暫しの間おぼろげな月光に浸っていると。綺麗に揃った数十人ほどの足音が響き、静寂しきった庭園の雰囲気をぶち壊す。

 三人が振り返ると、そこには老師フリーゼン率いるフリーゼン集団の遠距離転移魔術専門者がズラリと並んでいる。

 メシュは身を飜えし、一歩足を踏み出すと。普段通りの柔らかい微笑みを見せながら、鈴の音のように愛らしい声音を出し、軽く頭を下げる。


「こんな時間に申し訳ありません。ですが、緊急を要することでしたので」

「良いですよ。送り出すくらいのことでしたら、いつでもお声をかけてください」


 老師フリーゼンは慎ましく両手のひらを合わせ、小さくお辞儀をする。

 それに習って彼の弟子たちも同じように挨拶をすると、即座にかがみ込み、地面に大きめの魔法陣を書き始めた。

 フリーゼンは裂傷のように細く深い目を向けると、凛々しい眼光を煌めかせ、メシュに最終確認をする。


「――二つ、でしたか」

「ええ。一つは今現在反逆勇者がいる田舎町へ、もう一つは私たちの転移が終了してからで大丈夫かと」

「分かりました。皆様のご健闘、心からお祈りしております」




 ◇




 手早く済むものだと思ったのだが、魔法陣を描き上げるのには、多少時間がかかるらしい。

 その内に、萌は目を擦り、うつらうつらとし始めたので、神保は萌を連れて自室へと戻っていった。

 流石に戦闘直前の夜にまでよからぬことはしないだろう、と思い、メシュは穏やかに見送ったのだが。

 二人が王宮に姿を消して、間も無く魔法陣が完成した。


「魔法陣完成しました。万が一のことを考えて、召喚先に帰還用の魔法陣跡を作らない、高等転移魔術なのでちょっと思ったより描くのに時間がかかってしまいまして、誠に――あれ。……帝王様と萌さんはどちらへ?」

「……おねんねよ」


 メシュは珍しく頭痛でも感じたかのように額に手をやり、『タイミングの悪い人たち』と吐息のようにぼやいた。

 闘い。というのは、いかなる場合でも寝込みを襲うのが一番確実かつ楽なのだ。

 正々堂々正面切って闘うより、背後から刺したほうが簡単に終わらせられる。

 はたから見れば卑怯で卑劣な行為にも見えるだろうが、現に反逆勇者の仲間の一人は神保を死角から暗殺しようとした。

 やられたからやり返して良い、というわけでは無いが、若干の罪悪感は薄められる。


 あれは本当に危なかった。

 神保の体内に膨大な魔力があったから、暫しの間肉体が腐食せずに綺麗なまま残っていたが。

 魔力が枯渇しかけている時にあれだけの劇薬を撃ち込まれれば、流石の蘇生魔術でも完璧に蘇生できたかと問われれば否だ。

 蘇生魔術だって万能じゃ無い。

 本当に、運が良かった。


 メシュは柔和な輝きを見せる月光を見つめ、愛らしく首を傾げてみる。

 先ほど萌の言った詩的な言葉を思い返し、何とも心地良い感慨に浸っていると、背後から亀のようにノソノソした独特な足音が聞こえてきた。


「やぁ、メシュよ」

「あらあら。何ですか、ゴクウ」


 月明かりに照らされ前頭部が若干光っているゴクウは、真っ白なヒゲを一撫でし、メシュの右肩へと手を乗せる。


「三人では心配じゃないのか? 相手が何人の仲間を連れているのか、正確なところは分かっとらんのだろう? ここはワシも、一緒に行くべきかなと、」

「大丈夫よ。あなたはいてもいなくても一緒だから、メイドさんの踵で踏まれていれば良いわ」


 メシュは肩に乗せられた手を乱雑に振りほどくと、片頬に手を添えるという普段と全く変わらない格好のまま月光を眺める。

 ゴクウは『やれやれ』と言った様子で肩をすくめると、メシュの左肩に手を置いて耳元で優しく囁く。


「あまり根詰めない方が良いぞ。無理そうなら本当に、大勢で固まって袋叩きにした方が確実なんだから……」

「あのね。ゴクウ」


 メシュは普段の微笑みを絶やさず、しかし北風のように冷たい声音で、


「私だって、そう思う。ポウロ国から武官を呼んで、力ずくで囲めばきっと簡単に捕縛できるわ。でもね、それにはこちらへの打撃も考慮しなければならない。神保さんは自分のために仲間が傷つくのを酷く嫌うお方だから、それはできないの」

「メシュ……。本当にお前は変わったな」


 玲瓏な微笑みを見せたまま、今度は春風のように穏やかな口調で問いかける。


「そうかしら?」

「……ああ。ワシはまだ覚えておるぞ。昔一緒に冒険をしていたとき、ワシを樹木に縛り付けて囮として自分だけ逃げたり、盗賊の寝込みを襲って手柄を立てたりしたことを。メシュの元居た世界ではそれが普通だったのかもしれんが、最初出会ったとき、ワシはお前のことを鬼か何かと見間違えているんじゃないかと心配だった」


「あらあら。失礼ねぇ」


 メシュはそう言って肩に乗せられた手を振りほどくと、身を翻して王宮へと歩を進める。

 今晩の出発は不可能だろう。

 今日は休養をとって、朝一で出発しなければ。

 メシュは黄土色に輝く長い髪に指を通し、幻想的な月下に軽やかに流した。








 薄暗さが若干緩和され、徐々に太陽が昇ってくる。

 何とも言えない圧迫感を覚え、寝苦しさを感じた神保は身体を芋虫のようにモゾモゾと動かし、鉛でも塗られたかのように重たい瞼を開き、焦点を合わせる。

 すると、甘美な香りが神保の鼻腔をくすぐり、眼前には鮮やかな色をした細く美麗な髪が広がっていた。


「……あれ。昨晩俺、一人で寝たはずなんだけどな」


 夜中の内に忍び込んだのか、桃色の髪を解いた天使のように愛くるしい魔術師は、神保の胸に埋まるようにして穏やかな寝息を立てていた。

 背中にも何やら柔らかく弾力のある感触を覚え、健康的な太ももが神保の腰をグリグリと撫でる。

 柔らかく温かい手が腰と肩を優しく絡め取り、何とも言えないムズ痒さとくすぐったさ感じる。

 たまには手を出さずに、添い寝するだけというのも悪く無い。


 満足に呼吸ができず、押しつぶされるような不快感に陥っていたが、それはその理由を知らなかったからだ。

 可愛らしい女の子二人に挟まれながら目覚めるなど、まさに天国待遇、素晴らしく心地良い目覚めである。


 しかも今朝は、昨晩何もしていないために欲望や高揚感は頂点に達しており、普段迎える朝と違って賢者では無い。

 少し身体を動かすだけで、前半身いっぱいにアキハの温もりを感じる。


「――ん」


 アキハはくすぐったそうに吐息を漏らすと、現実に存在することが夢のようなほどに愛らしく透き通った桃色の双眸を開き、神保の顔を安心しきった様子でうっとりと見つめる。

 ほんのりと頬が桜色に染まっており、ネコのように細めた瞳が至極魅力的だ。

 神保は腕を伸ばし、抱きしめただけで壊れてしまいそうに繊細かつ華奢なアキハの体躯を抱擁する。

 全身のアキハの体温を感じ、アキハも精一杯手を広げて神保の背中を引き寄せる。


 それ以上はしない、否。出来ないのだ。

 神保は暫しの間、柔らかく温かいアキハを堪能すると、不意に立ち上がりベッドから離脱する。

 幸福感溢れる現実逃避はここまでだ。

 アキハもただならぬ真剣な空気を感じ取ったのか、執拗に甘えることも無く。しっかりと口元を結ぶと、神保の背中に額を密着させ、最後にもう一度だけ精一杯の愛念を込めて抱きしめた。


「行ってらっしゃい。……絶対に生きて帰ってきて」

「――ああ、約束する」


 神保は顔だけ振り返り、穏やかに口元を緩めてみせた。




 ◇




 体内を循環する膨大な量の魔力を感じ、神保は強く拳を握り締める。

 王宮の庭園には二つの転移魔方陣が描かれており、片方にはメシュと萌が静かに佇んでいた。

 辺りには数百人を誇るフリーゼンの弟子たちが集結し、転移魔術始動の最終確認に明け暮れている。

 たった少量でも、戦闘前に魔力を使用しないようにと、転移魔術の発動は今回の戦闘に参加しないフリーゼン集団によって行われることとなったのだ。


 萌とメシュは憂いな視線を向け、ようやく王宮から姿を現した神保を見据え、安堵感の込もった溜息を吐く。

 萌はゼリー飲料のようなものを口に咥え、小さく吐息を漏らしている。

 神保も同じものを指定したのだが、未だに内股気味で接するヴィルヘルに『大事な戦いの前に、そんなサプリメントだけで送り出すわけにはいきません!』と言われ、エネルギーになりやすい朝食をゆっくりと食べさせてくれた。

 実際、それが理由で出発に遅れが出てしまったのだが。


「神保、何してたの?」

「ん、ちゃんと朝ごはん食べないと、外に行っちゃいけませんって」


 まるで夏休みに遊びに行く小学生のような理由だと自分でも感じながらも、魔方陣の上で戦闘準備を調える二人の姿を見据え、気持ちを引き締める。


 今回の相手は“人間に近い生物”なのだ。

 どこの世界から召喚されたのか、実際の年齢はいくつなのか、などの情報は全くもって神保の耳には入っていない。

 リーゼアリスやエーリンから、まるで女の子と間違えてしまいそうなほどに可愛らしい風貌をした男の子だ。とは聞いた。

 さらに、肌の色や瞳の色は神保や萌とほぼ同じであり、二足歩行で肉付きや体格も類似している、とのことである。

 神保はこの世界に来て、殺害の意思を持って殺傷した生物とは、古代龍エンペラーとフィグマンの街にて掃討したオークゾンビのみである。

 中心街に行く途中や無限迷宮を縦に突っ切ったときは、ただただ行く先にいただけであり、悪意を持って殺傷したわけでは無い。

 そのため、人間に近い形状をした生物に完全なる殺意を向けるのは、神保にとって今回が初めてのことなのだ。


 総身が戦慄する。

 今回の戦闘では、容赦や慈悲などの言葉を考えてはいけない。

 それが失敗に終わった事象だったとしても、神保を暗殺しようと卑劣な手を使用した相手なのだ。

 これは帝王として、反逆者を排除するという一種の儀式だけで無く、自身の殺害を試みた相手への全身全霊を込めた復讐でもある。


 神保は二人の顔を交互に眺めると、三人の中心に右手を突き出した。

 萌はそれを見て何を行うかの察しがつき、差し出された手の上に自身の手を優しく乗せる。

 メシュは暫しの間、右手を頬に添えていたが。二人の視線を感じ、その手を頬から離し、包み込むように被せる。


「絶対に勝つわよ」

「ん、」

「あらあら」


 手を重ね合わせるという、戦意を高める儀式を行った後。メシュは「うふふ」と微笑みでフリーゼンの弟子に合図をする。

 その合図に応えるように深紅の旗を高々と上げると、フリーゼン集団が魔法陣に魔力を集結させ、神保たちの周辺を神々しいほどの輝きが包む込む。

 天を貫くように光の粒子が飛び出すと、この世の全てを真っ白に染め上げてしまいそうなほどに強烈な光に包まれ、三人は王宮の庭から瞬く間に姿を消失させた。




 ◇




 澱んだ精神を浄化させるように清らかな朝日を浴び、ユウトは安っぽいベッドを軋ませながら身体を起こす。

 隣では恍惚とした表情を浮かべながら放心状態を保つカレンが寝転がり、若干ふわふわしたように身体を前後に揺らしていた。


 少しやりすぎたらしい。

 相手がカレン一人であり、たっぷり可愛がってくれと頼まれれば、健全な男子高校生を止める術はもう無い。

 野獣――淫獣と化したユウトは理性を失いながらカレンを扱い、カレンは一晩中大好きな勇者様との時間を過ごした。

 お互いに幸福感溢れる表情を見せているが、身体が非常に怠く、動きたくない。

 隣の別室で眠る二人には悪いが、今日一日はカレンとの添い寝を堪能しようではないか。


 ユウトはカレンの頬に手を伸ばし、力無く半開きになった唇をたっぷりと味わう。

 昨晩の扱いのために疲弊しているであろうカレンだが、ユウトのそんな手出しを拒むこと無く、むしろ積極的に舌を絡めてくる。

 ほぼ賢者状態なユウトは、そんなカレンを劣情や愛欲の目で見ず、ただただ可愛らしい一人の女の子として、心から純粋かつ純正な愛念を注ぎ込む。


 愛らしい水滴音だけが部屋に響き、二人の想いは雪のように降り積もっていく。

 お互いに相手を求めずにはいられない。

 ユウトはカレンに覆い被さるような体勢をとると、精一杯の愛情を込めて、その繊細かつ滑らかな体躯を優しく包み込んだのだが。




 刹那。心を締め付けられるように悲痛な叫び声が、ユウトの宿泊する宿屋近辺一帯を地獄のように赤黒く塗りつぶした。

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